女性と建築の半世紀──建築家・長谷川逸子インタビュー

| 067 | 202301–03 | 特集:Mind the Gap

KT editorial board
建築討論
Mar 1, 2023

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日時:2022年12月15日(木)
場所:長谷川逸子・建築計画工房 BY-HOUSE
聞手:今泉絵里花 (I)、成定由香沙(N)、福屋粧子 (F)

長谷川逸子(はせがわ・いつこ)・・・1941年静岡県生まれ。1960年関東学院大学工学部建築学科入学。1964年-69年菊竹清訓建築設計事務所。1969年東京工業大学篠原一男研究室研究生。1979年長谷川逸子・建築計画工房(株)設立、主宰となる。1986年日本建築学会賞、日本文化デザイン賞を受賞。早稲田大学、東京工業大学、九州大学非常勤講師、米国ハーバード大学の客員教授を務めた。1997年王立英国建築協会(RIBA)名誉会員。2000年第56回日本芸術院賞。公共建築賞。2001年ロンドン大学名誉学位。2006年アメリカ建築家協会(AIA)名誉会員。2018年第1回イギリス ロイヤル・アカデミー建築賞。

F:建築界のジェンダーギャップについて「建築討論」で特集するにあたり、日本の公共建築の女性設計者の草分けである長谷川逸子さんにお話を伺います。

長谷川:外国では女性と建築についての議論をすることが多いですが、日本ではあまりないですね。もっとあったらいいのにと、いつも思っていました。AA Files №72 (2016), pp. 20–39では、そのテーマでトーマス・ダニエル氏による私への長いインタビューが掲載されています。

fig.1 長谷川逸子インタビュー/トーマス・ダニエル(2016, JSTORより閲覧可能)

1960年代──工学部へ進学することを反対されて

I:まず学生時代について伺いたいと思います。進学された1960年は大学の工学部に女性が入ることが稀で、高校の先生に工学部進学を反対されたエピソードを先生の著作で読みました。当時のことを教えてください。

fig.2 インタビュー風景 長谷川逸子 BY-HOUSEにて(撮影 成定由香沙)

長谷川:私が通っていた中学・高校は、120年の歴史がある静岡で一番古い学校でした。6年間は思い切り楽しく、いろんなことができたのですが、女学校なので「良妻賢母」がテーマです。良い妻であって、賢い母であるみたいな(笑)。一方、私に数学者の叔父がいて、数Ⅲを教えてくれていました。親は「東大に行くなら大学へ行っていい」、叔父は「京大がいい」と話していました。高3のときに工学部志望と学校に申請したら、学校中が反対を始めました。テニスをやっていると、体育の先生が来て「工学部に行くのだったら、大学は行かせないからな」と言いました。電車に乗っても同級生から、「東大工学部なんかに行かせないように、言い聞かせなさいと先生から言われている」と言われて。

それでもう大学は行かないと思っていたのですが、3月が過ぎる頃、友人から神奈川県の女性のヨットメンバーがいないから、選手にしたいから来てと言われて、関東学院大学の二次試験で大学に入りました。祖父に船に乗せられていたので、船酔いしないし、潮の流れとか風に敏感になれるので、ヨットの勝負も強かったです。

fig.3 長谷川逸子 大学時代 (1958–1962「長谷川逸子・建築計画工房」提供)

大学時代──菊竹さんとの出会い

長谷川:ヨットに夢中になり、大学には行っていませんでした。もう学校へは行くまい、もう大学卒はいらないわ、と思っていました。始業式どころか、2年間行かなかったです。2年生の最後に、3年生になるためには住宅の模型が必要だと分かって、バルサの模型をヨットハーバーで作って、持って行ってもらいました。

3年生の春に、その模型を見た菊竹先生から「京都国際会議場のコンペで、君にバルサの模型を作ってほしい」と突然電話をもらいました。驚きながら出かけましたが、コンペに参加することが、すごく面白かったです。菊竹事務所の土井さんと、事務所で1-⁠2カ月バルサの模型を作りました。その間に丹下さんの国立競技場を見学したり、菊竹事務所に行くことで、いろいろなことが見えてきて面白かったです。大学にいって、もうちょっとやろうかなと思えました。松井源吾先生の構造の授業を受けて大学の授業も面白くなって、構造コースをとりました。そうしたら、建築がずんずん面白くなって、東京藝術大学の大学院の試験も受けて、行くことになっていました。月謝を払ってあるのにずっと来ない人だったと六角さんに言われました。その話を知った磯崎さんは、「なぜ芸大に行かず、篠原研なんかに行ったんだ」と、大騒ぎでした。

その頃、菊竹さんからぜひ事務所に来てくださいと言われて、早稲田の卒業設計の一位を獲る精鋭しか入れない事務所でしたが、1964年に10人目として入りました。

F:当時の菊竹事務所が10人で、女性がひとりでしたか。

長谷川:私が10人目でした。短期で一人やめた女性がいました。他に女性秘書がいました。

I:ヨットの図面や造船の青図を見ていたことと、建築を志したことは関係していたのでしょうか。

長谷川:設計図の青図はきれいで、デザイン的にも素晴らしいです。祖父が鉄工所を持ち、船に乗せてもらったりしていて、船に関係がある環境で育ったので工学的なことを知っただけです。建築は全く周りにありませんでした。当時の造船や土木は、建築にも増してもっと女性を受け付けないところでした。造船分野に行きたくて、横浜のIHIへ一度見学に行きました。「高卒の就職希望ですか?」と驚いて行きませんでした。

大学時代は、ヨットハーバーで船の図面の様なものを描いていました。ヨットも少し自分で設計してみたいなと思って。ヨットは美しくあるものと思っていたら、帆がみんな木綿でできていて、すぐ汚く黒くなっちゃうのです。重たくなって、走りにくくなります。それで帆をテトロンで作ろうと思って、洋服屋さんに白いテトロンを探しに行って、帆を作るおじさんに頼んで縫ったか、自分で縫って、ヨットハーバーのみんなのところに持って行きました。みんなが「俺もこれに変えよう」というくらい革命的な帆でした。

大学に出した住宅模型は、ヨットの模型をバルサで作った残りで制作しました。趣味で油絵も続けていて、友達と銀座で個展をやって、売れると嬉しくて、それまで買っていなかった建築の本を初めて買いました。コルビュジェの本で、今も持っています。

菊竹事務所時代

長谷川:東京藝術大学の大学院に行ったらアアルトの研究をしようと、アアルトの本を集めていました。大学院に行ったらアアルトの建築を真っ先に見に行きます、と手紙も出してありましたが、菊竹事務所に就職していました。

菊竹事務所に入って2年目に、銀行のインテリアを全部任されました。日本にない家具を探して、春にイタリアやデンマークである家具展に合わせてヨーロッパに一ヶ月滞在しました。菊竹さんが、ジオ・ポンティなどたくさんの建築家を紹介してくれて会うことができました。ジオ・ポンティに名刺を渡した時には、アーキテクトと名刺に書いてあっても若く見えたようで「女学生が名刺を持って歩くんじゃないよ」と名刺を直されました(笑)。ロンドンでピーター・クックたちの新しい動きを知り、フランスで学生運動が起こっているのも知り、日本で紹介されてない新しいものを知って。最後にフィンランドに行って、アアルトに会えました。手が震えました。面白くて、フィンランドに10日ぐらい滞在してしまって、菊竹さんに帰国が遅れますと電報を打ちました。親が心配して大変でしたが、当時のヨーロッパをいろいろ見ることができました。

帰国後の仕事はきついもので。重労働でしたね。菊竹事務所は。女性1人しかいなかったから。

fig.4 長谷川逸子 菊竹事務所にて (1963 撮影 内井昭蔵「長谷川逸子・建築計画工房」提供)

F:当時は長時間労働と伺いますが、何時から事務所で働きましたか。

長谷川:9時から始まって菊竹さんは夕方には帰りました。朝は、早くに行かないと菊竹さんが来て怒られちゃうんです。遅れてくるのは富永さんぐらいです。菊竹さんが夕方に仕事をいっぱい置いていくので徹夜したり、田中一光さんのところへ行くのは土曜日だし。「カタ」というグループで実設計をする、もうひとつ現場のインテリア、家具、照明などを決める仕事をしていて、5年間なかなか休めなかったですね。ものすごく痩せてしまいました。

N:38キロになってしまったとインタビューに記録がありました。

長谷川:そう。篠原研に行ったら、「浅丘ルリ子」ってあだ名がついて。やめてほしかったです。篠原先生まで呼ぶから。それほど痩せていました。その後10年ぐらいは東京工業大学にいて、体調がよくなってから独立しました。

篠原研究室時代

N:東京工業大学時代の話を伺います。1969年に篠原研に入ったときに初めのゼミで「男と女について」という議題があったそうですが。

長谷川:ゼミのタイトルだったと思います。篠原一男がみんなを集めて、「女性は建築家としてやっていけるか」というような内容でした。それまでの篠原研究室にも日本女子大学出身の女性は来ていたようですが、私が研究生で入った時は、既に設計事務所で働いた人が来ると言うことで、そんな議論になったようです。

しかもそこにすごい格好をして行ってしまったんですよ。ちょうどミニスカートがはやっていた時です。髪を染めて、ミニスカートと長ブーツなどイギリスでたくさん買い物をして、皮の白いシャツを着て、格好つけて行ったら、それがまた篠原先生にとっては、また…。変な格好をした人だと思われた方だと楽だなと思ってそうしたのですが(笑)。

I:かっこいいですね。

fig.4 左 篠原研究室お花見/右 長谷川逸子 篠原研究室にて (ともに1968–70ごろ「長谷川逸子・建築計画工房」提供)

N:以前の書籍で印象的なエピソードがありました。篠原研の4年生の女性に、「女だけお茶くみや雑用をするのはおかしいわよ。不公平じゃない?」と聞かれて。「そんなふうに思うのだったらやらない方がいいわ」と答えたと。ミニスカートの話もそうですが、長谷川さん自身が女性であることを意識されつつ、一方、あまり待遇が良くない場面もある中で、自分らしさを保てた考え方のきっかけや、軸になるものはありましたか。

長谷川:菊竹事務所で使っていたHBステッドラーでスケッチも図面も書く。先生は5Hとかそれ以上のかたい鉛筆を使っていた。模型も紙やバルサでつくる私。先生は粘土。しばらくすると鉛筆をすて粘土をすて、私と同じように描きだしたのを心配しながらみていました。篠原研では紅茶を3時に淹れることになっていました。大学院生で当番が決まっていました。掃除も当番が決まっていて、私が一番駄目で、しょっちゅう篠原先生に怒られていました。掃除しておらず「寝坊したから昼休みにやります」と言ったら、「そんなことができないならやめろ」と何度も言われました。先生のスケッチに向って意見を言うたびにも何度もやめろと言われていました。お茶を淹れるのは当番制でした。篠原先生にお客さんがいらっしゃった時に、女性がお茶を淹れてと言われることもありました。

お茶を淹れることで、すごくいいことがありますよ。卒業した4月に、丹下先生が昼休みに菊竹事務所に訪ねてきて、部屋には菊竹さんしかいなかったのです。私は昼までに提出しなければならないものがあって、一生懸命何かをやっていたのです。そこに菊竹さんが、「お茶を淹れてくれる人はいる?」と。私がお茶を出したら、「こんな美味しいお茶を淹れる人がいるのか」と、丹下さんがすごく喜んでくださって、自己紹介をしました。私は静岡で生まれ育ち、親からお茶の淹れ方をうるさく教わったからでしょうか。それからは、博覧会の菊竹さんの仕事でも丹下さんのところへ届けものをしました。ハーバードに客員教授で行ったのも、丹下さんの紹介でした。展覧会も丹下基金で。すごく良くしていただきました。あの時のお茶かな?と思います。

何かに属したことがないですから。確かに、お茶というのは、よく考えると日本の作法の中では難しいことなのですね。お茶くみは雑用ではない。雑用で淹れたお茶では、丹下さんに好かれないわね(笑)。丹下さんとはそんな思い出です。

男性トイレしかなかったので上の階のトイレに女性トイレと紙を貼ったら、自分で管理をしっかりするよう強く言われたり、花が好きだから時々持ち込むと枯らすと二度と持ち込ませないからと、やさしい人でしたがこわいところありました。

住宅設計時代

長谷川:若い時は身近にいる人、つまり親戚とか高校の友人とか東京工業大学の助手の人とか、知り合いの住宅しか作っていませんでした。木造住宅での現場は大工さんです。大工さんは女性と仕事をすることが、とてもうまい。大工さんは、昔から男性ばかりでなくて、クライアントの奥さんとも話をするわけなので。いつも大工さんに恵まれて、木造をやっているときはずいぶんと楽しく、教えてくれることもたくさんありました。建築を男性のものということを思わないで楽しく仕事をしている時期がありました。

I:焼津の初期の小住宅のころでしょうか。

長谷川:そうです。ローコストだけど。家具も大工さんが協力してくれるし。お金がないからキッチンも既製品を買えず、作ってもらうのですが。特注品もすごく丁寧に、協力してくれる感じでした。木造住宅づくりはずっと楽しい場所でしたね。

fig.5 長谷川逸子/焼津の住宅2(1977 藤塚光政 撮影)

I:私も焼津で、当時の小住宅を施工された工務店さんとお仕事をしたことがあります。地域性というのもあるのでしょうか。現場で女性は私1人でしたが、大工さん、監督さんをはじめ職人の皆さんが、作りながら木造のことを学ばせてくださいました。そういった職人さんとお仕事ができることは幸せですね。

長谷川:あの三角形の家(焼津の住宅2, 1977年)は、東京工業大学の大学院の面倒を見ている時期に、学生が木造を知らないので、木造を組み立ててみよう思って始めました。まるで模型のごとく。工務店さんに相談したら、快く、「いいよ、120角の材木がいっぱい余っているから作ってみれば」と言われて。当初はあとで壊すと思っていたのでしょう。45度と90度の金物はうちの工場で作ってくれました。学生と焼津に行って、上棟式をやりました。学生の実験用のプロジェクトとしてスタートしたのですが、面白いので壁も屋根もやっちゃおうと私の焼津のアトリエにしようかなと思っていたら、若い人が住むことになりました。

fig.6 長谷川逸子/焼津の住宅2 模型(「長谷川逸子・建築計画工房」提供)

篠原研にいる間に作った住宅はすべて木造で、今でも全部残っています。40-⁠50年経っていますね。建築を焼津で木造住宅からスタートしたので、嫌にならず、楽しいものだと思っていました。

公共建築の女性設計者

長谷川:独立した時は、大変でした。最初の松山の仕事(徳丸小児科, 1979年)で、大手の施工でしたが、地元の左官屋さんが「打ち放しなんていうのを四国に広めさせない!」と言って、お正月に、建物に勝手にモルタルを全部塗ってしまった。クライアントは「打放しを頼んだのに!」と怒っているし、どうしようもない。何か仕上げをしなければいけなくて…。他には、樋にものを詰められたりもしました。一番初めの仕事でした。独立早々に、そういう職人にいじめられました。それでもまだ民間の仕事は、クライアントが頼んで私がそれに応える、ということで大丈夫だったのですが。

その後、1985年湘南台文化センターのコンペで入賞して、それ以降は、もう何かを頼まれても知らない人と仕事はしない、というずうずうしいことを言って、2010年ごろまではほぼ公共建築しかやっていなかった。知らないクライアントとは、施工の問題になってもなかなかカバーしてもらえないですからね。クライアントは私に対して、とても信頼関係を持っていますけど、施工者の方、特にその社会、地元で幅をきかせる電気屋さんとかが女性が建築家というのはどうも納得がいかない。「女性である」ということで、民間の仕事でも、わざわざトラブルを起こしてくることもあるわけです。それほど、女性建築家っていうのは大変だと、肌で感じました。

I:女性設計者でよかったなと思うことはありますか。

長谷川:民間の仕事をしてテレビに出ると、知らない人から頼まれることが多くなりました。私は一切を断っていたので、事務所でNOという人と言われていました。営業も一切せず…。女性としてできる形でしかやらない、と考えていました。知らない人に会うのが怖かったのです。住宅のクライアントはみんな知人で、松山の人も徳丸小児科の先生が紹介してくれて、徳丸邸を見て頼んでくれた方とだけ仕事をしていました。意識として、わりと怖い世界だなというのを、菊竹さんの仕事を通して感じていました。だから羽ばたいて仕事をするより、なるべくマイペースで、クライアントという支援者がいる仕事をしていたと思います。それは建築業界でなかなか女性が評価されていない時代を生きていたからだと思います。

公共建築の設計コンペの一等で入っても、ちゃんと理解をしてくれる人ばかりではないです。湘南台文化センターのコンペに入選した時も、設計が終わった途端にバブルになって、工事費が合わなくなりました。市長さんは自分も審査員だったから支援してくれました。何とか作り上げましたけど。バブルになって木造が坪300万というときに、一期工事は坪100万で、もともと厳しいところに、プラネタリウムを市民要望で広げたりすると、もう難しい。それで、本当はやっちゃいけないことですが、事務所スタッフで天井にビー玉を埋めるといった手仕事をしていました。設計者なので本当は工事してはいけない。役所に訴えられちゃうのですが、ローコストでやむを得ずでした。目につかない夜中に行って朝帰るとか。建設会社の人も支援してくれないし、最初の公共工事の仕事で、体力的にもすごい苦労をしました。二期工事はどう見ても作れない。音楽ホールのドームにアルミ貼りだけど、モルタル仕上げしかできないと、施工会社から言われて困っていましたが、ロサンゼルスへ行ったときに、芸術家に教えてもらったものに助けられました。

今もその棚にありますね。白いアルミの瓶をとってください。

I:この瓶はアルミですか?軽いですね。

長谷川:軽いです。芸術家が「重たいけど持って帰る?」と持たせてくれて、手に持ったら軽かったのです。チタンパウダー吹付けでした。すぐに建築の仕上げに使うことを考え、モルタル仕上げに吹付けパウダーを使うために、ロサンゼルスに飛んで小さいポンプを十個買ってきました。三協アルミにパウダーを作ってもらって、皆ではしごをかけて登って仕上げができました。建築家がやるのは違反行為だといって、現場で壊す役人もいました。

fig.7 長谷川逸子/湘南台文化センター 模型(「長谷川逸子・建築計画工房」提供)

その後のすみだ生涯学習センターでもずっと苦労は付きまといました。すみだの現場では、設計とは違う塗装材料を使われてすぐサビが出てしまいました。今はリフォームしてきれいですが、いろいろな問題がつきまといますね、公共は。地元のこととか、お金のこととか。苦労しました。

I女性設計者による公共建築プロジェクトで、設計時、現場での思い出はどうでしたか。

長谷川:やっぱり、一番の苦痛は、女性建築家が嫌いなスタッフが、男も女もいることです。

F:行政にもいるし、施工者にもいるということでしょうか。

長谷川:施工者より下請が多いです。コンペだからコンペ時の作品はできるのですが、プロセスではやっぱり、他の建築家より私は苦労をしているかもしれません。女性というだけで。私は学歴がないし、女性であるし、あと当時若かったですから。山梨フルーツミュージアムまで苦労しました。その後の新潟市民芸術文化会舘とは全然違います。

F:後輩の私たちから見ると、湘南台文化センターコンペ以降は、長谷川さんは順風満帆なのかと思っているのですが、そうではないのでしょうか。

長谷川:ずっと公共建築のコンペに挑戦して…連続で入賞していきましたが、取る度に…段々、友達をなくしていく感じがありました。もう最後だから言うけど、建築家の男性の嫉妬深さにいじめられていましたね。篠原先生でさえ、段々冷たくなってくる。

I:ジェラシーですかね。

長谷川:建築の審査で地方に行った時に2年続けて、長谷川がコンペを取っているのは、先輩の建築家たちに好かれるからだと言われました。東京の建築家は、長谷川が審査員を動かしているのではないか、とも言いました。

コンペを取る度に、ずんずんずんずん、友人が遠のいていくのです。途中でもう建築をやめちゃおうと思うくらいでした。嫉妬深い。自分もそうなのか、よく分かりませんが、すごいものです。木造建築を作っていた頃は、みんなでお酒を飲んだり、しょっちゅう騒いだりしていたのですが。だんだんと…、いじめを受けている感じさえありました。

F:長谷川さんが社会の中で優遇されているのではないかという疑惑を、周りが持ったということですか。1985年から2010年代まで、長谷川さんは毎年のように公共建築を発表していました。

長谷川:学歴もないし、優遇されるはずがないと、自分では思っているわけですが。コンペは、やりたいと思ったコンペに出すと入りました。それで湘南台文化センター以後はずっと公共建築の設計をしていました。その頃は名前を伏せた、誰が出したかわからないデザインコンペでした。その後、悪いうわさがいっぱい出てきました。ある時から公共建築の選定が「プロポーザル」に変わって、学歴や設計者の人数とか何かに変更されました。その後プロポーザルは、一度やっただけです。

N:湘南台文化センターのコンペで入賞する前には、建築雑誌『SD』1985年4月号で、長谷川逸子特集が組まれています。掲載されたインタビューは『建築のフェミニズム』と題されていますが。

長谷川:フェミニンな建築のインタビューですね。タイトルをつけたのは、SD編集長の伊藤公文さんで、書かれていませんがインタビュアーは多木浩二さんです。インタビューを読んだ同世代の建築家の一人が、事務所の1階の昔ピロティだったところへ来て、「建築のフェミニズムというタイトルが気に入らない!」と大声を出して、暴れて、近所の人が訴えて警察が来ました。彼はエキセントリックな人でしたが、女性は建築をやるべきではないという論法を当時は言っていました。今では娘さんも建築の仕事をしていると思いますが。この文章が気に入らないと騒いで、それから私へのいじめが始まりました。

日本と世界の女性設計者

F:日本建築学会が募集対象期間に竣工した優れた作品を掲載している『作品選集』を事例として参考資料を作成しました。2021年に名前を載せている女性建築家は、設計者全体の12.3%です(ヒッチハイクガイド 03参照)。1990年代から増えてはいますがいかがでしょうか。女性建築家が、今の日本と海外でどういう位置にあるか、長谷川さんの感想があれば伺えますか。

長谷川:アメリカとヨーロッパ、日本でも、レクチャーや設計スタジオをやってきましたけど、どこでも女性は優秀です。大学では、菊竹事務所時代から女子美術大学のインテリアで教えたり、早稲田大学に呼ばれて教えに行ったりしました。女性の学生は少なかったですが、生活とか住宅に則して考えることと、話と提案がうまかった。

最後は関東学院大学で教えていました。言葉の中に、建築を先に進める力があると思って、設計製図の中でカフェのような授業を始めました。みんなとおしゃべりをするのです。建築思考について、社会について考えること、または自分の人生観でもいいのですが。女性の話は生活に根差し、自分の趣味や洋服のことでも、何を話しても建築的です。論理的でもあるし、空間的でもあります。話の輪に女性が含まれていると、面白い上、反応する周りも変わります。だから女性が建築界にいるということをもうちょっと主張すると、建築も変わると思います。増やさないといけないですね。半分までとは言わないけど…40%ぐらいにしてほしい。ハーバードGSDでもどこでも50%近くの学生は女性です。

ヨーロッパでは、レクチャーに行ったクロアチアで、驚いた経験があります。戦争していたのに建築家のレクチャーに一万人も集まっていました。なぜこれほどかというと、若い人はみんな家を壊されていて、これから建築家になりたいのだと言っていました。女性もその会場にいっぱいいて、自分の家を作りたいと熱意がすごかった。みんな泊まりがけで来ていました。2022年のワールドカップでもクロアチアはサッカーが強かったですね。美しい風景が印象的で、中心部には近代建築がたくさん建っている、不思議な国です。レクチャーの後、クロアチアの作家が本を作りました。クロアチア語で読めないのですが、図版で大体わかります。歴史を紐解いて、ピラミッドの時代には女性が建設にどう関わったかとか、ナイチンゲールの時代には病院を作るのにこういう人が、と建築と女性のヨーロッパの歴史を記述し、最後にイツコ・ハセガワが出てきます。

fig.8 左 湘南台文化センターの外装のヒントになったアルミパウダー吹付のビン/右 Žena u arhitekturi: Sena Sekulić-Gvozdanović 書影(「長谷川逸子・建築計画工房」提供)

そんな極限状態でも多くの女性が建築に興味を持っているとすると、どこの世界でも、女性が参加することを願ってはいると思うのです。でもやっぱり近代化という歴史が上から押さえている感じでしょうか。たくさん社会に出ていくことによって、日本から変わればいいですよ。日本には女性建築家が一番大勢いますから。アジアの中でも一番多いと思います。中国では多くがインテリアデザイナーで、女性デザイナーも大勢います。建築設計は外の人に頼むので、中国のコンペでも私はいくつも入賞しました。今はホテルを設計しており、バブルの前はオフィスビルを10棟建てました。日本のプロポーザルを止めて、外国のコンペをやっています。

F:Jane Hall “Breaking Ground : Architecture by Women”(2019年, Phaidon)という本が出ました。多くの女性建築家の212作品をまとめた本です。内容は、設計クレジットが女性建築家単独の作品と、それに加えてパートナー(★1)で設計した女性建築家が掲載されています。

長谷川:外国の女性建築家は、多くの女性は妹島和世さんのようにパートナーで仕事をしていますね。単独の人は少ないです。外国のコンペに入ってインタビューに行くと、パートナーはどうしたのだと必ず言われます。いませんと言うと、パートナーがいなくてやれるのかと驚かれることすらあります。

私は1980年代から1990年代まで、たくさんの外国のコンペをやっていました。1994年イギリスのカーディフベイ・オペラハウス・コンペ案は、カーディフで高く評価され、レクチャーをしました。カーディフ湾のドックから進水する新しい船「オペラシップ」という見立で、歴史的風景の再生の提案でした。しかし「イギリスのオペラハウスを、日本の女性にやらせていいはずがない」と新聞に書かれました。

fig.9 カーディフベイ・オペラハウス・コンペ模型写真(大橋富夫 撮影)

フランスの田舎のホテルに泊まっていたら、女性が大勢やってきて、フランスでは女性が建築家になれないと言っていました。現場に行ったらトンカチが落ちてくるしね、と言って、女性がフランス社会の中で建築をやる難しさを訴えていました。私がフランスの複合施設のコンペに一等になったときも、フランスの事務所が協働しようと一緒に始めたのですが、お金の問題でうまく行きませんでした。フランス語を話せない建築家とやれないと言われたこともありました。国際コンペを英語で取ったのになぜそんなことを言うのだと思ったのですけど。そういうのを通して、いろいろ難しいと感じることがありました。怒って、やめてしまいました。

海外のコンペで一等になっても、必ずブレーキがかかります。新潟市民芸術文化会舘までずいぶんとコンペの一等になっていますけど。

つまり女性が活躍すると、退治されることが、当たり前のように私の時代には起きていたと思います。ジェラシーかわからないですけど、日本だけじゃなくて、世界中で。マレーシアで一等になったときに、マレーシアのマハティール大統領と新聞対談をしたら、呼び出されました。その後にマレーシアの建築家協会が、あなたはライセンスを持ってないから設計から降りろと言ってきました。黒川紀章さんには空港を作ったときにマハティールがあげていたので、もらいに行ったらと言われましたが、やめました。外国で仕事を1人でやっていると、スムーズではいきません。

F:日本では女性建築家が数も多く、外国ほど抑圧されてない可能性はありますか。

長谷川:日本で女性建築家の数が多いのは、私と一緒で、住宅をスタートとしている環境が良いです。その続きで、少しやり方を覚えてから建築に入っていきます。大きく成功している人やインターナショナルに活躍できる人はみんな、パートナーを持ってやっていますね。

単独で活躍している建築家としてザハ・ハディドがいましたが、彼女も後年はビジネス・パートナーを探していました。ロンドンの学生コンペを一緒に審査した頃によく話しましたが、「何で長谷川は仕事があるの?」と言っていました(fig.10右)。シューマッハ(★3)が入ってから、ザハ・ハディド事務所の仕事がものすごい勢いで増えたと感じます。それまでイギリスでどんなにコンペをやっても入らなかったし。いつも嘆いていました。パートナーが必要だと、いつもザハは言っていました。一人じゃダメだ、ヨーロッパは、と。日本だって、本当はダメだよ、と返しました。

fig.10 左 イギリスのカーディフでのプロジェクト説明会 (1994)/右 学生コンペ審査での長谷川逸子とザハ・ハディド(ともに「長谷川逸子・建築計画工房」提供)

F:長谷川事務所には、外国籍のスタッフはいましたか。

長谷川:オペラハウスのときは、ハーバードとロンドン大学からも来ていて、外国籍スタッフが10人いました。カーディフベイのコンペが始まる前に、「ヨーロッパのホールを全部見れば、何がいいかわかるぞ。」とヨーロッパのアラップに言われて、ヨーロッパ中のホールをイギリスからフランスやドイツとか、すごい強行スケジュールで回る旅行をして、その後みんなで設計をしました。すごく熱心にカーディフベイ・オペラハウス・コンペは取り組んだのです。

I:もしそこで進んでいたら、全然違った展開があった可能性はありますね。

長谷川:そうなんです。イギリスでもフランスでも、たくさんのコンペをやっていましたから。でもいつも、パートナーのことで、止まってしまう公共建築コンペが多かったです。

ついこの間、ハーバードGSDのインタビューで突然、「なぜ日本には女性の建築家がいるのか?」と質問を受けました。確かに、アメリカには女性建築家はほとんどいません。なれないのです。教育者とか評論家には多いですが。ハーバードにも客員教授で行きましたが、学生は半分近く女性です。

アメリカの社会は、特別なビジネス社会です。公共建築であってもディズニーなどの民間がお金を出して作ります。大金持ちのクライアントたちですが、彼らは女性が好きではないと感じます。そのインタビューで私が、「どうしてか解らないですが、クライアントが男性だからと聞いています」と言ったら、「いや違うよ。女性がハーバードに来るのは、ここには将来優秀になる男性が来ているから。もしくはお金持ちが来ているからお嫁さんになるため来ている」と言う。私が教えた限り、ハーバードの女性たちは世界中から来て優秀だし、そういう感覚はなかったと言いましたけど。2021年にそういうことがありましたが、女性蔑視の話を私のインタビューに載せてほしくないと伝えました。アメリカに行くと女性の評論家も先生も大勢いるのですが。でも最近はカナダの女性建築家が大きな集合住宅を作ったらしいので、段々と女性が活躍しだしているのではないでしょうか。アメリカでも変わってくればいいですね。大学は立派ですから。なかなかに、男性が創ってきた、頑固な系譜がありますね。

ジェンダーと建築デザイン

F:最後に、答えにくいとは思うのですが、お聞きします。長谷川さんの作品の建築デザインの中で、ジェンダーもしくは女性であることが顕れていると思いますか。

長谷川:さあ、どうでしょうか。自分の考えを表現したいとやってきました。私の設計は、湘南台文化センターでも、スタッフに最初はやらせておくのですが、正月休みに真っ黒になって自分でスケッチを描いて取り組みました。ファーストイメージを自分で作っていました。好きなのです。新潟市民芸術文化会舘も湘南台文化センターも、構造まで自分で考え、私が大学のときに考えた構造で続けています(笑)。当時のコンペの段階では構造は全部自分でやっていて、民間の仕事はスタッフにやらせていました。山梨フルーツミュージアムは、当初、構造家が計算してくれませんでした。鉄骨フレームをジョイントなしで溶接で作りたいとロンドンでレクチャーしたところ、ロンドンの構造家がやってくれることになったんですけど、「こんな構造はできるのか?」と進まなくなったので、横浜のIHIにロンドンから相談しました。溶接で作りたいと伝えたら、分割して搬入したらできると言われて、ジョイントなしの構造で作ることができました。

F:中盤で、男性的な建築界が女性建築家を上から押さえつけている話がありましたが。これから、何が変わっていけば、女性建築家の数が増え、活躍の場が増えると思われますか。

長谷川:すごく頑固な、岩を砕いていくような、そんな感じが、私にはあります。日本の若い男性たちがもっと積極的に、外国へ出ていったらいいと思います。パートナーシップを組み、女性の建築家の実力も加える。私のように一人で事務所を構えている人は特殊で、ほとんどの外国の建築家はみんなパートナーを組んでいます。そこが突破口ではないでしょうか。日本の若い男性たちは優秀だから、もっと積極的にパートナーを組んで行くといいのではと思います。

F:協力して突破口を開いて、海外のプロジェクト、日本の公共建築をもっと良くしていかないということですね。

長谷川:そういうことですね。私の事務所で2016年からはじめた『建築とアートの道場』も再開予定です。若い人にもアドバイスし応援したいです。頑張ってください。

fig.11 インタビュー風景 BY-HOUSEにて 左:今泉絵里花/右:長谷川逸子

I/N/F:お話からたくさん勇気をいただきました。ありがとうございます。■

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★1:本インタビューで言及されるパートナーはビジネスパートナー、仕事上のパートナーを指す(婚姻関係および配偶者とは異なる)。筆頭建築家複数人で構成するパートナー制を採るアトリエ系設計事務所も多く、そのほかに単独の筆頭建築家に加えて大きい権限を持つパートナーがいる場合もある。
前者の例は、オランダの建築事務所MVRDVで、3人の設立パートナー(共同設立者)に加え7人のパートナーがいる。後者の例は、デンマークの建築事務所BIGで、単独建築家インゲルスによる設立3年後にマイニ・ソガードが加わり、最高経営責任者兼パートナーとなった。現在はそのほか21人のパートナーがいる(2023年2月時点)。パートナーの事務所経営・デザインへの関与レベルは事務所によって異なる。

★2:カーサブルータス2018年長谷川逸子インタビュー参照

★3:パトリック・シューマッハは1988年からザハ・ハディド事務所で働き、2002年より同事務所のパートナーとなった。2016年のザハ・ハディドの死去以後は、シューマッハが事務所代表となった。

fig.6 長谷川逸子/焼津の住宅2 模型(「長谷川逸子・建築計画工房」提供)特集画像

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建築討論

建築討論委員会(けんちくとうろん・いいんかい)/『建築討論』誌の編者・著者として時々登場します。また本サイトにインポートされた過去記事(no.007〜014, 2016-2017)は便宜上本委員会が投稿した形をとり、実際の著者名は各記事のサブタイトル欄等に明記しました。