寺井元一 インタビュー「ストリートから学ぶ都市の作り方」前編

笠置秀紀
建築討論
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16 min readApr 15, 2019

連載 [ 都市論の潮流はどこへ “ローコスト・アーバニズム” ] 04/Series [ Where the urban theory goes? “Low-Cost Urbanism” ] 04/Motokazu Terai Interview : Learning from the Street, the new way of making a city.

ストリートから学んだこと

笠置:現在の都市の作り方にはストリートアートなどのカルチャーが背景に大きく関わっています。その背景や文脈の話から進めていきたいと思います。当事者は肉体的に分かっているけれども、そうではない様々な人たちが文化的なまちづくりに注目した時に、その根っこの部分が分からない、ということが起き始めています。

その際に合法的にグラフィティを描けるリーガルウォールのオーガナイズをされていた寺井さんの経験は重要だと思われます。グラフィティアーティストが記号と身体によって一晩、一瞬にして場所を変えてしまうようなことと、いま寺井さんがやっていることのつながりから伺ってもよろしいでしょうか?

寺井元一氏

寺井:僕のまちづくりの原点のひとつに、グラフィティの背景にあるストリートカルチャーがあるのは確かです。具体的には、渋谷や横浜でリーガルウォールやストリートバスケの活動を事業化していた20代の頃に、グラフィティライターやストリートボーラーたちとの交流があり、そこで本質的なストリートカルチャーに触れました。そこで見たものは、一人から始まるボトムアップな行為が「どこでも・いつでも・どんな状況でも」繰り広げられ、草の根で仲間を増殖させながら生態系が生まれる様子でした。

さらにその生態系のなかで、一時の失敗には目もくれないような試行錯誤のなかでアウトプットが生まれていました。最近ではBANKSYも一般的に知られる存在になりましたが、グラフィティの流れからアーティストになった人も出現していますよね。こうやって文化やムーブメントが起きていくのか、と実感しました。

笠置:ストリートカルチャーから都市にボトムアップしてくる事象を、都市の作り方へ本質的に活かす良い方法はあるのでしょうか?

寺井:そういったストリートの活動は、その後のマーケティング業界におけるポップアップストアやゲリラマーケティング、都市計画におけるタクティカル・アーバニズムをはるかに先取りしています。僕の個人的な意見としては、タクティカル・アーバニズムを理解するとき、「街の余白的な空間で○○な活動をすることで~」といった教科書的な学び方より、ストリートカルチャーにまつわる経験をするほうが本質から理解できると思います。それが僕にとっては「現代的なクリエイティブとは何か」という学びに繋がっているんですね。

グラフィティの特徴は「可視化」です。現代的なまちづくりは試行錯誤を積み重ねていく必要があるんですが、その際には単純にコストの問題だけでなく、成果が見えにくいから応援されづらいという、試行錯誤以前の問題を抱えてるんですね。だから早い段階から、見てわかる一定の既成事実を積み上げながら活動することが必要になってくる。もちろん、一番の可視化というのはお金が動くビジネスの成功です。ただ、その可視化が起きるまでにはお金がかかるし、失敗できなくて試行錯誤が許されづらかったりする。ここがITビジネスとまちづくりの大きな違いです。

ローコストで、スピーディーで、直接的に可視化が起きるグラフィティから、確かにまちづくりは学ぶところがあるでしょう。実際、グラフィティをマイルドにしていくと、まちづくりの側面からはある種の地域アートプロジェクトやタクティカル・アーバニズムになっていく。地域アートやタクティカル・アーバニズム、といった言葉でクリエイティブなものとまちづくりの接点を理解している人が多いと思うのですが、本質はストリートカルチャーの価値観や手法のほうだと思いますね。

映画から街へ

ストリートバスケットのイベント「ALLDAY」の様子(画像提供:NPO法人 KOMPOSITION)

笠置:寺井さんは大学では政治学を専攻されていて、最初は政治家を目指していたとも伺っています。最初に街に携わるきっかけはリーガルウォールだったのでしょうか?ストリートバスケのオーガナイズもやられていましたよね。

寺井:活動の母体となったのは仲間数人と設立したKOMPOSITION★1 というNPO法人で、「表現者に活動の場と機会を提供する」ことを掲げていました。設立当初から思っていたのは「まちづくり」というより、「同世代の人生を豊かにしたい」ということです。そのときの豊かさというのは、自己実現の旅の強度をどれだけ持てるか、自分の夢をどれだけ追えるか、チャレンジできるか、といったことでした。活動初期は、僕も仲間と映画をちょっと撮っていた時期があって、同じく映画を撮っている先輩を応援したいねという話をしていたこともあったんです。

「自己実現の旅の強度」的な豊かさを実現するためのハードルはたくさんありますよね。例えばお金が足りない、というのもそうです。でもそれを言ったところで始まらないわけじゃないですか。そんな折に、グラフィティライターに出会った。彼らをある視点から見れば、お金の豊かさではなく「人生の豊かさをどう作れるか」という視点で動いています。彼らの豊かさは「誰かに知ってもらえる、自分のグラフィティを見せつける、誰かと繋がる」といったような、お金じゃ買えないものばかりです。

笠置:彼らを突き動かす内的な力にはとても惹きつけられます。一方で時間が経つと街で見かけなくなるグラフィティライターも多いという感覚はあります。

寺井:グラフィティやスケートボードはそもそも街でできないじゃないか、という話に行き着く。だから、そこには市場も生まれないし、応援する人も生まれない。誰からも後押しされなければ、続かない。そういう世界を変えたいと思ったときにお金も実績もネットワークも無く悩み、誰もが自由にできない問題を抱えている「街」を扱うのが一番いいなという視点に変わりました。「まちづくりをやる」というよりは「同世代の若者の自己表現の場所をつくりたい」「壁をひとつの場所としてグラフィティを描ける持続的な仕組みをつくりたい」って思っていたんです。

「既にある資源」みたいなもの

寺井:映画をつくっていた時代の話に遡りますが、映画監督を目指す知人を応援しようと考えたときは、安直なんですが「映画館を建てるしかない」という話になった。でも、映画館は必要だけど、場所もお金も必要だし、儲かるかどうかも分からないとなったところで挫折したんですね。

その時、「街」を扱う視点に行き着いて、街に放っておかれている「既にある資源」みたいなものを使って出来ることをするのが良いなと思ったんです。映画館をつくるにはお金や人脈といったハードルが待ち構えているけれど、壁をキャンバスに見立てたとき、落書きと呼ばれてきたグラフィティをアートに昇華させるハードルは熱意とか行動力で超えられるものだったんですね。

笠置:映画館という箱から、街へと開かれていったわけですね。他に着目されていた資源はどのようなものがあったのでしょうか?

寺井:その時は「街の中にある立面で何かをできたら、次は平面でも活動したい」とよく言っていました。立面というのは壁で、平面というのは地面だったんです。そこでストリートバスケの企画が生まれて、当時渋谷にあった美竹公園や、今も大会を行っている代々木公園で活動するようになりました。僕が街に関わっていったのはそういう流れです。最終的に立体そのものというか、「自分がやりたいのは街だな」ということに気付いていきました。

これはもうまちづくり、不動産なんじゃないか?

笠置:「街だな」と気づかれた時に、具体的に想定されていた街はあったのでしょうか?

寺井:特になかったんです。ただ、2008年か2009年ぐらいに、もう渋谷に居ても仕方ない、という気持ちが湧いたんです。ただし、その気持ちに至る流れとして、過去にあれこれ考えた結果、渋谷に来ていた、というのがあるんです。まだ法人化もしておらず、リーガルウォールも手掛ける前、2002年ぐらいに僕らは、今の六本木のミッドタウンの裏側にあった某物件に小さな事務所を構えたんです。実際に事務所を置いてみて、六本木はおっさんばっかりで、何かやっても応援してくれる人や見てくれる人がいない、という感覚がありました。

一方で、当時の2000年くらいの渋谷というのは、あらゆるものが始まっている感覚があった。裏原ブームの後、チーマーやルーズソックスといった一世を風靡したムーブメントを生んで、ビットバレーと呼ばれてITベンチャーが集まっていて、レコード屋や若い世代のクラブが集まっている、そういった印象が渋谷という街にはありました。そういう渋谷で活動をはじめる、いわば旗を立てると誰かに見てもらえるという気がして、六本木から渋谷に事務所を移したんです。

笠置:六本木は当時まだバブルの残り香みたいなものがありましたね。一方で渋谷は全てを飲み込み、全てを加速させるような力がうごめいていました。

寺井:当時は、自分が居る街へのアイデンティティ意識みたいなものこそあれど、それを「まちづくり」と思ったことはありませんでした。結果として、リーガルウォールやストリートバスケのプロジェクトを進めていくなかで、メディアから注目されたりや仲間が集まってくると、街に後押しされている感覚がありました。一方で町内会なども絡んで規模が大きくなっていき、それらが継続的になっていったときに、許認可が必要になってくる。

たとえば、壁画にしても一定以上の大きなものを手がけようとすると、足場をかけたり、警察にも届け出をしないといけない。行政、市役所にも当然申請は必要だし、景観規制のこともあれば、町内会や商店街の人たちに個別に会い、地主の人に合意書を取ったりしなければいけない。まちの一部を扱うだけで、やるべきことがこんなにある。

笠置:自由の象徴のようなストリートも、合法的になにかを実装させようとすると、とたんに法規などの網の目が見えてきますね。

寺井:その時、「これはもうとんでもなく八方塞がりな仕事をやってるんじゃないか」と思うようになりました。そして、やればやるほど関係者が増えてきて、最後には面倒が増えているなという感覚すら生まれてしまった。渋谷に来て、後押しされた気になっていたんだけど、それによって今度は渋谷に居続けるほど逆風しか起きない、という感覚に襲われたんです。

いま、僕は街の一番の機能というのは「そこにいる人を幸せにできるかどうか」だと思うんです。だから、「住む街を選ぶ」ことでその人が幸せになったり不幸せになったりする。街は、自分に向いてたり、向いてなかったりする。街というのは一人一人のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)において、根本的に重要な機能を持った存在だと思っています。その支えを僕は渋谷で一度失ったと感じて、「まちづくりができるようにならないと、行き場がなくなる」みたいな恐怖を感じていました。

そんなわけで2000年代の終わりのほう、KOMPOSITIONが一段落して、いよいよどうするか、今後について仲間と節目の会合みたいなのをやって話したんです。そうしたら街の話になって、「アメリカの西海岸では、おじいさんやおばあさんが買い物にいくためにスケボーに乗っていく日常風景すらあるらしいよ」「それヤバいよね、そうじゃなくちゃね」という話になったんです。

じゃあどうしようか、という話になったとき、「それをやるのは寺井だろう」と言われた。メンバーのなかでも僕が行政や地域と折衝したり、まちづくりに近い立ち位置だと認識されていたんですね。それで僕も自分のつくったNPOからスピンアウトして起業する形になりました。

街と政治〜投票行動と価値観研究

笠置:まちづくりを進めていくうえで必ず逆風というものってあるじゃないですか。若い人が何かを始めたときに、その街を牛耳っている人から邪魔や意見をされる、といった例は少なくないと思います。行政の予算的にも人口や票数を持った世代のために老人福祉などに予算が流れていくことが多い。寺井さんがやってることは、まちづくりでありながら「若者世代のための福祉」だとも考えられますね。

寺井:そうですね。若者やお年寄りの間にある世代間の問題を考えることは、政治家になろうと思っていたときから意識していたことです。「政治」って、自分たちがこうしたいっていうことを、自分が既に取り込まれてる社会や巨大なシステムのようなものにインプットして影響を与えることだと思うんです。政治イコール「選挙」と思っている人が一定数いますが、僕の場合は選挙にまつわる投票行動を大学院で研究した結果として、選挙じゃないやり方に活路を見出したんですね。

笠置:選挙のような形で人々が関われるような「政治」は本質的なものではなく、今やられているようなことが政治だ、ということですよね。街に話題を引き寄せると、たとえば、都市計画というものも、今までは都市をつくるちゃんとした手段だった。それが形骸化してしまってるという現代の状況は、寺井さんが仰っている「政治」の状況と似ていると思いました。

寺井:僕は政治学で、アンケートデータを統計解析しながら投票行動にまつわる仮説を検証する研究をしていました。専攻していたのは「価値観研究」というもので、価値観の変化が、投票行動にどのような影響を及ぼすかというものです。「人間の欲求がどのように変遷していくのか」をマズローのような心理学と、統計学とを参照しながら研究していた先行研究があって、それを下地に考えていたんです。

笠置:具体的にはどのように価値観の変化がおこるのでしょうか?

寺井:例えば、60歳のおじさんが好きなものというのは、その人が70歳になってもやっぱり好きじゃないですか。先行研究によれば、8歳~23歳の15~6年間が価値観形成に強い影響を与える期間であると考えられているんです。ということは、その15~6年間に、どのような社会状況でどのような経験をしたのか、特に何に欠乏していたか、がその人の価値観や欲しいものを決める。

そういう研究をしながら、この考え方で、今まで不思議に思っていたことがすっきり分かるという感覚がありました。例えば、世のおじいさんおばあさんが孫が来たときに精一杯のもてなしとして、食べきれないぐらい食事を出してくれたりする。僕もそういう経験があって、なんでこんなに自分の祖父母はご飯を出すんだろうと不思議だったんですね。

でも価値観の仮説通りなら、戦後の食べるものにも困った1950年代ぐらいまでに23歳になっていた人、つまり2019年で80代半ばぐらいから上の世代は、「食べることができない」という当時の物質的な欠乏をもとに、たくさん食べたい、という欲求があって当然です。自分の祖父母もたぶんそういう価値観を持ってるんだなと納得したんです。

笠置:私らの世代だと孫にオーガニック食品を食べさせたりするかもしれませんね(笑)

寺井: 食に限らず、こういう形で価値観が変わってくると、当然、世代によって差が出てきます。大学院では研究上、それを投票行動につなげなきゃいけなかったのですが、選挙という仕組みに興味を失ったので、その世代ごとの価値観の変遷というメカニズム自体に興味を持ったまま社会に出ていったんです。今でもこのメカニズムは頭のなかに置いているし、大学で学んだ仮説検証の方法論そのものが大いに役立ってますね。

笠置:ストリートカルチャーを享受した世代が社会の表舞台に出てきましたが、一方で公共空間の管理は厳しくなっていますね。

寺井:僕は身体的に管理されたり制限されていくことを常に感じていて、基本的にはそれに抗ってるつもりなんですよ。これはまちづくりをやるようになってからの発見だったんですが、実際に街で動いていると、その身体的なことに一番寛容なのはかなり上の世代なんです。つまり、価値観が一周回っている。

街で「こんな無茶なことやっていいですか」となった時に、自分より15~20年ぐらい上の世代からは「いや、だめでしょ」と突っぱねられる。でも、30年を超えてるくらいのおじいさんだと、僕らのやろうとしていることに違和感がなくて、むしろ何が悪いかわからない、ということがある。彼らの価値判断の根拠って「自分もやってた」というレベルの話なんです。

その話を突き詰めていくと、歴史の文脈の解釈がどうも重要なのではないか。その街が大切にしてきた歴史・文化の文脈の力が確実にあるんですよね。その力を、みんなまだ意識的に汲み取れていないと思います。確かに、郷土史のようなものに出来事が書かれてはいるんですけど、「俺たちの街のルールはこれだ」といった形では書かれていないじゃないですか。

なので、僕らはその歴史・文化の文脈の力を引っ張り出して、再解釈して、現代版としてアレンジして、パッケージングする、ということをしたい。それが、今のまちづクリエイティブという会社で取り組んでいる、エリアのデザインの仕方です。

後編へ続く

寺井元一(てらい・もとかず)

株式会社まちづクリエイティブ代表取締役 アソシエーションデザインディレクター。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。同大学院在学中にNPO法人KOMPOSITIONを設立し、多くの壁画プロジェクトやストリートバスケ大会など、公共空間と民間活力を結びつけて表現者に活動の場や機会を提供する活動を行う。その後、株式会社まちづクリエイティブを設立し、千葉県・松戸駅前を「クリエイティブな自治区」にするMAD Cityプロジェクトを開始。独自の不動産活用/エリアブランディング事業を推し進め、佐賀県武雄市「TAKEO MABOROSHI TERMINAL」、埼玉県埼京線沿線「SAI-KYO DIALOGUE LINE」など他地域でもエリアを展開している。


★1 NPO法人 KOMPOSITION http://komposition.org/

連載 [ 都市論の潮流はどこへ “ローコスト・アーバニズム” ]

>イントロダクション 笠置秀紀
「ローコスト・アーバニズム その文脈と展望を巡って」

> 01 馬場正尊 インタビュー
「工作的都市へ」

> 02 矢部恒彦
「都市のロマンス化を乗り越えて ポートランドのDIYアーバニズム」

>03 青木彬
「これからのアートと都市を語るために」

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笠置秀紀
建築討論

1975年東京生まれ。建築家。日本大学藝術学部修了。2000年より宮口明子とmi-ri meterとして活動。近作に「URBANING_U」「清澄白河現在資料館」などがある。2014年に設立した株式会社小さな都市計画では「SHINJUKU STREET SEATS」など公共空間に関わるプロジェクトを多く手がける。