小説、建築としての — 九段理江インタビュー(インタビュアー:山梨知彦)

073│2024.05–07│特集:建築のイメージ/言葉

Taichi Sunayama
建築討論
Jul 4, 2024

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特集:建築のイメージ/言葉

対談企画の意図

特集「建築のイメージ/言葉」の3つ目のインタビューは、小説『東京都同情塔』で2024年に芥川賞を受賞された九段理江さんです。『東京都同情塔』は、アンビルトとなったザハ・ハディドの新国立競技場が存在する東京を舞台に、生成AIやSNSをモチーフにしながら、現代を生きる女性建築家の苦悩と創造のあり方を描いた作品です。インタビュアーとして、日本の組織設計事務所である日建設計のチーフデザインオフィサーを務める建築家の山梨知彦さんをお招きしました。山梨さんは、新国立競技場のザハ・ハディド案が白紙撤回されるまで、実際にその建設を目指して日本のローカルアーキテクトとして奔走した経験をお持ちです。建たなかった建築が現代社会にどのような影響を及ぼすのか、お二人の視点から深く掘り下げていきたいと考えました。(砂山)

小説、建築としての

九段理江インタビュー
──インタビュアー:山梨知彦

小説「東京都同情塔」について

──山梨:九段さんは、2024年上半期の芥川賞を小説「東京都同情塔」で受賞されました。この小説は建築家が主人公であり、更にはアンビルトとなってしまったザハ・ハディドの新国立競技場が建設されたという設定の中で描かれて、建築をデザインする事を生業としている僕らには「引っかかる」作品です。まずはじめにお聞きしたかったのですが、なぜ今回このような状況設定をされ、建築家を主人公に据えた小説を書かれたのですか?

──九段:元々この小説のアイディアは、「新潮」の担当者の杉山さん(現「新潮」編集長)との会話によって生まれました。「東京都同情塔」の前に「しをかくうま」という小説を発表したのですが、それが芥川賞の候補に入らずとても落ち込んでいて、もう何を書いていいかわからないような状態でいました。これ以上小説を発表しなくてもいいとさえ思っていた。もし新作を発表するとしたら、次の小説に関しては完全に自分の思考の外側にあるものからヒントを得る必要があるだろうと考えていたタイミングで、杉山さんから食事に誘われたので、「杉山さんは、今、何に興味がございますか」と伺いました。その際におっしゃったのが「アンビルト」でした。それまで私も建築に興味がありましたが、小説のモチーフにできるほど詳しいわけではありませんでした。また私の場合、新しい小説を構想するにあたっては、まず集められるだけの資料を片っ端から集めることから始めるわけですが、建築に関する資料はあまりにも膨大すぎて、自分にはそれらを読み込むキャパシティはないだろうというふうに考えていました。ですが、「アンビルト」という言葉はとても気になった。「アンビルト」は、そもそも小説とすごく近い概念だと感じたわけです。「アンビルト」とは、実際には建てられていないけれども、思想だけが残っている建築です。それに対して、現実に起こってはいないことだけれども、読者の頭の中にはその世界が残る、といった点で小説とアンビルトの共通性を感じました。それから杉山さんとお話した翌日には、次作が建築の小説になるかどうかはわからないながらも、既に建築に関する資料を集め始めていました。その中で、丹下健三さんと隈研吾さんの著作、あとザハ・ハディドさんのインタビュー集を読んだことをきっかけに、建築家を主人公にした小説を書いてみたい、建築家の思考を自分なりに小説化してみたいと考えるようになりました。ちなみに杉山さんは学生時代から本当に建築がお好きで、新潮社に入ったときも「芸術新潮」で建築特集をやりたいとおっしゃっていたそうです。だから私がこの「東京都同情塔」を書き終わったときに、建築家の方と対談してほしいと望んでいらっしゃった。しかし、芥川賞の受賞決定の記者会見で、最初はAIを使用したということで注目されたので、まだ建築家の方とお話させていただく機会はありませんでした。1月に受賞して4月まで、生成AIの専門家として喋ることを求められていたからです。与えられた役割を自分なりに楽しんでいますが、やっと5月に入ってから建築家の方とお会いする機会をいただくようになったことで、私は本当に建築の小説を書いたのだなと、あらためて実感しています。今ここに立ち会われている杉山さんも、きっととても喜んでいらっしゃるんじゃないかなと思います(笑)。

九段理江「東京都同情塔」,新潮社,2024

──山梨:僕ら建築家からすると「東京都同情塔」が新国立競技場をモチーフとしていると聞いて、最初は実際に建った新国立競技場だろうと思ったんですけど、実はアンビルトとなったザハ案が建設された後の東京を舞台としている。さらには、主人公は新進気鋭の女性建築家で、ザハの新国立競技場と対峙するタワーのデザインに挑むというプロット。月並みな言葉ですが、ハートを鷲掴みにされる思いをしました。ザハ案は、建設業界を超えて社会的にもスキャンダラスな話題になりましたが、今回はどのような反応がありましたか?

──九段:そうですね。このような題材は、皆さんにきっと興味をもってもらえるだろうと思いながら書いた部分がありました。いまだに当時のことを多くの人が覚えているという想定で書いていたのです。けれども、実際にはザハ案や、当時のことは忘れられていて、それは想定外の反応でした。印象的だったのは、読んでくださった方の中でも、本当に建ってたんだっけ?と頭の中で混乱して、実際に見に行ったという方がいたことでした。本当に忘却の彼方という感じです。私がこの小説を書くことによって、またザハ案について何か話題にしてもらえるだろうと期待しながら書いたわけですけれども、現実はザハ案の競技場に対するリアクションはそこまで多くなかったです。

──山梨:実際「東京都同情塔」の中にも、ザハ案に関わる一連の騒動はすでに忘却されているくだりがありますが、ザハ案がアンビルトとなった現実の世の中でも、既に忘却された出来事だったわけですね。。僕はザハ案に近い立場にいたので、人々があの一連の事件を忘れるはずはない、との思いがありましたが、現実には忘れられてしまったのでしょうね。

今回、人々が忘れかけていたとはいえザハ案をピックアップしたことで、この作品は僕ら建築の世界の人間の注目を集めていると思います。僕自身も、普段は芥川賞受賞作品を手に取ることすら稀なのに、今回はこのインタビューの話が来る前に、本を買って読んでいました。

──九段:嬉しいです。何か変なところなかったですか。

──山梨:いや・・・、なかったです(笑)

──九段:「東京都同情塔」の中ではザハ・ハディド案を賞賛するような書き方をしているので、隈研吾さんに失礼があってはいけないと思い、隈さんの名前も出しています。決して隈さんが存在していないわけではないと、この世界においてもちゃんと隈さんはいらっしゃる、ということは明示しておこうと。

バベルの塔

──山梨:細やかな心遣いをされるのは、小説のプロットだけではないのですね。ところで、ザハ案の新国立競技場が特徴的に扱われている一方で、「東京都同情塔」の中では塔が主題となっているじゃないですか。塔を取り上げるにあたっては、小説内では「シンパシータワートーキョーが我々の言葉を生み出し世界をバラバラにする」というようなバベルの塔を題材とした書き出しがあります。建築家としては、新国立競技場に加えて、バベルの塔と、その建設に関わる言語の混乱の発生の問題が小説の中で取り扱われていることに興味をいだきました。塔という建築のタイプを扱った理由についてお伺いしてみたいです。

──九段:小説のテーマともなっている言葉と建築とを同時に扱う必要性から、単純に言葉に関連する建築物の代表例として「バベルの塔」のイメージから物語を作り上げました。正直、塔以外の建築のタイプは、最初から考えてなかったですね。多くの建築はその場に行かなければ目に入ってこないけれども、高さを目指すタワーのような建築物は隠すことができません。勝手に視界の中に入ってきて人間の意識に作用してしまうという高層建築の性質と、目や耳の中に入り込んでくる他者の言葉や、社会の言葉の性質は似通っているように感じます。

──山梨:最初にザハ案の新国立競技場が建ったもう一つの東京を背景に、バベルの塔を参照にしたタワーと言語に関する小説が企図された、というわけですね。バベルの塔は、ある意味で人間が神に挑戦し、神の怒りを買い、崩されてアンビルトとなったわけですよね。そして、人間が協力しあって塔を建設しないように神は人間の言葉をバラバラにしてしまう。バベルの塔のモチーフを選んだことは、まさにその言語について、SNSなど言語の乱れた状態について書きたいと思われたからなのでしょうか?

──九段:はい、そうですね。少し話はそれますが、小説のためのリサーチをすすめる中で建築家の方が書かれた文章を読んでいると、彼らが非常に明晰な言葉を用いて建築や都市について説明していることにまず感銘を受けました。建築家の方は物を作られる方々なので、私の中では意外だったわけです。小説家は、小説を書くことによって未来を予見するみたいな役割を期待されているようなところがあります。でも実際は、小説家が未来を語る言葉は、結構けむに巻いているというか、さまざまな解釈が可能だったり、読み方によっては何にでもこじつけられてしまう曖昧さがある。そのことが文学的な価値であると思われたりもするんですけど、一方で、建築家の書かれた言葉は小説家と同じく未来を予見する側面があり、しかも小説家のそれよりも論理的でクリアなのです。読み手に委ねるという投げ方、あるいは逃げ方をしていない。そうした記述の方法というのは、莫大な予算を必要とする建築というものの性質上、建築家にははっきりと未来が言語化できていないと仕事にならないところに由来すると理解しています。それは当時の私からするととても魅力的でしたし、羨望を覚えました。

モノローグとダイアローグ

──山梨:確かに大学に入って建築を学んだとき、考えを言語化する必要性については厳しく言われました。特に僕らの世代は言語学や記号論などが学生・研究者の間で流行っていた時代だからかもしれないですけど、言葉にする力はそれなりに鍛えられたと思います。とはいえ、所詮は表現としての言語ではないので、粗削りで単調な、あるいは過度にレトリックに満ちた言葉遣いに留まっているとは思いますが。ところで、言葉への着目と関連して言えば、「東京都同情塔」では、モノローグとダイアローグの二つの語りの対峙が、現代における言葉の乱れとして描かれているのかな、と考えたりしました。

──九段:それは内部の言葉と外部の言葉という意味ですか?

──山梨:そうですね。一人語りと対話ですね。それが小説を読んでいく中で、僕にとっては非常に印象的なところでした。最初は主人公である建築家の牧名沙羅によるモノローグが中心になっていて、それから東上拓人が来てダイアローグが展開される。一方でそのダイアローグも、何かダイアローグの形はとってるんですけど実は自分のことしか語ってない。その後で拓人のモノローグに移ると拓人は全く違うことを考えてる。ダイアローグを装いながらも、コラージュのようなモノローグが連続してる感じがしました。それがバベルの塔の崩壊によって言葉が分かれた状態の、現在での再来を想起させました。対話をしているように見えて、言葉自体はバラバラでコミュニケーションはできていなくて、結局一人語りしかしていないような状態ですね。

──九段:とても面白いご指摘です。元々は多数の人々の言葉がバラバラになるというステレオタイプな意味でバベルの塔を作中で取り扱いましたが、山梨さんの読み方を伺うと、この小説では他者とのコミュニケーション以前に、個人の言葉自体が既に分裂状態にあるという読み方もできますね。少し話は変わりますが、隈研吾さんの「新建築入門」の中で紹介されていたハンス・ホラインの「全ては建築である」という言葉を思い出しました。「東京都同情塔」も、ホラインの言葉からインスピレーションを受けています。つまり、自分も小説で建築を建てられないか、建築の中に入ったような手触りを小説を読んだ後に残せないかと意識していました。実はこの小説はシャワーを浴びるシーンから書き始めたのです。完全にプライベートな空間での一人語り、内部の言葉です。最終的には、わかりやすくテーマを提示するために冒頭を変えたのですが、実のところこの小説の成り立ち自体は、山梨さんがコラージュという言葉で表現してくださった通り、バラバラのモノローグが起点となっているわけです。

現象としての建築

──九段:でも、この小説のネタバレになるような部分を最初にもってくるのは、実は純文学的には邪道なんですよね。これやったら編集者に怒られそうだなと思っていながら冒頭を書いていました。なぜかというと、純文学というのは基本的に登場人物の行動であったり心情であったり、描写の一つ一つを丁寧に文章で積み重ねていくことによってテーマを伝える芸術だからです。それこそが文学に求められる品性というか、選考委員が評価するポイントなのだと私は考えています。それに対して、この小説では冒頭にテーマをはっきりと明示してしまっているので、発表した後もよく指摘されました。あまりにもストレートに言い過ぎでは、みたいな。

また隈研吾さんの「新建築入門」で書かれていたか忘れちゃったんですけど、ホラインの「すべては建築である」という言葉に関連して、主体を取り囲む環境はフィジカルなものであれバーチャルなものであれ、全て建築と言えるみたいな記述がすごく印象に残り、建築を理解するうえでとても納得がいったんですよね。先ほど、山梨さんの方から、さまざまな形式のモノローグのコラージュというようなご指摘をいただきましたが、小説はたしかに会話文と一人語りで構成されている。そのような表現形式をつかって、建築的な思考を構築したり、建築的な事象を発生させたりしたかったわけです。たとえば例の冒頭のテーマの提示には、建築におけるファサードの役割があります。また、小説のための資料を集めてるときに、ユハニ・パッラスマーの「建築と触覚」という本と出会いました。これは視覚への依存が加速する現代において、建築の役割は人間が本来持つ五感を統合することであり、そのことを再評価すべきであると言ってるんですね。また、山梨さんが出演されたシラスの動画で、「知覚こそ建築の始まり」と定義をされていて、五感を統合するというユハニ・パッラスマーの言葉と何か共鳴するような感じがしました。バラバラなものを五感で統合するという建築的な経験を、私も小説で提供できたらと思っていたわけです。一方で、こうした小説を書いた後でも、やはり小説はどこまで行っても結局は観念でしかないと感じる部分もあります、良くも悪くも。

──山梨:「知覚こそ建築の始まり」と言っている理由は、僕は建築は現象だと思うからですね。建築を見たときに目の前にあるのは建物にしか過ぎない。けれど、僕ら建築家は、目の前にある建物を建築として扱っているのではなく、そこで起こっている現象を建築として扱っている気がするんです。だから、そこに存在している建物を言葉で分解しないと建築は読み取れない。確かにそうしたときに、イメージが支配的なんですけれども、視覚だけじゃなくて触覚とか嗅覚とか様々なものを言葉に変換して建築を捉えようとします。九段さんは、なにか印象的な建築の実際の経験はありますか?

──九段:そうですね。先日、金沢21世紀美術館と鈴木大拙館にうかがいましたが、五感や身体性を強く意識させる建築でした。私は10年くらい前に金沢に住んでいたときに、美術館の近くの古本屋さんでアルバイトしていたのですが、出勤の前後に美術館に立ち寄り、開放されているスペースでよく休憩していました。思い返してみれば、日常の風景の中に美術館が溶け込んでいるのは稀有な体験でした。

そういえば、この対談の準備をしているなかで、神保町シアタービルディングが山梨さんのお仕事だと知りました。実は以前、九段下に住んでいたので筆名を九段にしているのですが、神保町シアタービルディングもよく拝見していたのです。そして、その何年か後にグラスゴーにあるザハ・ハディドのリバーサイド博物館を見ているんですけど、それが神保町シアタービルディングと素材感とか質感が似ているような印象を受けた覚えがあります。神保町のような古い本屋さんがいっぱい並んでるような街に、急に異質なものとして神保町シアタービルディングが立ち現れるインパクトは忘れ難いです。ザハもそうですが、街の中で突如出会う異質な建築物には惹かれるものがあります。やはり、山梨さんが出演されていた動画を見ても思いましたが、ザハ案がなぜ東京で建設できなかったのか、余計に悔しくなっちゃいますね。

文章が文章を連れてくる

──山梨:ところで、「東京都同情塔」ではラテン語の言葉が多く出てきます。そのラテン語の取り扱い方も非常に構築的で、物語全体が緻密に計算されてプロットが作られている印象がありました。どのくらい計画的に小説を書かれているのでしょうか?

──九段:先日対談させていただいた永山祐子さんも、すごく構築的な小説だとおっしゃっていました。いろいろな方にすごく計算されているという評価をいただきますが、実はプロットは全く作らずに書き始めます。なんとなく、とりあえず、曖昧な文章を書いてみる。すると、文章が文章を連れてきてくれるのです。私が意識的に構築しているのは、本当に最後の調整の部分だけです。文章が文章をつれてくるのは、建築家の方からしたら絶対ありえない発想かもしれませんね。
ところで、『磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ 』という本があります。これは磯崎さんが都庁のコンペで負けてしまったことがドキュメンタリーとして書かれています。この本のなかで磯崎新さんが、村上春樹の小説「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の地下世界で生息している闇黒にインスピレーションを受け、そこから都庁案を構想したと言っている。小説のようなフィクションや抽象的なものから、物理的な建築をどのように発想していくのか、多くは暗黙知的なものでしょうけれど、そのプロセスにも興味があります。
今回の「東京都同情塔」でいうと、頭の中にザハ・ハディドのイメージを思い浮かべながら書いていました。あとは、ザハ・ハディドのプレゼンテーション動画があるのですが、それを何度も見ながら書いていました。建築家がどういう直感を働かせるのかを体に落とし込むという意味で。

──山梨:では、そういう建築家の直感のようなものを、まず九段さんが会得して書かれようとされたわけですね。

──九段:そうですね。建築家が建築を考えるときの思考の、その手触りのようなものをつかまえてから書きたかったのです。

小説とAI

──山梨:少しさかのぼって、僕が先ほど、「東京都同情塔」の中の会話は、ダイアログの形をとってるけど実際はモノローグじゃないかって感じたのは、実は3人の若い人が電車の中で喋ってる姿を見たことに由来します。3人で楽しそうに話をしているんですが、よくよく聞くと、それぞれの人は自分のことを語ってて、相手は相槌を打ってるんだけど全然違う話をしてる。それを見て現代的な何かを感じました。一緒の時間や空間を共有してるんだけれども、何かそれぞれが思ってることが微妙にずれてる。それを見て、僕はダイアローグの形をとったモノローグだなって思ったんですね。それがすごく現代的だと思いましたし、面白いと思いました。そうやって考えると、AIとの対話も対話の形をしたモノローグなのではないかと思ったわけです。九段さんは、今回「東京都同情塔」でAIを使用されていますが、どのようにお考えですか?

──九段:最近AIの専門家の方とお話する機会が増えてきた中で、小説を書いていた半年以上前と今とでは、AIに対する気持ちに変化が出てきています。まず、AIを使ったことがここまで反響を呼ぶとはまったく予想もしていませんでしたし、従来の作家が取材の一環として行なう、たとえば検索エンジンを用いる延長のように捉えていたので、特別なことをしている認識がなかった。実際に受賞後のインタビューで次々に「なぜAIを使用したのですか?」「AIと人間の違いとは?」などと訊かれるようになってみて、「AIであればエラーとして認識して切り捨ててしまうような偶然性を楽しめる余裕がある」とか、「人間はみずから欲求を持つことができるが、AIには欲求を持つことはできない」とか、常に炎上回避を意識しながら、とりあえず当たり障りのない回答をしていくような状態でした。今、あらためて自分の回答を振り返ってみて思うのは、「AIには欲求を持つことはできない」に関しては、厳密には「AIには欲求を持つ『体』がない」と回答するべきだったということです。人間には、ザハの建築が見たい、みたいな欲求があるわけですが、それはザハの建築を見ることを「体」が求めているのです。山梨さんがシラスの動画で、ザハと日建が組むことにおいて「感性と理性の橋渡しをしたい」とおっしゃっていたかと思いますが、体を伴う感情・情動的な部分と理性的な部分とをバランスよく機能させるのが人間の知性だと考えています。なので最近は、人間の身体性とAIの協働関係が人間を発展させるという立場をとるようになってきました。

──山梨:ひよっとしたら、かつては塔により神に近づこうと試みて言語が乱れた人類は、今度はAIにより神に近づこうとして再び言語が、そしてモノローグとダイアローグが乱れ始めているのかもしれませんね(笑)。先ほどお話しさせていただいたモノローグとしてのダイアローグと、九段さんのAIとの協働関係の話などはやはり関係があるのでしょうか?

──九段:山梨さんが「モノローグとしてのダイアローグ」とお感じになった箇所については、私の小説執筆に対する態度が反映されてしまっている可能性が大いにありそうです。というのも私は、自分の思考のサンドバックとして小説という表現形式を使っているところがあるからです。様々な言葉を小説内で試して思考を深めていく、小説が有する特殊な運動を通して、現実とは別の次元で物事を考えてみたいのだと思います。二年ほど前に「Schoolgirl」という小説を発表して芥川賞に落選していますが、これは元々、太宰治が書いた「女生徒」という短編がベースになっています。太宰が1939年に発表したテキストを解体して作り変えることを通して、現代を生きる女性に新たな角度から光を当てようと試みているのです。小説を読むことは他者とのコミュニケーションでもある一方で、本当に深く小説を読もうとすると、最終的には自分自身との対話になっていきます。その意味ではChatGPTと行なう会話も、小説を通してモノローグとダイアローグの境界が薄れていくような感覚に近いかもしれません。

SNS/身体

──山梨:ところで、今回SNSにおける人々の言葉、声なども一つの小説内のモチーフとしていますが、実際にどのようなSNSの反応がありますでしょうか?

──九段:SNSで小説の感想などを見ていると、「この小説のメッセージは」とか「作者が伝えたいのは」というものが多い。小説の中から作者のメッセージを探すような読み方をされていて、それはつまり、作者のメッセージを正しく受け取ることが良き読者のあり方だというような前提があるのだろうと思います。だからネガティブな感想としては、「作者が何が言いたいのかわからなかった」というのをよく見ます。しかしこの小説に関して言えば、もしも作者からのメッセージのようなものがあるとすれば、それは「正しい答えはないので考え続けてください」ということなのです。ですから、「よくわからなかったからもう一度読んでみよう」という反応がいちばん嬉しい。社会から要請される言葉、正しく感じられる言葉を使わなくてはいけないような風潮があります。それは自由な思考や言葉が制限されることだととらえていますが、言葉の制限は複雑な世界を複雑なまま理解することを困難にさせると感じます。複雑な世界を単純化することに私は抵抗したいのです。

先ほど身体性の話をしましたけれど、身体には明らかな個性があり、違いがあるからこそ、言葉にも個性が現れて当然です。現時点では、AIは身体性がないが故に、まだ個性というものをどう考えたらいいのかわからない状況なのではないでしょうか。そういった意味で、身体性を伴う建築は、たとえ個人の想像力や思考が追いついていなくても、文化や社会を作ることを促してくれる側面があります。私は2021年に小説家としてデビューするのと同時に、体を鍛え始めました。どこまでも観念でしかない小説という表現に取り組むには身体性が必要だという漠然とした思いからジムに通い始めたわけですが、日々のトレーニングなしに小説を書き続けることはとてもできませんでした。この話をすると大体何か受け狙いで言っているんだろうと思われてしまうのですが、実際にそう感じているのです。すべてを失ったとしても、自分の体だけは残っているというたしかな実感が、日々の生活を支え、執筆に向かわせてくれるのです。たとえ賞に落選して落ち込んでいても、体が小説を求めていれば小説を書くしかありません。何かを求めるための体を、常に用意しておくことが重要なのです。結局人間の意識や行動を完全に変革させるには、ただの気づきでは足りません。必要なのは、時に痛みも伴うような、身体を通した気づきなのです。

▲プロフィール

九段理江/Rie Qudan
1990年、埼玉生れ。2021年、「悪い音楽」で第126回文學界新人賞を受賞しデビュー。同年発表の「Schoolgirl」が第166回芥川龍之介賞、第35回三島由紀夫賞候補に。2023年3月、同作で第73回芸術選奨新人賞を受賞。11月、「しをかくうま」で第45回野間文芸新人賞を受賞。2024年1月、「東京都同情塔」で第170回芥川龍之介賞を受賞した。

山梨知彦/Tomohiko Yamanashi
株式会社日建設計 チーフデザインオフィサー、常務執行役員。1984年、東京藝術大学卒業。1986年、東京大学修士課程を経て日建設計に入社。専門は建築意匠。2009年「神保町シアタービル」でJIA新人賞、「木材会館」にてMIPIM Asia’s Special Jury Award 、2014年「NBF大崎ビル(ソニーシティ大崎)」2019年「桐朋学園大学調布キャンパス1号館」にて日本建築学会賞(作品)、2011年「ホキ美術館」にてJIA建築大賞、「NBF大崎ビル」でCTBUH Innovation Award などを受賞。2024年より、日本建築学会副会長。著作に「BIM建設革命」、「プロ建築家になる本」、「名建築の条件」など

本インタビューは、2024年5月23日新潮社の第一会議室でおこなわれました。

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Taichi Sunayama
建築討論

Architect/Artist/Programmer // Co-Founder SUNAKI Inc. // Associate Professor, Kyoto City University of Arts, Art Theory. //