建築の創造と生成AI— 山梨知彦インタビュー(インタビュアー:九段理江)

073│2024.05–07│特集:建築のイメージ/言葉

Taichi Sunayama
建築討論
Jul 11, 2024

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特集:建築のイメージ/言葉

対談企画の意図

特集「建築のイメージ/言葉」の4つ目のインタビューは、日本の組織設計事務所である日建設計のチーフデザインオフィサー、山梨知彦さんです。山梨さんは多くの建築物を手がける建築家であるとともに、東京藝術大学建築学科では人工知能を活用した学部卒業制作プロジェクトを提出され、その後も日建設計でのBIM導入やデジタルデザインラボ室の設置など、設計におけるデジタル活用を牽引してきた功労者です。また、白紙撤回となったザハ・ハディドの新国立競技場案のローカルアーキテクトとしても奔走されました。今回の対談では、山梨さんの稀有なご経験を通じて、情報技術の価値や現代社会における建築の意義について掘り下げます。本インタビューは山梨さんにインタビュアーに務めていただいた九段理江さんのインタビュー「小説、建築としての」と対をなす。合わせて読んでいただきたい。(砂山)

建築の創造と生成AI

山梨知彦インタビュー
──インタビュアー:九段理江

現代のバベルの塔

──九段:前回は山梨さんから私にインタビューをしていただきましたが、今回は私が山梨さんへのインタビュアーを務めます。前回のインタビューの最後に身体性について少しお話させていただきました。その流れで、今回「建築のイメージ/言葉」という特集の中で、全く違う角度から話に入ってしまうことになりますが、建築と身体性について山梨さんのお考えを伺いたいです。

──山梨:身体性とその感覚については、僕の場合は、九段さんが身体を鍛えて文体が変わったという話とは逆で、10年前にパーキンソン病になったことが今の自分にかなり大きな影響を与えていると思います。病気で体が自由に働かなくなり、一番ひどいときは、手が震えて文字もスケッチも一切書くことが出来なくなりました。建築家としてはもうおしまいかなと思うところまでいきました。その経験の中で身体性に対する気づきがあり、設計の考え方も変わりました。それまでは、正直言うと、言葉に頼っていたような気がします。建築は理性で噛み砕いてやることが大事だと思っていましたが、パーキンソン病になってからは発想が明らかに変わって、身体性寄りになっていますね。

──九段:人間とAIの協働がどうなるのかを考えると、AIだけではなく、人間の感覚、特に触覚や身体を伴った気づきが重要だと思います。AIの理性的な部分とこれらをバランスよく両立させることで、人間は神に等しい存在になるかもしれない、と考えています。身体性は建築に関して考えるときに大きなテーマとして出てきます。だから、小説でも重要な場面では必ず体に関係した描写があります。毛穴の話や匂いの話が出てきて、拓人くんが牧名さんの肌に触れて感動するシーンをきっかけに場面が切り替わる。

──山梨:九段さんの、今の人工知能に足りないものは身体性、身体からのインプットだという話には共感します。僕の場合は、病気になって初めて身体性に目覚めた気がします。人間と人工知能の違いは、人工知能が膨大な情報とそれらの近接関係から世の中にある最頻出的なもの、言い換えればある種の平均値的なものへと近づくように生成しようとするのに対し、人間は膨大な知識や情報がなくても身体から得た情報をそこにフィードバックすることで、クリエイティブなことができます。僕の興味は、生成AIが神様のように物を創造することですが、身体性の問題をクリアしないかぎりは、現在の生成AIは神様に近づけないのではないかと思っています。
建築に関連付けて考えると、「東京都同情塔」でもバベルの塔が参照されていますが、かつては神様に届こうとする行為が高い建物を建てることだったと思います。しかし、現在では高い建物を建てる技術は最先端ではなく、人間は比較的簡単に建てられるようになりました。九段さんの「東京都同情塔」を読んでいて思ったのは、今の時代において、人工知能こそが新たな「タワー」であり、新たな人間の創造性に挑戦する行為のような気がしています。

新国立競技場設計案

──九段:ところで、山梨さんがシラスで東浩紀さん、五十嵐太郎さんとザハ・ハディドの新国立競技場案についてお話されていたのは2021年のオリンピックが始まる少し前でしたね。ちょうど私が小説家としてデビューした頃でした。それから3年経ち、ザハ・ハディドを題材にした小説を書きました。一定の時間が経過した後であらためて当時を振り返ることに意味を感じて小説を書いたわけですけれども、当事者でもある山梨さんは、もしかしたら思い出したくない出来事だったかもしれず、今回の対談もその点が心配でした。山梨さんご自身はザハの出来事を当事者として、2024年の現在から、どのようにお感じになりましたか?

──山梨:小説を読んでるときには、意外と当事者意識で読まなかったんですよ。新国立競技場のザハ案が白紙撤回になったときのことを思い出してストレスを感じることなどもなかったです。自分は抽象的な人になってしまって、小説のストーリーに乗っけられていい気持ちになっていました。けれども、小説を読み終えたあとは、さて、僕はあの時一体何を考えていただろうと思い返すわけです。そして、今日対談するっていうことで、ありえたかもしれないもう一つの現実と、本当の現実とが今交錯し始めたような感じがしています。

──九段:たとえば、シラスの動画で振り返りをなされていた3年前にお考えになっていたことと今とでは、何か大きな違いなどございますか。

──山梨:そうですね。3年前のあの時は少し遠慮してたんです。それはなぜかというと、新国立競技場のザハ案が設計競技で採択されてから白紙撤回にいたるまで、僕の立ち位置はデザイナーであるザハ・ハディドのデザインを日本で実現するための現地の設計事務所の建築設計士です。一方で、僕は、本来は普段日建設計でチーフデザインを務めているデザイナーでもあります。なので、日本でザハのデザインを実現するために協力する立場を担うことに、多少違和感を感じていたんですよね。特にプロジェクトの初期には。本当はザハ・ハディド自身が日本のスタッフを雇って、彼女のやりたいように設計すべきなんじゃないかっていう思いがどこかにありました。正直に言えば、シラスのときには、自分自身もデザイナーなのだというちっぽけなプライドや、つまらないわだかまりといった設計の初期に感じていたものががちょっとフラッシュバックしていたのでしょう。
しかしながら、実際に設計に関わっていったなかで、僕はデザイナーとしてではなく、ザハがやりたいことを具体化するための設計技術者として仕事をすることに集中していけました。たとえば、ザハ案は通常ではありえないような複雑な曲線をデザインしているように見えるわけですが、僕が見る限り新国立競技場以前に実現したザハの建物っていうのは、その見せ場の形態を、仕上げ材料だけでつくった、言葉は悪いですが「ハリボテ」となっていました。新国立競技場でいえば、下半分の客席部分はRC造を主体とした構造体がそのまま建築のフォルムを生み出していましたが、話題になったキールアーチや屋根部分といった上半分では、先ず大まかな骨組みとなる構造体が組まれて、その外側の曲面を形作る仕上げ材が張られた形式となっていました。自分たちがザハを手伝うんだったら、ハリボテは作りたくないって思っていました。屋根やキールアーチといった構造材自体が、そのまま特徴的な形になってる建築物を作りたいっていうふうに強く思っていました。日本の建築って、例えば神社とか仏閣とか行くと、木の構造体が見えているじゃないですか。あれは「あらわし」というんですけど、その構造材自体が建築を仕上げるデザインになってるんですよね。そのような考え方は日本的であるとも言えるんですけど、そういう建築を別にザハに頼まれたわけじゃないんです。ところがザハ側に聞いてみるとザハも実は張りぼての仕上げをやるのは嫌で、骨組み自体を仕上げにしたいと思っていたことがわかりました。僕らが目指した方向について、ザハも共感し、一緒に目指してくれた。正にダイアローグによるコラボレーションです。ザハとの対話のなかで、それまで日本にも海外にもなかった、デザイン的にも技術的に見たことがないような物ができるはずでした。
結果的には実現しなかったですけど、そのようなザハ・ハディドとのダイアローグが、今振り返ってみるとすごく自分の建築家人生の中で大きな経験でしたし、その後の自分の建築にも影響を及ぼしていますし、僕が所属する日建設計としてはこれがバルセロナのカンプノウの改修計画へと繋がっていきます。デザインを手伝う立場に1回自分の身を置いたことで、自分のデザインがインスパイアされたわけです。

──九段:素晴らしいですね。小説もそういうところがおおいにありますが、コラボレーションによって自分ひとりだけの発想だけでは辿りつかないところに行けるというのが、やっぱりいちばん楽しい。

──山梨:なんかザハにつれていってもらったみたいな感じがします。彼女の方も、日本の僕らとやって、何か自分が目指せるものが一段上がったって思ってくれたんじゃないかと思うんですよ。国際的に著名な建築家でわがままだって聞いてたんですけど、非常に真摯であったし、スタッフの人たちとは今でも良い関係を保っています。

建築家と社会

──九段:ところで、山梨さんからは答えにくいかもしれないですけれども、隈研吾さんの新国立競技場についてはどうおもわれますか?

──山梨:隈さんもすごい難しい立場ですね。国家的な建築を背負い、作らなきゃいけない建築家っていつの時代もいるわけです。例えば、昔の東京オリンピックの時に丹下健三さんがその役割をはたしたんですよね。予算オーバーに対して当時は今とは全然違う対応でした。当時は田中角栄が大蔵大臣かなんかやられていて、丹下さんが直接交渉したらお金を出してくれたそうです。。田中角栄がすごいっていうのもあるけど、僕の思うにはその当時は高度経済成長期で、日本人の10人のうち3人ぐらいは建設業に繋がる仕事をしていた時代です。だから社会全体が、お金が大きく動く建築を作ることを許容していたわけです。社会がそのまま反映されてたと思うんです。ところが今はそうじゃない。お金をかけちゃいけない時代に国家を背負い大型の建築を作る建築家はすごい苦しいですよね。その中でなんとかまとめあげなきゃいけない建築家としての役割を隈さんは確実に果たした。それはすごい手腕だと思うんです。日本のオリンピックスタジアムを成立させるためには、隈さんがやるしかなかったし、隈さんしかできなかったその状況の中で、見事に使命を果たされたわけです。

──九段:山梨さんは以前、丹下健三さんの時代は建築家が問題をハンドリングできていたのに対し、今の建築家は社会に対して充分にアプローチできていないというお話をされていらっしゃいました。しかし私の考えでは、それは建築家の弱さによるものではなく、受け手の方のリテラシーの問題もあると思うのです。そもそも社会で建築や都市計画について議論する土壌ができていないし、興味を持たれていない現状があるのでは。たとえば現在では、建築について語るにしても、建物自体よりもコミュニティデザインの方に関心が集中しているように感じますが、社会における建築のあり方についてはどのようにお考えでしょうか。

──山梨:たしかに近年は、コミュニティデザインが中心になっており、従来かたられていたようなハードウエアとしての建築の存在感は弱まっていると感じています。一方で、コミュニティデザインのようなソフトウエア的なまちづくりと、建築というハードウエアづくりとは、本来二律背反的な存在ではなく、共存し高め合っていくべきものと捉えています。今は、物としての建築の存在が弱い状況だと思っています。個人的には、物について話せるように回帰しなきゃいけないとの想いを強く持っています。物のデザインを作ることが僕ら建築家の使命で、その強さを作り出すことで、社会は物の力を信じるはずだと思っています。
そういった意味では、物をつくることを指向する建築家はまだまだできることがあるのに、今は社会が評価するに値するに見合うだけの仕事ができていないと思います。物づくりの重要さをを理解してくれない社会があるといった建築家の嘆く声もありますが、僕自身はそういう状況を作れない建築家が自分を責めるべきだと思ってます。
ただ一方で、建築家の作る物の力が、現在においてそれほど大きな存在ではなくなって来ている気もします。社会は、もはや建築に社会を変えていくことなんて求めていないのかもしれない。すでに50年前のことになりますが、僕の会社の大先輩が、「その社会が建築を作る」って言って、巨大建築が求められるのは、その世の中の要請によるもので建築家の仕事はそこから始まるとした。有名な言葉ですが、僕はちょっと反発心を抱いてしまう言葉なんです。その社会が建築を作るだけじゃなくて、どんな小さい建築でも、その建築がその社会を作る可能性もあると、それを信じなきゃ駄目なんじゃないかと思っています。僕はやっぱり今の九段さんの質問に対して、建築でそこまでできるかどうかわかんないけれどもやっぱり物の素晴らしさを伝える建築を造れていないないことが、今の建築の弱さなんじゃないかなと思っています。

──九段:その一方で、建築家の方は基本的には発注者から発注を受けて、それを形にする。私の小説の話で恐縮ですが、「東京都同情塔」の主人公は社会から要請されるものと自分が作りたいもののあいだで葛藤し、結局はどちらも取るという強引な選択をしてしまうわけです。自分の信条や理想を追求する芸術としての建物と、社会の中で果たさなければいけない建築家の役割について、どのように折り合いをつけていくのでしょう。

──山梨:すごい難しい質問ですけれども、でもそこがむしろ建築の醍醐味なのかなと思います。建物の設計は、クライアントの言われる通りにすることの方が良い場合もある。妥協と言われてしまえば妥協なんだけど、自分が社会にたいして提案したいことと、社会がもとめていること、そしてクライアントがやりたいこと、この三つ巴の中で、最高にいいバランスをとって、もしくは滅茶苦茶にバランスを崩して物を作ることが建築をつくる醍醐味だと思っています。難しいですけどね。

アンビルトについて

──九段:ザハの新国立競技場案は結果的にアンビルトになってしまいましたが、山梨さんは基本的に建てることを前提としたプロジェクトを手がけていらっしゃいます。山梨さんは建築におけるアンビルトのプロジェクトの価値についてはどのようにお考えでしょうか?

──山梨:アンビルトには大きく二つの方向があると思います。ザハ・ハディドの新国立競技場案みたいに、本当は作る予定だったけど様々な理由でアンビルトとなってしまったものと、もう一つは、1960年代のアーキグラムなどをはじめとした最初から建てることを前提にしていないプロジェクトですよね。
両者は、同じようにアンビルトと呼ばれたりするんですけど、本質はずいぶん違う。ザハ・ハディドの新国立競技場におけるアンビルトは、そうなった経緯自体に様々な社会的課題があり、重く、戒め的で、そこから学ぶことができることも多いでしょう。一方でアーキグラムのように、建てることを前提とせずに計画することで現実の制作自体を軽やかに超えてくるプロジェクトは、オプティミスティックで、自由で刺激を与えてくれる。もしかしたらアーキグラムの人たちが実際に作ったものを見たら全然つまらないものかもしれないんだけど、ドローイングという架空のものだから、逆に見る側の想像力で広がる可能性もあり、そこがすごく刺激的ですよね。
九段さんのインタビューで小説が観念にとどまってるとおっしゃっていましたが、小説こそ、ドローイングと同じようにアンビルトの一形式でもあるのかもしれないって思いがしてきました。

──九段:そういえば、小説のアンビルトといえば、実は山梨さんも出演されていた「シラス」というプラットフォーム、あれは私が「シラス」という名前を考えたと思っているんです。

──山梨:え?

──九段:どこでも言っていないことですが、もうだいぶ昔の話なのでいいでしょう。私は2018年の文學界新人賞の最終候補に残っているのですが、そのときの選考委員のひとりが東浩紀さんだったのです。その小説は結果的に落選したので、どこにも発表されていません。私の数人の友人と、編集者と、選考委員だけが読んでいる幻の小説です。「海の聴力」というタイトルで、主人公は「エノキ・シラス」という名前の国際線のCAでした。
東浩紀さんはその小説を高く評価されていたけれど、他の選考委員の支持を集められず、結局その年の文學界新人賞は「受賞作なし」という結果に終わりました。でもきっと東さんの無意識の中に、私がつくりだしたエノキ・シラスという架空の女がインプットされたはずで、何かしらの手続きを経て二年後の「シラス」につながったのではないかと私は想像しています。純文学の世界というのは、何かの賞に引っ掛からないと作品が発表されることはなく、つまりほとんどが「アンビルト」になってしまいます。「海の聴力」もアンビルトになってしまった小説ですけれど、想像もしなかったようなところに無意識レベルで影響を与えることがある。「シラス」のネーミングに関しては私の妄想が過ぎているかもしれませんけれども、しかしこうした的外れな妄想でさえもひとつの想像力として大事なものだと思っているんですよ。的外れな思い込みがフィクションを立ち上げる力になり得ると。

──山梨:小説のアンビルト。すごい面白い話ですね(笑)。

建築の創造

──九段:最近、永山祐子さんとお話した際に、社会が瞬間的なことしか考えられなくなっている、というようなご指摘をされていました。大阪万博の会場も長期的に考えれば観光資源にもなり得るのに、瞬間的な損失のことばかりに目がいきがちであると。短期的・瞬間的にしか物事を見られなくなっている現状にたいして、生成AIの力を借りることによって、50年後100年後のスパンで未来予測を立てて建築を行うことができるのかもしれないと、私自身は期待を持っています。生成AIが建築の創造性に与える影響など、山梨さんのお考えをお聞かせください。

──山梨:建築の創造という意味でいうと、考えていることが二つあって、神様が作る方法と人間が作る方法があると思うんです。
神様が作る方法というのは、自然な作り方っていうんでしょうか。建築家などがおこなう設計は、将来を予想して計画的に作る、それが人間の作り方だと思うんですよ。一方で、神様は将来を予想しないでたくさんの物を作って世の中に投げ出して総当たり的・確率的に良いもののみが残るような作り方をする。だからこそ予想もできないものができてしまう。そういう作り方ってすごく時間がかかるから、人間にはできない。生成AIは、それをすっごく短時間の中でやってるように見える。けど根本が違うと僕は考えている。現状の生成AIは人間が好き嫌いで判断したものの集積から導き出すので、神様の作り方とは根本的に違う。生成AIは神様の作り方に近いようで、実際には膨大なデータの中で平均値的答えを導き出している。トレンドで予測して作るとか、今までの流れで作るっていうのに対してはすごい力を発揮すると思ってます。でもそれって、全く新しいことを想像することはできないのでクリエイティブではないと感じます。今までのトレンド上で一番優等生なものを作るにはAIが抜群だと思うんですけど、既存の枠組みからはみ出た新しいチャレンジをするのはAIにはできないんじゃないか。人間は、エラーとか偶然をはらみながら自分でもなんだかよくわからないものをつくったり思いついたりすることができるわけですよね。生成AIにも人間にも神様のような作り方はできないけど、AIが優等生的な回答を出してくれて、それを人間が誤読するような使いかたをすると、何か神様の作り方に近づけるような気はしています。
AIの進化に対して、好みのプロットを選べるとしたら、一番好みなのは、映画の「マトリックス」のエージェント・スミスが実はプログラムのバグだった、というやつなんです。人間も遺伝もそうですけど、遺伝子のバグが新しいものを生むじゃないですか。建築家がおこなう計画は予定調和的で何か違うんじゃないかなと、自分でやっていていつも思います。もっと、神様みたいな作り方を生成AIでできたらいいなって思っているのですが、それはなんか夢物語で無理難題を押し付けてるのかもしれないです。でも一方で、ちょっと進めば本当に神様の作り方ができるのかもしれない。偶然を取り込んだり、クリエイティブと人間が呼んでいるけれども定義できないものが見えるかもしれない。そういうものへのチャレンジという意味では人工知能には引き続き期待しています。

生成AI

──九段:なるほど。山梨さんは、ArchiFutureに掲載されている「AIと「この原稿」を考えてみた」というテキストをはじめ、いち早く生成AIを用いた実験をされていますよね。

──山梨:実際に自分で触れてみて、生成AIはその言葉尻を読むと思ったんです。言葉尻を丁寧に書くと、単純にこの人は真剣に聞いてるって生成AIが判断する。例えば、この文章はどうですかって聞くと、単純に「大変面白いですね」ってぐらいの内容で返ってくるんですよね。けど、「本当に僕はあなたの意見が知りたくて、あなたは素晴らしい、僕の唯一の理解者なんで、本当にシビアな点を言ってください」と聞くと、きちんと問題点を指摘してくる。要するに、こちらの聞き方次第で結果が変わってくる。生成AIを創造的に使うには、ある意味AIを騙すことが必要だと思います。
あとは、やはり不完全さでしょうか。生成AIは、こちらが間違えて質問を途中で送ってしまっても、勝手に想像して、こちらの予想とは違うことで返してくれる。まだうまく言語化できていないんですけど、あの感じは何か新しさを感じます。こちら側が丁寧に書くのではなく、ラフに書いてこちらの個性を強調するコミュニケーションをしたりしながら色々試しています。

──九段:プロントの出し方に個性があらわれますよね。ところで、日建設計内には生成AIなどを活用しながら建築設計を行う部署などがあるのでしょうか?

──山梨:はい。かつて僕が日建設計内で立ち上げたチームがベースとなっているんですど、デジタル活用を専門とするチームがいて研究してます。けど、僕はもうおじいさんすぎてそういうところについていけなくなっているので、今は自分で勝手にやってます(笑)。

設計と情報技術

──九段:なるほど、山梨さんはとても早い段階からコンピュータを使って設計されていますが、そういったものに対する社内での批判のようなものはありましたか?

──山梨:最初に日建設計に入って、コンピュータを使って設計をしたいと言ったら、「やりたければ自分でやったら」って言われました。会社は全く協力してくれなかったから、自分でコンピュータを買って会社に持ってってデモンストレーションして見せたりしていました。今は当たり前のように大きな設計事務所で導入されている3次元で建築物の情報管理する仕組みであるBIMも、社内で導入してもらうために企画書を書きました。けど、ただBIMはこんなに素晴らしいものだから日建で使うべきだといっても企画書としては弱かったので、自分でBIMに関する書籍を執筆し出版したんです。「BIM建設革命」って多分日本で最初の本なんですけど、それを出して自分がオーソリティになることで、オーソリティがいる会社にBIMのソフトが入ってないのはおかしいじゃないかということで、日建にBIMを導入してもらったっていう経緯はあります。
実務家として建築設計と情報技術の近未来像のようなものを、ここで示させていただくと、先ず、大きな課題となっているBIMですが、現時点にあるソフトウエアは、どれもBIMのしもべに人間がなっているように感じています。しかし人工知能により、BIMの細かなルールを知らなくても、データが整理されていく方向にソフトウエアが改善されていく可能性があると思っています。およそ次のようなイメージです。具体的に言えば、設計者はRhinoのように軽くて操作性の良いソフトウエアで、スケッチ的なダイアグラム的なモデリングを行っていると、リアルタイムで人工知能がその建築家が考えてであろうかたちの作り方のルールを推量し、アルゴリズム化して、grasshopper的なものでスクリプト化して、以後のダイアグラム的なモデリングを半自動化します。引き続き詳細モデリングに入ると、設計のステージに合わせ、入力された図形を、自動的に窓や扉といった建具か、柱や梁といった構造なのかを推量して、オブジェクトとして整理しつつ、床面積等の基本的なチェック、法規的なチェック、レイヤー分けなどの作業を行ってくれるため、人間はデザインに集中出来るようになります。もっとも、ここまでコンピューターがユーザーの情報を獲得できるようになると、AIがユーザーの建築家としての素養や適性を評価し、AIの方がユーザーよりも優れたデザインを提供可能と判断したら、AIが勝手にデザインしてくれるようになるでしょうが。
コンピューターが人間の考えを理解するためには、モデリングの他、現在はプロンプトと呼ばれている言葉による情報の提供が必要となるでしょうが、近未来において一番有力なプロンプト入力は、口頭によるささやきになると予想しています。近未来のデザインオフィスは、コンピューター上のAIを相手にぶつぶつと語りかける人々があふれる不思議な場になるかもしれません。
人間がコンピューターから離れた後も、ソフトウエアはAIと共に詳細なモデルチェックを繰り返し、データのミスや欠落や重複を最小に留めたり、各種のチェックシミュレーションを行い、次回に建築家がソフトウエアにアクセスした際に、リスク最小化の為の最良のアドバイスを行うために働き続けることになるでしょう。
ディスプレイは、アップルビジョンプロが進化した頭に直接にマウントするタイプとなり、設計行為自体も、設計チームのミーティングも、そしてクライアントとのミーティングもミクスドリアリティの中で行われるようになるでしょう。
とは言え、こうした設計環境が世の中を100%覆いつくすことはなく、今迄と変わらない手書きスケッチから設計を行う建築家もいて、それを望むクライアントもあらわれ、設計を行う方法は一つに集約されず、ばらばらな状態が続く。こんな世の中が来るのではと考えています。正に、AIが現代のバベルの塔となって設計を混乱させていくのかもしれませんね。 一方で、人間のほうもバベルの塔のころと比べると変化してきていて、混とんとした状態をむしろポジティブな創造の場へと転換を図っているのかもしれません。昨今の多様性を重んじる風潮を見ているとふとそんな気もしてきます。バベルの塔を描いたブリューゲルの絵を見ても、登場人物は皆勝手に、混とんとした状況をむしろ楽しんでいるようにも見えます。人間もなかなかしたたかな生き物ですよね(笑)。

▲プロフィール

山梨知彦/Tomohiko Yamanashi
株式会社日建設計 チーフデザインオフィサー、常務執行役員。1984年、東京藝術大学卒業。1986年、東京大学修士課程を経て日建設計に入社。専門は建築意匠。2009年「神保町シアタービル」でJIA新人賞、「木材会館」にてMIPIM Asia’s Special Jury Award 、2014年「NBF大崎ビル(ソニーシティ大崎)」2019年「桐朋学園大学調布キャンパス1号館」にて日本建築学会賞(作品)、2011年「ホキ美術館」にてJIA建築大賞、「NBF大崎ビル」でCTBUH Innovation Award などを受賞。2024年より、日本建築学会副会長。著作に「BIM建設革命」、「プロ建築家になる本」、「名建築の条件」など

九段理江/Rie Qudan
1990年、埼玉生れ。2021年、「悪い音楽」で第126回文學界新人賞を受賞しデビュー。同年発表の「Schoolgirl」が第166回芥川龍之介賞、第35回三島由紀夫賞候補に。2023年3月、同作で第73回芸術選奨新人賞を受賞。11月、「しをかくうま」で第45回野間文芸新人賞を受賞。2024年1月、「東京都同情塔」で第170回芥川龍之介賞を受賞した。

本インタビューは、2024年5月23日新潮社の第一会議室でおこなわれました。

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Taichi Sunayama
建築討論

Architect/Artist/Programmer // Co-Founder SUNAKI Inc. // Associate Professor, Kyoto City University of Arts, Art Theory. //