皇族の山小屋

連載:山岳空間の近代(その2)

一色智仁
建築討論
Apr 25, 2022

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福島県と山形県にまたがる吾妻連峰の麓に、五色温泉宗川旅館というひなびた温泉宿がある(写真1)。ここにかつて皇族を迎えるために建築された六華倶楽部という山小屋があった。連載第二回は、近代に花開く山岳文化の揺籃期に大きな役割を果たした、六華倶楽部を中心にみていきたい。

写真1 五色温泉宗川旅館 (筆者撮影)

甚兵衛火事を手がかりに

1881年4月25日、福島県福島市柳町の銭湯「みどり湯」で火災が発生した。火は強い南風を受け拡大し、福島町内の全戸の約8割にあたる1785戸が焼失、のちに「甚兵衛火事」と呼ばれる大火となった。原因はたばこの不始末であった。失火元のみどり湯主人、二階堂甚兵衛が受けた刑罰の詳細は不明だが、彼は町を立ち退くこととなった。

その後、再び「甚兵衛」の名を見ることができるのが、大火から12年後、噴火の調査記事の中においてである。1893年5月19日に、吾妻連峰一切経山で噴火が起きる。この噴火を報告した同年11・12月の『地学雑誌』の記事のなかに、火口のすぐそば、現在の浄土平付近に「甚兵衛小屋」を見つけることができる(図1)。小屋は「数度の降灰及降石の為め屋根には数個の穴を穿たれ壁の内外は一面灰を塗沫せられ今は見るに忍びざる惨状に陥れり」と説明され、噴火で大きなダメージを受けたと思われる。

この噴火の3年ほど前から、浄土平付近に「吾妻湯」と称す温泉場があった。これを経営していたのが、福島の町を追われた甚兵衛であったのだ。彼は温泉経営のほか、硫黄の採取・販売を行いながら、大火から復興していく福島市街を見下ろしながら生計を立てていた。噴火を前に、ひどくなる山鳴りを恐れて続々と下山していく湯治者を見送りつつ、甚兵衛は最後まで小屋に残り続けた。しかし、5月初旬には家財道具をまとめて売り払い、わずかな硫黄を手に須賀川方面へ商いに出たのち行方知れずとなった。その後、残された小屋は「甚兵衛小屋」として登山者に知られ、昭和初期まで残骸だけが残されていた★1。

図1 吾妻山破裂口近傍図(出典:『地学雑誌5(11)』1893)
図2 吾妻山八月中旬之景況(出典:『地学雑誌5(11)』1893)
写真2 甚兵衛小屋/大正初めに微温湯温泉が発行した絵はがきから(出典:参考文献1)

甚兵衛火事は図らずも吾妻連峰への交通インフラの整備を加速させることとなった。1882年、大火からの復興のため、山形県令三島通庸(1835–1888)が兼任として福島県令に着任する。三島はまず、焼失した市街の道路を拡幅・再編し、まちを北と西へ拡大させ、現在の福島市街の骨格を作った。「土木県令」と称される三島が山形および福島県令に着任して以降、両県間の交通インフラは急速に整備されている。すなわち、三島が山形県令となり即着手した「万世大路」(工期:1876–1881)、そして奥羽本線の福島-米沢間の開通(1899)である。いずれも吾妻連峰北部の板谷峠付近を通り、あたりは山岳空間と近代交通機関の一足早い交錯点となった。

図3 南置賜郡萬世新道ノ内栗子隧道西口ノ図(出典:高橋由一『三島通庸三県道路改修抄図「山形県」』1885)
写真3 栗子隧道/右でステッキを持っているのが三島通庸(出典:平田元吉『三島通庸』1898)

最古のスキー場

1911年3月、奥羽本線板谷駅から直線で2キロほどの距離にある五色温泉で、オーストリア人貿易商エゴン・フォン・クラッツァーがスキーを行った。日本近代スキーの発祥とされるレルヒ少佐★2による帝国陸軍へのスキー指導(1911年1月12日/新潟県上越市)と同時期であり、レジャー目的としては最初期のものと思われる。彼はスキーの適地を求め、青森まで鉄道旅行に出ている途上であった。

クラッツァーは同年12月に宗川旅館を再訪する。そこで団体宿泊について協議を行い、翌年1月に12名を引き連れてスキーを行った。このことから、同地は国内初の民営スキー場とされている。年末にはクラッツァー、ウィンクラー★3が中心となり、在留外国人からなる「日本アルペンスキークラブ」が結成された。東京から鉄道で約9時間というアクセス性と、内陸高地特有のパウダースノーが評判を呼び、五色温泉は多くの人々を惹きつけていった。

写真4 日本アルペンスキークラブの五色温泉での練習風景/五色温泉宗川旅館発行の絵はがきから(出典:参考文献1)
写真5 六華倶楽部之雪景(出典:参考文献2)

第一次世界大戦の影響を受け、日本アルペンスキークラブはわずか2年で解散する。しかし、五色温泉におけるスキー文化は学生たちに引き継がれた。1914年1月に板倉勝宣ら学習院の学生6名が五色温泉を訪れたのを皮切りに、1915年に東北帝国大学、1916年には東京帝国大学、慶応義塾大学などの学生が相次いで来訪する。「五色温泉スキー日記」(板倉勝宣/1918)には、ドイツ人とイギリス人、オーストリア人のウィンクラー(ウ氏)と共にスキーをする板倉の回想が描かれている。極東の山岳空間では、敵も味方も関係なくスキーを楽しんでいた。

大木の切株が二つある。一つは独が占領した。日本も他の一つをとった。英はまた他の場所によった。眺めると独英日が別々に陣をとっている。「戦争をしようか」と三人で笑った。頭上には硫黄を運ぶケーブルが動いている。ウ氏がつるさがってくる飛行船のような薪のたばを指して「ほらツェッペリン」と遠くのほうから愛嬌をいう。

パンをほおばりながら見ると、わが眼界に遠くの山々が真白にいかにも地球のしわのごとく凸凹を見せて、そのまたさきに平野が美しく横たわって見える。こういうところから見ると、山は全く地球の襞だと合点される。 板倉勝宣「五色温泉スキー日記」1918

写真6 五色温泉におけるウィンクラー氏(出典:札幌山と雪の會『山と雪第三号』1930)
写真7 五色温泉から栗子山方面/近年風力発電機が設置された(筆者撮影)

皇族の山小屋 — 六華倶楽部誕生へ

「スポーツの宮様」として知られる秩父宮(昭和天皇の弟)と海軍大将の黒井悌次郎が1917年冬に訪れてから、五色温泉の名声は一気に高まった。当時は青年皇族の間でスキーが流行しており、妙高山麓の赤倉温泉にあった細川護立邸とあわせて、宗川旅館がその拠点となりつつあった。しかし、皇族と庶民が同じ宿に泊まることが問題視され、皇族用のスキーヒュッテの建設に宮内省が乗り出す。その建設地として白羽の矢が立ったのが五色温泉であった★4。

1923年、ヒュッテの建設に先立ち、東京において「六華倶楽部」が結成される。創設メンバーには黒井悌次郎ほか細川護立、西園寺八郎ら華族10名が名を連ねた。「六華」には六方形の雪の結晶という意味、秩父宮・高松宮・三笠宮・北白川宮・竹田宮・朝香宮の六宮家を中心としたクラブである意味が込められている★5。会員名簿をみると1934年の会員数は80名にふくれ、アイガー北東稜に初登した槙有恒、上高地帝国ホテルや燕山荘の建設に関わった大倉喜七郎の名が見える(図5)。六華倶楽部は、単に上流階級のスキー同好会というだけでなく、やがて軍事色が強くなる日本社会のなかで、比較的リベラルな考えを持つ人々の社交の場としても機能していたようだ。

図4 昭和9年六華倶楽部会員名簿(出典:参考文献10)

1924年12月に竣工したクラブヒュッテの設計は、前掲の名簿に名を残している関根要太郎がおこなった。関根はユーゲント・シュティール(ドイツ・オーストリア圏で展開した芸術運動)の日本における第一人者として知られ、函館や埼玉を中心に作品を残している。設計には、当時関根事務所の所員だった濱岡(蔵田)周忠が携わり、関根が大まかな案出しをした後、細かな仕上げは蔵田が担当した。

図5 六華倶楽部透視図(出典:建築画報社『建築画報16(1)』1925.1)
図6 六華倶楽部設計図/関根建築事務所(出典:建築画報社『建築画報16(1)』1925.1)

緩斜面地に建ち、外壁は接地部分が地元で採れた凝灰岩による方形乱貼の石積み、上階部分は下見板張りとなっている。内部の空間構成は地形に合わせてスキップフロアとし、回廊の中心に暖炉が設けられている。「夏は青葉の間に錆色の屋根が、冬は雪と山の灰色の空を背ふて金色に光る煙突の光が目につく筈です」と蔵田が述べたように、板谷集落の人々にとって、谷の向こうにきらりと光る六華倶楽部の煙突は、皇族の権威の象徴でもあった★6。

写真8 六華倶楽部外観(出典:参考文献10)
写真9 煙突(出典:参考文献10)
写真10 ラウンジ(出典:参考文献10)
写真11 暖炉(出典:参考文献10)

五色温泉宗川旅館及び六華倶楽部は、当時の上流階級の人々にとっての社交の場として機能していたが、興味深い出来事として、1926年に宗川旅館の離れで開催された日本共産党第三回大会が挙げられる。12月初旬、スキーシーズン前の閑散期に、東京日本蓄電池株式会社員の慰労会と称して、佐野学、徳田球一、福本和夫をはじめとした17名のメンバーが集結した。そして党の規約やテーゼについて話し合い、関東大震災後に一度解散していた日本共産党が再建されることとなった(五色大会)★7。直接の関係はないが、学生運動が終わりを告げた「あさま山荘事件」(1972年)など、コミュニズムの転機と山岳空間とは奇妙につながりあっている。

写真12 六華倶楽部の暖炉(出典:日本温泉協会『温泉19(9)』1951)
写真13 客室(出典:参考文献10)
写真14 ロビー(出典:参考文献10)
写真15 ホール(出典:参考文献10)

火口原のスキーヒュッテへ

はじめ五色温泉周辺のスロープを滑走していた人々は、やがて吾妻連峰の核心部へ分け入るようになる。それに従い、五色温泉を起点に多くの山小屋が建設された。最も山小屋が整備されていた1933年頃にさかのぼり、五色温泉から「火口原のスキーヒュッテ」へと至るスキーツアーを開始してみたい。

五色温泉を出て、六華倶楽部ヒュッテ裏の急坂を登り、不忘山と高倉山の鞍部の“賽の河原”を過ぎてしばらく行くと、「高倉小屋」が見えてくる。そこから一時間ほど歩くと、「青木小屋」に到着する(写真16)。この小屋は1926年に宗川旅館により建設され、山中の拠点としては最初期のものであった。深田久弥や串田孫一をはじめ、その後の山岳文化を代表する人達にも利用されたが、戦時下に焼失した。1932年には青木小屋の隣に「緑樹山荘」(写真17)が六華倶楽部により建設された。これは現存し、幾度かの改築を経て、現在は東海大学が所有・管理している(写真18)。

写真16 青木小屋(出典:額田敏『山岳写真のうつし方』1932)
写真17 緑樹山荘(出典:参考文献5)
写真18 緑樹山荘/使用には許可が必要(筆者撮影)
写真19 吾妻山荘/1935年パラダイス付近に建設(出典:参考文献5)

そこから“フンドシ”と呼ばれる急坂を登り、 “パラダイス”とされた緩斜面を歩くと、「慶応ベルグリヒトヒュッテ(別名家形山ヒュッテ)」が見えてくる(写真20,21)。あたりは“フトコロ”と称し、風も穏やかなスキーヤーにとって憧憬の地であるが、その上部の“ガンチャン落とし” ★8の急坂は、雪崩の多発地帯として知られる。記録に残っているだけで、1919年、1958年、1970年に雪崩が発生し、三度目の雪崩では、ベルグリヒトヒュッテの跡地に建設された「県営家形ヒュッテ」(写真22)が直撃を受けた★9。現在この場所には「家形山避難小屋」(写真23)が建っている。

写真20 家形山ヒュッテ(出典:参考文献4)
写真21 ヒュッテノ朝(出典:参考文献4)
写真22 県営家形ヒュッテ/当時の絵はがきより(出典:参考文献1)
写真23 家形山避難小屋(筆者撮影)
写真24 五色沼(出典:参考文献3)

今は廃道となったガンチャン落としの急坂を登ると、“吾妻火山の碧い眸”として名高い五色沼(写真24)の畔に到着する。湖畔を巻き、一切経山を越えると、“浄土平”が眼下に見える。かつて「甚兵衛の湯」があった場所である。跡地に建設された「硫黄製煉所小屋」(写真25)が、これまでの長旅で疲れたスキーヤーを迎え入れた。

そのSkavlaのただ広い拡がりのうちに自分等の目は、一個の鼠色の立方体を見出した。それは自分等が仮りに — むしろ気取って「火口原のSkihütte」と呼びならす硫黄製造所の冬籠りの小屋だ
— 大島亮吉「火口原のスキーヒュッテ」1922

写真25 硫黄小屋(出典:参考文献3)

浄土平を拠点に、沼尻駅(沼尻軽便鉄道終点)★10や微温湯温泉への下山路、谷地平(写真26,27)、ヤケノママ(写真28)方面への縦走路など、様々なコースが開拓された。いずれも大小さまざまな山小屋が建設されており、建築の力を借りて人々は山岳に空間を獲得していった。

写真26 谷地平小屋の朝(出典:参考文献1)
写真27 谷地平避難小屋(筆者撮影)
写真28 ヤケノママ小屋(出典:参考文献3)
図7 吾妻連峰の登山道と山小屋/国土地理院の数値標高モデル(5mメッシュ)を加工して作成(1m等高線モデル)。山小屋情報については参考文献1–8、適宜『山日記』を参照した

五色温泉の現在

1959年に磐梯吾妻スカイラインが開通すると、それまで鉄道中心であった登山スタイルは一変した。浄土平までバスや自家用車が乗り入れ、五色温泉から何泊もかけてスキー縦走を行う人は珍しくなった。クラシックルートに沿った多くの山小屋は姿を消していき、今は小さな避難小屋がみられるのみとなった。

国内最古のスキー場である五色温泉スキー場は、利用者減少のため1998年に閉鎖された。皇族のために建設された六華倶楽部は、建物老朽化のため2000年に解体された。その部材は宮城県大郷町に保管され、再利用の時を待っている。五色温泉宗川旅館は、東日本大震災のあと客足が遠のき、コロナ禍が決定的となって、2020年11月末に100年を超える歴史に幕を下ろした。

2022年3月の宗川旅館は積雪で建物が押し潰されそうであったが、近付くと周囲の雪が溶けていた(写真30)。国籍、思想、貴賤を問わず来る人を温め続けた五色温泉の湯は、今も変わらず湧き出ていた。

写真29 浄土平駐車場/ビジターセンターや天文台があり、夏季夜間は天体観測が人気(筆者撮影)
写真30 五色温泉宗川旅館/時折湯気が立ち流れる(筆者撮影)

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本連載をまとめるにあたり横地貴子様、株式会社伝統建築研究所様には多くの資料をご提供いただきました。記して感謝申し上げます。

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山岳書案内(参考文献)

参考文献として、いくつか山岳関連の本を紹介していきたいと思います。山に興味を持っていただくきっかけにしていただければと思います。

04-
高頭式編『日本山嶽志』(博文館、1906)
山岳の百科事典。編者の高頭式(仁兵衛)は新潟県の豪農出身で、日本山岳会の黎明期を財政面から支え、二代目会長を務めた。1300頁を越える大著であり、各地の山々の概説をはじめ、地質学、気象学といった学術面までカバーしている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762370

続編として、日本山岳会編『改訂 新日本山岳誌』(ナカニシヤ出版、2016)が出版されている。
http://www.nakanishiya.co.jp/book/b217354.html

05-
板倉勝宣『山と雪の日記』(梓書房、1930)
1923年に立山で遭難死した板倉勝宣(1897–1923)の遺稿集。文中で引用した「五色温泉スキー日記」のほか、紀行文を多く収録し、そこから当時の山岳空間の様子をうかがうことができる。板倉は北海道帝国大学で雑誌『山とスキー』(1921–1929)の創刊に関わっており、当時の山岳文化を牽引した一人であった。

06-
大島亮吉『大島亮吉全集(全五巻)』(あかね書房、1969)
穂高岳で夭逝した大島亮吉(1899–1928)の紀行文や随想、論文等を収録している。第三巻の「先蹤者」は、オラス=ベネディクト・ド・ソシュール(1740- 1799)にはじまる近代アルピニズムの主要人物を紹介しており、登山史研究の先駆といえる。文中の「火口原のスキーヒュッテ」のほか、「涸沢の岩小屋のある夜のこと」(1924) 、「秩父の山村と山路と山小屋と」(1925)など、山小屋を主題としたエッセイも多い。

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参考文献

1. 二階堂匡一郎編『吾妻連峰回想譜』2003
2. 計見東山『東北之壮観 第1編 第1巻 (東吾妻)』1921
3. 南置賜郡教育会『吾妻登山案内』1925
4. 福島山岳スキー倶楽部『吾妻・磐梯・五色・沼尻』1931
5. 慶応ベルグリヒト倶楽部『BerglichtⅠ』1933
6. 南條初五郎編『山岳講座 第六巻』1936
7. 宮田恒雄『マウンテンガイドブックシリーズ11磐梯・吾妻・安達太良山』1956
8. 米沢市史編さん委員会『米沢市史 第4巻 (近代編)』1995
9. 藤森照信「旧・六華倶楽部の建築の価値について」1993
10. 横地貴子『「六華倶楽部」移転改築計画―皇室専用スキーロッジから都市住宅への転用の記録』2002

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★1:甚兵衛火事について、高野作次郎『甚兵衛火事の記録』1981、参考文献1を参照した。
★2:テオドール・エードラー・フォン・レルヒ/オーストリアの軍人。アルペンスキーの開祖といわれるマティアス・ツダルスキーの高弟。八甲田山雪中行軍事故を起こした帝国陸軍に請われ、日本各地でスキーを教えた。
★3:レオポルド・ウィンクラー/ドイツ語教師。慶応大学で教鞭をとる。慶応ベルグリヒト倶楽部の初代部長。レルヒ、クラッツァーと共にツダルスキーの弟子とされる。
★4:秩父宮は五色温泉のほか、北海道の空沼岳に「秩父宮ヒュッテ(現空沼小屋)」(1928年竣工)を建設している。設計は札幌と横浜で活動したスイス人建築家マックス・ヒンデルが行った。ヒュッテの建設経緯とマックス・ヒンデルについては、角幸博「M.ヒンデル原案の秩父宮ヒュッテ(現空沼小屋)の建設経緯と建築概要について」(日本建築学会技術報告集 8 巻 15 号 p. 339–342、2002)と一連の研究に詳しい。また少しテーマとはずれるかもしれないが、早稲田大学の渡邊大志准教授によって、日本の近代山荘とフィンランドの建築文化との関係を探る研究が始まった。https://www.f.waseda.jp/watanabetaishi/Sanso.html
★5:橋本實『学習院登山史(Ⅰ)1887–1953』2006では雪の結晶から、参考文献1では六宮家から名付けられたとしている。
★6:六華倶楽部と板谷集落の人々との関係については『河北新報』1999年7月13–15日の記事に詳しい。
★7:日本共産党第三回大会について、天草麟太郎『日本共産党大検挙史』1929、警察協会『警察協会雑誌(353)』1930を参照した。
★8:法学者の末広厳太郎が東大助教時代に転がり落ちたことから名付けられた。
★9:1919年頃、哲学者で慶応大学初代山岳部長の鹿子木員信らが家形山―高倉山で雪崩に巻き込まれている(慶応義塾体育会山岳部『登高行15』1956)。1958年の雪崩ではJAC山の会の一行がガンチャン落としで雪崩に遭遇し、一名が負傷、一名が死亡した(「吾妻山で遭難」『福島民報』1958.12.31)。当時遭難者救助の拠点として機能した県営家形ヒュッテは1970年の雪崩で半壊した(「県営家形ヒュッテが倒壊」『福島民報』1970.3.9)。
★10:1913年、沼尻鉱山で採取された硫黄を輸送するため、磐越西線川桁駅と沼尻駅間で運行開始した。五色温泉 — 浄土平 — 沼尻を結ぶスキーツアーに欠かせない交通機関であったが、1969年に廃止された。

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これまでの連載

1)山岳空間への招待:山岳空間の近代(その1)

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一色智仁
建築討論

いっしき・ともひと/1997年生まれ。2018年国立明石工業高等専門学校卒業、東北大学工学部編入学。現在、東北大学工学研究科博士後期課程在籍