システムの綻びと建築家

連載:後期近代と変容する建築家像(その2)

松村淳
建築討論
Apr 18, 2022

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震災とシステムのほころび

連載第1回目では、建築家の職能論については、1970年(代)、1995年、そして2011年に大きな画期があるということを指摘し、1970年代の出来事を中心に議論した。連載第2回目の今回は、その続きとして、後のふたつの画期(1995年、2011年)についての議論を深めていきたい。

まずは、阪神淡路大震災と建築家について、である。阪神淡路大震災と建築家の職能については、坂茂の活動が象徴的に記憶されている。坂は、長さ5メートル、直径33センチの紙管58本を使って、震災で焼け落ちたカトリック鷹取教会を再建した。私が注目したいのは、紙管を使った建築作品そのものではなく、坂の被災地での活動のプロセスである。

坂茂、カトリック鷹取教会[photo by Bujdosó Attila, source: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Takatori_Catholic_Church.JPG

それについて検討するまえに、私自身の被災経験も交えながら、震災が露呈させたものの正体についてみていきたい。

兵庫県西宮市に住んでいた私も一人の被災者として、電気や水やガスといったライフラインのストップと、スーパーやコンビニといった流通網が完全に機能停止に陥った数日間を過ごした。その数日間で、どれほど、自分がシステムに依存して生きていたのか思い知った。とはいえ、筆者は大家が隣に住んでいる昔ながらの下宿に住んでいたので、筆者の周辺にはJ.ハーバーマスの言う「生活世界」というものが生きていた。「生活世界」とは、端的に言えば、コミュニケーションを積み重ねることで合意形成が可能な世界のことである。

大家には、食事のおすそ分けをもらったり、金欠のときに家賃を待ってもらったりした。また、交渉して少し広い部屋に移らせてもらったこともある。向かいの部屋の先輩からは洗剤や調味料を分けてもらうこともあった。

しかし、ワンルームマンションに住んでいた友人は、マンションに友人も知人もなく、食事はコンビニやスーパーで調達する。大家の顔も知らないし、家賃は管理会社の口座に振り込みである。滞納すれば家賃保証会社から警告が来る。こうした事態こそハーバーマスの言う、システムの生活世界への浸潤である。

これらは、コミュニケーションの「摩擦係数」を縮減するための仕組みである。都市に生きる人間に利便性をもたらし、プライバシーを担保した。しかし、一度カタストロフィが起これば、システム共々崩壊してしまう可能性がある。

事実、ワンルームマンションに住んでいた友人は、商品の棚が空っぽになったコンビニエンスストアの前に立ちすくみ、早々に実家のある四国へと逃げ帰っていったという。私は、地震の直後から大家が駆けつけてくれ、必要な水や食料を提供してくれたり、避難所や義援金の受け取り方などについても教示してもらったりするなどしたため、しばらく被災地に留まることができた。道路も鉄道も寸断され、ライフラインも機能停止したが、大家を中心に地域の人々と連携して、余震が続く不安な数日間を乗り切ることができた。

1995年当時、大家が近居し、離れを間貸しするようなタイプの下宿屋は少しずつ減り始めていた。その一方で増加していったのは、ワンルームマンションである。そこは外界から隔離された都会の小さな城である。近隣の人々と関係性を持たなくとも、ワンルームの中で生活が完結するような仕組みである。この頃からすでに、住まう、という根源的な人間の活動もシステムに浸潤されはじめていたのである。

阪神淡路大震災における坂茂の挑戦

さて、阪神淡路大震災と坂茂である。坂は、一人の専門家として被災者支援と復興への貢献を希望して、被災地に入った。そのモチベーションは以下のようなものであった。

1995年1月17日に阪神・淡路大震災は起きた。ショッキングな出来事であった。自分が直接設計した建物ではないにせよ、建築により多くの人命が失われたということに、建築家としてある種の責任を感じずにはいられなかった。医者や一般人、NGOは、早速ボランティアに駆けつけた。建築家としての自分にはいったい何ができるのであろうかと思わずにはいられなかった。(坂 [1998]2016: 2)

しかし、坂への風当たりは厳しいものであった。被災者たちは、坂を機能停止したシステム側の人間として認識したからである。予測不可能であったとは言え、倒壊するような建物をつくった建築専門家システムへの漠然とした不満が燻っていた。そこへ、のこのこと顔を出してやってきたのであるから、反発されるのは必至である。

カトリック鷹取教会の建設は、建設費と建設ボランティアをすべて坂が集めるという条件のもとで進められた。坂は、こうした不利な条件も全て受け入れて、献身的に仕事を行なった結果、無事に鷹取教会は竣工した。坂はこうした不利な条件を受け入れながら、献身的に被災者に尽くすことを通じて、一人の建築家として被災地に受け入れられたのである。

鷹取教会の再建プロジェクトで、坂が行なったことは、システム側の専門家ではない、生活世界の中の専門家、顔の見える専門家としての活動であった。

東日本大震災と「みんなの家」

2011年3月11日に東日本大震災が発生した。阪神淡路大震災よりも甚大な被害を出した広域災害であった。災害直後から建築家たちの支援活動は様々に試みられていたが、ここでは伊東豊雄を中心とした復興支援活動の一つである「みんなの家」を取り上げてみたい。

伊東豊雄が被災地に入った理由も、1995年の坂茂と同様のモチベーションであった。

震災の直後から、多くの人たちが自分たちにできることは何かを真剣に考え始めました。では、建築家としての自分には何ができるか。その問いを発した時に、同時にもう一つの問いが浮かびます。「日本の社会で、建築家は本当に必要とされているのか」という苦い問いです。(伊東 2012: 22)

しかし、1995年の阪神淡路大震災でも露呈したように、建築家はシステムの再建には呼ばれない。伊東も「復興が動き出すなかで、土木の専門家には各自治体から声がかかりますが、建築家が呼ばれるケースはほとんどありません」(伊東 2012: 27)と述べている。

1960年代、その頃から、建築家はシステムに主体的に関わることが難しくなっていった。作品として成⽴する建築物や住宅という⽐較的ニッチな領域に追い込まれていくか、アノニマスな技術者としてのシステムの側に取り込まれていった。

伊東は被災地に入って、被災者たちが不自由な環境でも、仲間たちと豊かなコミュニケーションを試みようとする姿勢に感銘を受けたという。そして、そうしたコミュニケーションをエンパワメントする建築こそが被災地に必要だという認識の下に、「みんなの家」を設計した。「みんなの家」のコンセプトは「10坪ばかりの木造の小屋で、そこには大きなテーブルを置いて、10人以上の人々が食事をしたり酒を飲んだりできるような場所」である。

これこそまさに「生活世界」の再建である。伊東は「みんなの家」を被災者と飲食を共にしながら、彼らの要望に真摯に耳を傾けることで実現させたのである。

伊東は「近代合理主義のシステムに従えば、『つくること』と『すむこと』の一致は不可能だといわれてきましたし、自分でもその境界をなくすことはあり得ないと考えてきた」(伊東、2012: 78)と述べている。ここで「つくること」=システムであり、「すむこと」=「生活世界」であると読み替えれば、伊東は「生活世界」の側に立ったことがない建築家であることが推察できる。しかし、「みんなの家」の設計を通して、伊東は「私が設計の仕事を始めてから、つくり手と住まう人がこれほど心をひとつにしたことはありません」(伊東、2012: 78)と述べている。

伊東は、この住宅の設計を通じてはじめて、「生活世界」における専門家としての自分の役割に目覚めたのだろう。

「生活世界の専門家」としての建築家

坂と伊東の取り組みについてシステム/生活世界という二項対立から、検討してきた。システムは社会の隅々にまで張り巡らされており、その存在を意識しないほど、なめらかに駆動している。大震災というカタストロフィはそうしたシステムが一時的に機能停止する瞬間であった。システムが機能停止した世界で、人々は、システムが生活世界へ深く浸潤していることを思い知るのである。

阪神淡路大震災という一度目の機能停止によって、人々はボランティアという相互扶助の仕組みを立ち上げた。1995年はボランティア元年と呼ばれる。ボランティアは、システムではなく、生活者の相互扶助によって「生活世界」の崩壊の危機を乗り越えるための仕組みである。

東日本大震災という二度目の機能停止は、何を露呈させたのか。それを一言で言い表すことは難しい。本連載のテーマである建築家の職能に引きつけて述べると、建築家は「生活世界」における専門家としての役割を果たした、とい言えるだろう。これ以降、建築家の「生活世界」における専門家としての役割は、地方創生というシーンの中で存在感を増していくのである。

次回は、こうした建築家の役割について具体的にみていきたい。

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参考文献
坂茂、[1998]2016、『紙の建築行動する――建築家は社会のために何ができるか』岩波書店。
Habermas, J., 1981, Theorie des kommunikativen Handelns. 2Bde. Suhrkamp verlag, Frankfurt am Main.(=1985–1987,河上倫逸他訳『コミュニケイション的行為の理論』(上中下)未來社.)
伊東豊雄、2012、『あの日からの建築』集英社。

松村淳 連載「後期近代と変容する建築家像」
・その1 後期近代と 建築家の「解体」
・その2 システムの綻びと建築家

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松村淳
建築討論

まつむら・じゅん/1973年香川県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。京都造形芸術大学通信教育部建築デザインコース卒業。関西学院大学大学院社会学研究科博士後期課程(単位取得満期退学)。博士(社会学)・二級建築士・専門社会調査士。専門は労働社会学、都市社会学、建築社会学。関西学院大学社会学部准教授。