近代住宅論:民家の庭と町並みのファサードにおける贈与

連載:建築の贈与論(その4)

中村駿介
建築討論
Jul 19, 2022

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はじめに

一般に日本建築史において住宅というものは、寝殿造や書院造のような貴族住宅や武家屋敷といった特別な身分をもつ者たちの住宅がメインになっているが、この他にも庶民の住む民家がある。民家には白川郷の合掌造のような農家と、京や江戸のような都市部にある町屋の二種類があり、江戸時代以降の民家は今でも多く残っている。

第2回・3回では都市空間に発生する“贈与”について見てきたが、今回は都市と最も近接する民家の“庭”と“ファサード”について、贈与という観点から見てみたい。

日本建築の庭

日本の庭園は七世紀頃から大陸文化の影響を受けながら誕生するという。我々が思い浮かべる自然形状の護岸と州浜、自然石を組み合わせた石組をもつ池庭である。平安時代には寝殿造庭園や浄土式庭園が登場し、鎌倉時代に入ると禅宗の影響から自然を凝縮する庭園や、武家社会の生活に合わせた書院造と共に回遊式庭園が現われる。桃山時代には茶の湯が広まることで茶室や露地が登場し、江戸時代になると各地で大名庭園が盛んに作られる★1。

こうした庭を愛好する文化が庶民に広まるのは江戸時代と言っても過言ではない。たとえば、江戸の北部にある飛鳥山は、享保五年(1720)に徳川十五代将軍吉宗が造って解放した桜園であった。現代でも名所として知られる公園は草花を庶民が鑑賞する場だったのである★2。さらに、苔寺・西芳寺や智積院といった京都の寺院の名勝庭園は、寺を巡る目的の筆頭になるだろう(図1智若院)。こうした庭を作り愛でる文化は武士や貴族の間で広まり、近代になっても山形有朋などの一部の有力者は庭園をこぞって作った★3。

図1 智若院(撮影:筆者)

ところで、こうした名勝庭園のほかに、我々庶民が暮らす住宅にも庭がある。民家(住宅)の“庭”についての研究は少ないように思えるので、町屋と農家から二つの事例を挙げてみよう。

岐阜高山の吉島家住宅は明治40年に建てられた町屋である。玄関や台所の上部にある梁組の見える、化粧小屋組を見せた吹き抜け空間が魅力的で、2列10室の座敷と通り土間の平面構成の中には中庭と裏庭がある。なお、高山では前庭を中庭と呼んでいる。元々、幕府の直轄領であった飛騨では高山陣屋の建物より軒の高い建物を建てることや、前庭を持つことは許されなかった。吉島家は旦那衆といわれた有力町人の家で、これに準じて江戸時代は前庭がなかったという★4。

明治時代以後の高山の町屋における庭の配置計画は、前庭と奥庭、裏庭の三つに分けられる。前庭は前面道路に沿って主屋と並行した塀の中に配置され、前庭と奥庭の機能は座敷部分を外気に接触させるためのものであるという。裏庭は土蔵部分と下屋に対してまとまった空地を確保するもので、作業庭であった★5。つまり、吉島家住宅を事例に見ると、町屋の庭は鑑賞や作業、建築の環境機能に対して用いられたとわかる(図2吉島家住宅写真、図3吉島家配置図)。

図2 吉島家住宅(撮影:筆者)(左・中)
図3 吉島家配置図(出典:日本建築学会編『日本建築史図集 新訂第3版』彰国社、2011年)(右)

一方で農家について、山梨塩山の甘草屋敷こと旧高野家住宅は江戸時代後期に建てられた3階建の迫力がある農家の一つである。大きな切妻屋根の中央に突上屋根を設け、妻に棟持柱とウダツ柱を建て、化粧貫を幾段にも通すなど妻壁に意匠を凝らした外観は、俗に「甲州切破風造」とも言われる。江戸時代中期の享保5年から、幕府の命により薬用植物「甘草」を栽培していた家柄で、代々名主・長百姓を務め「甘草屋敷」と称されていた。

旧高野家住宅の屋敷には、馬屋や蔵、地実棚(じみだな)など農耕生産に関わる建造物が広い庭に保存されている。たとえば、主屋の西には石組の池を中心とする庭園、地実棚の西には水神宮を祭る石組の池を設け、主屋の南前方は甘草畑、敷地西北部は竹藪であったと伝えられる★6。各付属屋の建築年代は明らかでないが、小屋は主屋と同じ江戸時代後期と考えられ、巽蔵、馬屋、東門、文庫蔵は明治時代前半に降る可能性があるという。つまり、旧高野家住宅の庭は、プライベートな生産地としての庭であった(図4旧高野家住宅写真、図5旧高野家住宅配置図)。

図4 旧高野家住宅写真(撮影:筆者)(左)
図5 旧高野家住宅配置図(出典:文化財建造物保存技術協会、塩山市教育委員会編著『重要文化財旧高野家住宅主屋ほか八棟 (巽蔵・馬屋・東門・文庫蔵・小屋・附地実棚・附裏門・附座敷門) 保存修理工事報告書』塩山市、2001年)(右)

以上、こうした民家の庭は、個人のための鑑賞用、もしくは生産地としての庭であったといえる。これは一般階級の武士についても同様で、生産地としての庭が住宅の裏や周りに広がっていた(図6松坂、図7松代)。

図6 松坂(出典:高橋康夫(ほか)編『図集日本都市史』東京大学出版会、1993年)(左)
図7 松代(出典:『図集日本都市史』1993年)(右)

モダニズムの庭

こうした民家と庭の考え方は、日本に飛来したモダニズムにも継承されていく。中でもピロティを用いて大地を開放させた住宅として、丹下健三「成城の家」(1953年)と菊竹清則「スカイハウス」(1958年)がある。両者は立地や趣向といった文脈こそ違えど、当時の先駆的な建築家の自邸という点で、彼等の住居に対する考え方を分析できる重要な例である。とくに両者が共にピロティを用いていた点が重要である。このピロティの下にできた空間は一種の庭であって、個人の住居観が影響を及ぼした空間であった★7。個人の住居観は出自に影響を受けるだろう。以下、ふたりの出自に触れながら住宅と庭について、贈与の観点から考察する。

菊竹清則は九州久留米市の地主に出自を持つという★8。地主というのは村落の首長として自室に沢山の民衆を有する空間が必要で、前述した旧高野家住宅のように大規模な民家となる。菊竹の自邸「スカイハウス」(図8スカイハウス)は、崖地に迫出したコンクリートが浮遊するような建築で、そこからユニットを吊るす形で増築が可能であるというメタボリズムを代表とする建築の一つである。ユニットは子共の年代や、各種設備などに合わせて取り換えが可能とされた。そこにはピロティ部分は使わずに所有物を住居内に納めようとする意図が感じられる。つまり、様々な人や物が一つの建物内に納まるという点で、前述の旧高野家住宅のような地主の農家と同様の住居観を思わせる★9。

他方、庭についてみれば、炉のある庭を持つ「スカイハウス」は、農家が囲炉裏を囲む風景を元にしているようにみえる。菊竹が家族生活を最も重要な単位とし、「安定した夫婦の空間を中心として、各種のムーブネット(とりかえ可能な生活道具)で家族の空間を構成するひつようがある」★10というように、庭もまたプライベートな空間として考えられていたのだろう。そして、都市生活を営むためにつくられた「スカイハウス」には、生産の庭は必要が無かったといえる。

図8 スカイハウス(出典:菊竹清訓・川添登『菊竹清訓 作品と方法 1956–1970』美術出版社、1973年)

一方の丹下健三の父親は銀行員で職位が高く、転勤が多かった。そのため、大阪で生まれた後に中国や今治など幾つかの場所で幼少期を過ごす。中でも丹下の印象に残ったのは中国と今治での記憶であろう★11。

私の最も古い記憶は、中国・上海時代のものである。上海のイギリス租界、赤レンガの四階建ての住居が軒を並べて建っているうちの一軒が私の家であった。各戸の前には奥行き三十メートルほどのゆったりした庭がついていた。今にして思えば、ロンドンなどの町並みとほとんど同じものであった。(『一本の鉛筆から』p7)

丹下の幼少期にある住居と庭の風景が、西洋式のタウンハウスにあったことは紛うことない。そんな丹下の自邸「成城の家」の一階にあるピロティ下の空間は他者から利用可能な庭であった。子女の内田とし子氏によれば、そもそも家の敷地は柵や塀が無かったため、庭には近所の子供たちが遊びに来て、ピロティ下の空間では自転車や砂場、卓球などができたという★12。さらに、磯崎新氏の結婚式がピロティで行なわれているように、他者を招いてもてなす空間でもあった(図9成城の家)。桂離宮やコルビジュエの影響を素直に受けたと考えられているが、こうした一連の庭の使い方をみれば、丹下が幼少期に上海のイギリス租界で住んだタウンハウスの影響を受けているとも考えられる★13。他者による使用を可能にした私的な空間、つまり、庭は他者に一時的に“贈与”された空間であったと解釈できよう。

なお、丹下が計画する建築は「アーバンデザイン」に基づいたものになっており、「国立屋内総合競技場」(1964年)のデザインは、原宿と渋谷の間に「道の空間」を作り、両方から人の往来ができるように小体育館と大体育館などの各建築が関係づけられているという★14。こうした空間の贈与を丹下が明確に意識したのかについては不明であるが、庭の一部として使われたピロティ下の空間は、贈与の空間であったと言えよう。

菊竹「スカイハウス」と丹下「成城の家」は環境が異なるという点で単純に比較し難いが、他者が使用可能であるという庭の贈与性をみるならば、「成城の家」の贈与性が高いといえる。そして、二つのモダニズムの建築家の自邸は、贈与の観点からみれば、日本の伝統的な地主の家の庭と、新興の西洋風の家の庭と位置づけられよう。

図9 丹下自邸(成城の家)(出典:上(丹下健三、藤森照信著『丹下健三』新建築社、2002年)。下(豊川斎赫編『丹下健三とKENZO TANGE = Tange Kenzo and KENZO TANGE』オーム社、2013年)。)

民家と庭:庭付き一戸建て思想

では、次に現代でも多くの庶民が住む「庭付き一戸建て」住宅の思想について、庭と贈与の関係を念頭に置きながら考える。

フィツ・ジェラルド★15の『グレート・ギャツビー(The Great Gatsby)』(図10)には、ジェイ・ギャツビーが住宅で盛大にパーティーを開くアメリカの生活風景が描かれる。広大な庭を持つ豪華な住宅は社会ステータスを表す所有物であった。パーティーによって庭を隣人に開放する、つまり空間と体験を贈与することが地域社会での地位を示すことになる。その結果として新たな仕事や影響力のある人と会う機会を得ることになる(ギャツビーの場合は、かつての恋人デイジーと再開する)。

図10 『グレート・ギャツビー』

庭に人を招き案内するという趣向は江戸時代の大名庭園などにも現われるが、多数の人を招いた社交の場は近代化と共に輸入された庭であった。三菱の創業者・岩崎彌太郎が幕末から明治に構えた駒込や深川の邸宅には必ずといって庭が設けられ、そこでは大園遊会が行われた★16(図11岩崎庭園)。プライベートな庭は、選ばれた人にのみではあるものの、他者によって使用可能な空間となっていた。先の丹下の「成城の家」の庭で開かれた結婚式は、岩崎家の邸宅で開いたような園遊会と同様の性質を持ち、そのような意味で近代の邸宅と庭の関係を踏襲したものといえよう。

図11 岩崎庭園(左)・六義園(右)(撮影:筆者)

そして、このような庭付き一戸建て思想は、明治末から大正にかけてハワードの田園都市計画を元に中流階級の庶民に広まる★17。阪急電鉄の沿線開発や渋沢栄一の計画した田園調布などが、日本における郊外ニュータウンの走りとされる。たとえば、私の旧知の友人である門間君★18の実家は仙台のニュータウンの一角にあった。近所には大学の先生が住んでおり、偶に庭でパーティーをやってたという。これが庶民に広まった近代の庭であろう。住宅と庭の関係は明治頃の園遊会と同様の使われ方であった。ちなみに、私の小川村の祖父母の家の庭は畑になっていて、人との交流は土間や居間で行っていた。

ところで、和辻哲郎★19の『風土』★20には日本の家に関する考察がある(図12風土)。

第二に「家」はそとに対して明白に区別せられる。部屋には締まりをつけないにしても外に対しては必ず戸締まりをつける。のみならずその外にはさらに垣根があり塀があり、はなはだしい時には逆茂木や濠がある。そとから帰れば玄関において下駄や靴をぬぎ、それによって外と内とを截然区別する。そとに対する距てが露骨に現われているのである。(P215)

こうした内と外、または中間領域の議論は建築界において旧来から頻繁に議論されてきたように思われるが、自分のための庭か、他者と関わるための庭か、というような空間の主体を考える視点が建築の贈与論では重要になるだろう★21。

図12 『風土』

町並みの互酬性

最後に、日本の住宅における贈与性について考える。たとえば地主の住宅は家中を村内の農民に解放することに一つの贈与を見出せるだろう。一方で、住宅が密集する町場においては、何が贈与対象となったのだろうか。ここでは、外部から最も目に留まるファサードに着目する。

美麗なファサードは建物の格調を外部に表現し、所有者の社会的ステータスを示す。商業施設の場合、目を引くことが客を誘致することに繋がることは自明であろう。もし、趣向を凝らした意匠にすることが目的であければ、内部だけを豪華にすることで済むからである。つまり、人目を引くために建築のファサードを華美にすることが重要であった。

たとえば、東京の下町でみられる“看板建築”は人目を引くために作られたという★22。看板建築とは、看板のようなファサードに和洋を問わない多様な装飾が施された建築である(図13根津の看板建築)。蔵造や出桁造といった前近代に成立した商店と比べ、過剰で個性的な表現があった。それは街ゆく人々の目玉に刺激を与えるような消費的デザインで、とにかく人目を奪うためにファサードを重視していた。「東京は、看板建築の誕生によって、近代という名の〈消費の時代〉へ、街ぐるみ突入したのだった」という★23。

ファサードの美麗さを競うように建て替えられた建築が、近代の町並みを作った。こうした、近隣の建築が互いに影響し合うこと(互酬)によって、町並みは発展段階的に成熟して作られたといえる。

図13 根津の看板建築(撮影:筆者)

銀山温泉町の成立

また、こうした都市部の町屋の変化は、同時代的には田舎の民家にも現われると考えられる。一つ極端な事例かもしれないが、大正ロマンの町並みと呼ばれる銀山温泉町について見てみよう。

山形県尾花沢市に銀山温泉という3,4階建ての古風な木造旅館が川を隔てて立ち並ぶ、極めて目を引く景観の温泉町がある★24(図14銀山温泉)。銀山温泉町は、その名の通り江戸時代に栄えた銀山開発の際に掘られた温泉が残った町である。銀山温泉は昭和期に入って活気づく。というのも、昭和元年に新たな源泉を掘り当て、繁昌し、建て替えの資金を手に入れたからである。旅館群は3年程で建て替わり現在の銀山温泉の建築ができたという★25。

銀山温泉の町並みを写した絵葉書が明治末から残っている。これを元に町並みの変遷を追っていこう。銀山温泉町は大正2年に洪水で被害を受けており、それ以前と以降の町並みで変化を観察することが出来る。

図14 銀山温泉(撮影:筆者)

現在残っている最も古い絵葉書は、茅葺屋根建築の残る大正2年の洪水前の絵葉書である(図15銀山温泉古写真1)。明治期までほとんどの旅館は茅葺寄棟屋根の建物で、二階、つし二階(低めの二階)で道に面して縁が回され、戸袋がつく。

次に、洪水後に撮った写真は、大正十四年頃の写真で、板葺き切妻屋根、入母屋屋根の建築と茅葺屋根の建築が併存している(図16銀山温泉古写真2)。向かって左側の切り妻平入りの三階建ては昭和元年に出来たことを名にもつ昭和館(笹原)で、玄関には破風が付き、バルコニーがある。右側奥には旅館・永澤平八も見ることができる。この二つの旅館が最も早く3階建てになった。

最後に昭和初期の写真では、ほぼすべての建築が三階建てになり、昭和7年までに現在みられる旅館群は完成した(図17銀山温泉古写真3)。旅館の建設順は凡そ、旅館永澤平八・昭和館から古勢木屋別館・酒田屋・伊藤屋が板葺き屋根での建替を経て、その後に小関館・能登屋・藤屋という順に建設された。

図15 銀山温泉古写真1(出典:個人蔵)(左)、図16 銀山温泉古写真2(出典:個人蔵)(中)
図17 銀山温泉古写真3(右・出典:個人蔵)(右)

見て分かる通り、時代を下るほどに洋風意匠が外観に使用されていく。また、洋の要素は構造にも入っている。「小関館」(図18小関館古写真)(昭和3年~7年建設)は小屋組を洋式トラスで組んでいるため、あえて和風の意匠を外観に採用したことが分かる。なお、出梁ではなく付庇で1階の雨を凌ぐ納まりも、他の旅館とは異なる形式である。大正以前も出梁で軒を出す納まりはあるが、大正二年以前の「小関館」と「古勢起屋別館」においては付庇が使われており、付庇の形式は銀山温泉の旅館のなかでも初頭に使われたものであった。

図18 小関館古写真(左・昭和初頭、右・大正期)(出典:個人蔵)

このように川を挟んで全く同じ外観を模倣するのではなく、僅かに異なる外観を作り合うことで銀山温泉町は成立した。この互いに競い合うように洗練されていった外観(≒ファサード)が、町並みにとっては贈与物となったといえる。奇しくも関東大震災を機に作られた看板建築と同じ時代に、農村においてもこの時期に〈消費の時代〉が本格化した。消費の時代の建築では外観が贈与物の一つになる。俗物と考えられていた消費の建築は、都市に対しては贈与の建築であったといえよう。

こうした建築のファサードを贈与の視点から解釈すると、私有する外観を都市空間を通して大衆に贈与し、これに対する効果として大衆は店舗に入る。一方、ファサードの贈与は町並みに対する美観としても貢献していて、近隣の住民は受容した返礼として、都市空間(近隣住民)へと美麗なファサードを返礼することになる。

むすびに

今回は近代住宅、中でも都市と近接する外部空間に現われた贈与について、前近代の民家を射程に含めながら見てきた。庭について民家からみると、近代住宅のピロティ下の空間とそれに伴う庭は贈与された空間といえる。こうした庭は、前近代で見られるものではなく、近代の庭付き一戸建ての思想に端を発したものである。

他方、日本の都市住宅は都市空間にファサードを贈与していた。大正時代頃に消費の時代が到来することで、ファサードの贈与は盛んになり、街が華やぐきっかけとなった。江戸時代までの町屋で富を表わす象徴は、梲(うだつ)であり、間口の大きさであった。社会的ステータスが建築の外観に現われてきたことに、江戸時代と近代との間で大きな違いがある。

日本橋の高島屋(図19高島屋)や三越といった商業建築の今なお目を引く外観は、しかるべき時に資金をかけたことによる遺産であろう。今回取り上げた二つの贈与物(庭とファサード)は共に近代になってから輸入された概念であったことは興味深い。(続く)

図19 高島屋(撮影:筆者)

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参考文献

  1. 和辻哲郎『風土:人間学的考察』岩波書店、1979年。(元は、岩波書店、1935年。)
  2. 菊竹清訓・川添登編著『菊竹清訓 作品と方法 1956–1970』美術出版社、1973年。
  3. 畑亮夫写真、吉島忠男+工房図、伊藤ていじ・篠田桃紅・八野忠次郎文『重要文化財 吉島家住宅』朝日新聞社、1984年。
  4. 藤森照信文、増田彰久写真『看板建築(都市のジャーナリズム)』三省堂、1988年。
  5. 文化財建造物保存技術協会、塩山市教育委員会編著『重要文化財旧高野家住宅主屋ほか八棟 (巽蔵・馬屋・東門・文庫蔵・小屋・附地実棚・附裏門・附座敷門) 保存修理工事報告書』塩山市、2001年。
  6. 丹下健三、藤森照信著『丹下健三』新建築社、2002年。
  7. 尾花沢市史編纂委員会編『尾花沢市史』尾花沢市、2005–2010年。
  8. 鈴木博之『庭師小川治兵衛とその時代』東京大学出版会、2013年。
  9. 及川卓也、塚原加奈子、三菱広報委員会事務局編『三菱四代社長ゆかりの邸宅・庭園』三菱広報委員会、2014年。

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★1:岡田憲久『日本の庭 ことはじめ』TOTO出版、2008年
★2:日本公園百年史刊行会編『日本公園百年史』日本公園百年史刊行会、1978年。
★3:鈴木博之『庭師小川治兵衛とその時代』東京大学出版会、2013年。
★4:八野忠次郎「吉島家住宅の建築」(畑亮夫写真、吉島忠男+工房図、伊藤ていじ・篠田桃紅・八野忠次郎文『重要文化財 吉島家住宅』朝日新聞社、1984年。)
★5:吉島忠男「町屋の庭」(畑亮夫写真、吉島忠男+工房図、伊藤ていじ・篠田桃紅・八野忠次郎文『重要文化財 吉島家住宅』朝日新聞社、1984年)。
★6:文化財建造物保存技術協会、塩山市教育委員会編著『重要文化財旧高野家住宅主屋ほか八棟 (巽蔵・馬屋・東門・文庫蔵・小屋・附地実棚・附裏門・附座敷門) 保存修理工事報告書』塩山市、2001年。
★7:『菊竹清訓 作品と方法 1956–1970』には、ピロティ下の写真について「ピロティ下の庭に設けられた炉」というキャプションが付いており、“庭”と認識されていたことが分かる(菊竹清訓・川添登『菊竹清訓 作品と方法 1956–1970』美術出版社、1973年)。
★8:菊竹清訓編『菊竹清訓作品集4 新世紀の建築をめざして』求龍堂、1998年。
★9:このような菊竹の実家が地主であるという指摘は各所でなされていると思うが、近年では、斎藤信吾氏が「「山陰と建築」の方法序説」にて、筑後川の氾濫や戦後の農地解放の影響で、菊竹に「土地を安全不変のものとしてその上に安住せず、人間の立つ地面は人間が作るという思想が培われていた」という。(斎藤信吾、塚本二朗、Echelle-1編集『菊竹清訓 山陰と建築』建築資料研究所、2021年。)
★10:菊竹清訓・川添登『菊竹清訓 作品と方法 1956–1970』美術出版社、1973年。
★11:丹下健三著『一本の鉛筆から』日本経済新聞社、1985年。また藤森によれば、「一家が入ったのは、北四川路169番地に建つ赤煉瓦造4階建ての集合住宅。棟割り形式の集合住宅で、下から上まで一家が使う。(中略)各階の奥にはヴェランダが張り出し、その先は庭で、よく手入れされた芝生が広がる。」という(丹下健三、藤森照信著『丹下健三』新建築社、2002年、14頁)
★12:豊川斎赫編『丹下健三とKENZO TANGE = Tange Kenzo and KENZO TANGE』オーム社、2013年、855–870頁。
★13:コルビジュエのピロティにおける庭の考え方の源流も、タウンハウスの庭にあったにせよ。
★14:この指摘は、豊川氏から谷口吉生氏へのインタビュー記録の中で谷口氏が述べたものである(豊川斎赫編『丹下健三とKENZO TANGE = Tange Kenzo and KENZO TANGE』オーム社、2013年)。
★15:Francis Scott Key Fitzgerald(1896–1940年)。「グレート・ギャツビー(The Great Gatsby)」は1925年刊行。
★16:及川卓也、塚原加奈子、三菱広報委員会事務局編『三菱四代社長ゆかりの邸宅・庭園』三菱広報委員会、2014年。
★17:関西では明治末頃から私鉄経営の住宅地開発が始まった。最初に明治42年には阪急電鉄が西宮付近で借家経営を行ない、次いで阪急電鉄が明治43年に宝塚沿線で住宅地開発を始めていく。東京市では大正七年頃から中産階級の住宅難が深刻化する。三菱の岩崎久弥は大正11年に約4万坪の私邸を解放し「大和郷」を計画している。渋沢栄一が創業した田園都市株式会社は大正11年に田園調布の土地を分譲した。
★18:門間光(1990-)は筆者の東北大学時代の友人で、現在は京都大学の博士後期課程に在学中。増田友也に関する一連の研究がある。
★19:和辻哲郎(わつじ-てつろう)(1889−1960)大正-昭和時代の哲学者、倫理学者。東京帝大哲学科に在学中、谷崎潤一郎、小山内薫らと第2次「新思潮」の同人となる。東洋大、法大の教授をへて、昭和6年京都帝大教授、9年東京帝大教授。この間、谷川徹三らと「思想」(岩波書店)の編集に参加。ハイデッガー解釈をとおして「人間の学」としての倫理学を確立し、「古寺巡礼」「風土」など文化史研究にも業績をのこす。兵庫県出身。(日本人名大辞典)
★20:和辻哲郎『風土:人間学的考察』岩波書店、1979年。(元は、岩波書店、1935年。)
★21:こうした庭における自他のベクトルを認識する試みは、哲学者・国分功一朗氏が言う中動態と能動態の議論とも通じる点がある。(国分功一朗『中動態の世界――意志と責任の考古学』、医学書院、2017年。)
★22:関東大震災の復興期に登場した住居併用型の木造商店建築。看板のようなファサードに施された、和洋を問わない多様な装飾を特徴とする。建築史家の藤森照信が命名し、1975年に建築学会で発表した。軒を出さない平坦な外観は、過密な下町の区画整理により狭くなった敷地の範囲内で、建築面積を確保するために導かれた。一方、看板の背後は以前と同様に木造のままであり、ファサードのデザインが躯体から分離した状態となった。小金井市の江戸東京たてもの園には、複数の看板建築が移築展示されている。(ジャパンナレッジ【文化】【2019】を参照)
★23:藤森照信文、増田彰久写真『看板建築(都市のジャーナリズム)』三省堂、1988年。
★24:銀山温泉町の現在の町並みは、1986年施行の「銀山温泉家並保存条例」により修復、新築されたもので、既存の町並みに沿うことを奨励する条例により、「屋根、玄関、庇、手摺、窓、戸袋、壁、広縁、看板、階数、構造、新壁風、出桁造り」からなる十三の項目により旅館の復元修復がなされた。
★25:田中豊『銀山の銀と温泉』昭和七年。

中村駿介 連載「建築の贈与論」
その1 建築の贈与論について
その2 現代都市の中の贈与
その3 前近代都市論
・その4 近代住宅論:民家の庭と町並みのファサードにおける贈与

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中村駿介
建築討論

なかむら・しゅんすけ/1990年長野県生まれ。東北大学卒業、東京大学大学院修了、宮本忠長建築設計事務所勤務を経て、東京大学大学院博士課程。専門は日本建築史(中近世門前町研究)、建築理論、建築設計。