MediumはSNSではない

ーじゃあ、一体何なのか? Mediumをパブリッシング革命として捉える

森哲平
テッペイの森

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ほんの数日いじっただけですが、Medium、とても面白いですね。流れてくる記事は良質だし、投稿もしやすい。インターフェイスもエレガントでSNSとして見てもとても秀逸だと思いました。

ところが、Mediumをいじっているうちに「これってSNSなのか?」という疑問が生まれてきました。そりゃあ、SNSとして見ることも可能です。機能面からそのように語ることもできます。一言で何も知らない人に、なんとなくだけでも伝えようと思ったら、「140字以上書けるTwitter」みたいな紹介の仕方を自分もすると思います。

けれども、新手のSNSだと見てしまうと、案外Mediumはつまらないものなんですね。「いや、だって既にブログあるし」って話ですから。長文を書きたい人、記事をストックしていきたい人はブログを書いたらいい。それを拡散させたいなら、既にTwitterだってFacebookだってあります。じゃあ、なんでわざわざ、また新しい(今のところ日本語ユーザーが非常に少ない)SNSなんでしょうか。Mediumの面白さをSNSとして語ると、実際に自分が感じているワクワクを上手く説明できないと感じますし、本筋を外しているような気がします。

なので、あえて言い切っちゃいますが、Medium。SNSではありません。ブログでもない。じゃあ、何なのか。最初に結論を言っちゃうと、Mediumは「パブリッシング革命」だとぼくは考えます。

革命的な存在はその多くがそうですが、既存のツール、環境と同じタームで語ることもできます。けれども、そのように処理しきれないところにこそ新しさがある。Mediumの出現を一種のパラダイムシフトとして考察してみました。

Mediumの3つのコンセプト

Mediumとは何なのか。そのフィロソフィーは「パブリッシング革命」です。そして、そこには3つのコンセプトが内包されています。

①Webとは1つの巨大な本である。
②「書く」とは「読む」であり、「読む」とは「書く」である。
③「書く」は孤独な作業ではない。

この3つです。

Mediumのコンセプト①
Webとは1つの巨大な本である

Mediumには非常に特徴的な機能がいくつかあります。ハイライトとレスポンスです。これらは各投稿=ストーリーのうち、自分が気になった箇所に線を引いたり、コメントを残せる機能ですが、これらはちょうど「紙の本」に線を引いたり、そこにメモ書きしたりする感覚に非常に近い、近くなるように設計されています。この意味で、まずはMediumの投稿は、モバイル端末で読む一種の「本」であると言えます。

問題なのはここからです。じゃあ、その「本」はどこで区切られているのでしょうか。紙の本なら答えは簡単です。1冊、2冊、3冊と見た通りに数えられますから。けれども、Webが「本」だとすると、一体それは「何冊」あることになるのでしょうか。

一見、1つの投稿が、あるいは1つのパブリケーションが、1冊の本、あるいは1冊のマガジンのように感じられます。ところが、実際にはそう簡単な話ではありません。ストーリーとストーリーはハイライトやレスポンスで文字通り「リンクされている」、つながっているからです。

Mediumを「本」だと考えると、投稿と投稿の境界は、実は非常に曖昧です。シンプルに考えれば「1つの投稿にいくつかのハイライトやレスポンスが付いている」構造として捉えられますが、レスポンスは事実上、どこまでも長く続けられますから、レスポンスとは言いますが、それが1つの投稿だとも言えます。また、レスポンスに対してさらにレスポンスをつけることも、ハイライトをつけることもMediumでは可能です。

たとえば、Aさんが投稿したストーリーに対し、別のBさんがレスポンスをしたとしましょう。そのBさんの投稿にCさんがレスポンスし、それらのレスポンスに対して、Aさんがさらにレスポンスしたとします。さて、この場合、誰がこの「本」の著者でしょうか。

Mediumの非常に高度なインターテクスチュアリティは、「本」としての境界をその限界まで曖昧にします。そして、その本は完結することが原理的にはありえない本なのです。

ブツとしての本にたとえてみれば、本の注釈部分が、読者が増えることによって、原理的にはどこまでも伸びていく、ページ数が増えていく。Mediumとはそういう「本」だと言うことが可能です。後からレスポンス=注釈が書き加えられるたび、ちょうど碁石を一つ置くことで、まったく戦況が変わってくるのと同じように、元のテキストの意味も変化するかもしれません。そして、レスポンスは原理的にいつでも、どこまでも追加していくことが可能ですから、意味が最後まで確定することがありません。

Mediumのすべての投稿は何らかの形で相互につながっているわけですから、これは捉え方を変えれば、Mediumとは、人類滅亡のその日まで一冊の巨大な本を皆で書き続けていくActivityだと言うことができます。

もちろん、従来の紙の本にも、そのような側面があります。孔子のテキストは中国の歴史を通じて、常に新たな解釈にさらされ、その解釈の蓄積により「孔子テキスト群」を形成してきました。ブログやSNSだって同じでしょう。Web上で相互にリンクされていますし、後から追加された一つのツイートで、他の意味が変わってしまうことだって頻繁にあるでしょう。

けれども、ここまで意識的に「本」を意識させたツールは個人的にはありませんでした。その洗練されたインターフェースも紙の本とは別の方向ではありますが、ストレスなく使いやすいですし、ハイライトやレスポンスという機能は、紙の本にマーカーを引く、メモする感覚に非常に近い。いや、それが相互のリンクになり、それがリアルタイムで更新されていく感覚は、これまでにはまったくないものでした。

Mediumのコンセプト②
書く」とは「読む」であり、「読む」とは「書く」である

ハイライトやレスポンスといった機能からは、Mediumの2つ目のコンセプトも導くことができます。それはつまり「書く」行為と「読む」行為の近接性、もっと言えば「書く」とは「読む」、「読む」とは「書く」だったのだということです。

Medium体験で非常におもしろいのが、今自分は他人の投稿を「読んでいる」のか、それともそれをネタにして「書いている」のか、極めて曖昧なところです。最初は単純に他人の投稿を読んでいるつもりなのですが、いつの間にか、その文章の一部に線を引っ張ってレスポンスしている=「書いている」んですね。そして「書いている」つもりが、いつの間にか他人の投稿やレスポンスを読んでいる。その境界は極めて曖昧です。

従来であれば、書き手は書き手、読み手は読み手として、その役割が固定されていました。ところが、Mediumでは相当程度まで役割が流動的です。ステージでライトを浴びる演者とオーディエンスが分かれていたのが従来のあり方だとすると、Mediumでは全員で踊り狂っているようなイメージです。

対立している、まったく別のことと思われがちなことが、考えてみれば、実は同じことの別フェーズでしかない、ということはよくあります。たとえば「料理する」ことと「食べる」ことはまったく別のことだと思われがちですが、「物質を肉体に取り入れるまでの一連のプロセス」として理解した場合、単にその前行程と後行程であるに過ぎません。同じように「生産」と「消費」、「学ぶ」と「教える」も、対立した行為としてではなく、一連のプロセスとして理解できるでしょう。

「書く」と「読む」が実は似たような体験であること。「書く」とは「読むようなこと」であり、「読む」とは「書く」ようなことである。そのことにMediumは気づかせてくれます。

Medium CEOのEv Williamsのプロフィールで「Reader, writer, ponderer, father. CEO of Medium」と書かれているのが象徴的です。ReaderであることとWriterであることが並列に置かれていること。Readerが先に来ていること。ここにもReaderがWriterである、ReaderこそがWriterであるというMediumのコンセプトが感じとれます。

こうしたMediumのあり方、世界の捉え方は、確かに従来のブログ文化とは一線を画すものです。「Mediumはブログ公開のツールではない」という主張は伊達ではないと思います。ブログが目指している世界が「誰でもWriterになりうる」だとしたら、Mediumが目指している世界は「Readerなんだったら、それはWriterだ」だと思うのです。

Mediumのコンセプト③
「書く」は孤独な作業ではない

Medium CEOのEv Williamsは、"Don't Write Alone"という記事を書いています。これからの「書く」は一人ですることではない、共同作業なんだというのも、Mediumの重要なコンセプトの1つです。

Mediumにはドラフト共同編集機能があります。ゆえに公開する前に、人に原稿を見せ、一緒に原稿を書き上げていくことができます。

ライティングとエディティングの境界は非常に曖昧になります。また、これまで「書く」とは一人でコツコツと、己と向き合いながらの作業と考えられがちでしたが、Mediumの世界では、そうではなくなっていきます。

また「記事の公開」=「記事の完成」ではありません。投稿した記事は、様々な読者=書き手の元に届けられ、そこでレスポンスという名の加筆作業がなされるでしょう。公開されてからようやく本格的な(他人による)加筆作業が始まるのだ。そう捉えることもできると思います。物語=Storyは続いていく。決して終わることがありません。

もちろん、本ストーリーもそうした意識の元で書かれています。文章的に直すべきところはたくさんあると思いますし、論点として怪しいところもかなりあるでしょう。最初から完璧を期するつもりが書いていてまったくありません。だからこそ書ける内容、書ける書き方があります。それが楽しい。そうじゃないですか、Mediumユーザーの皆さん。

Mediumという単数形。
終わりがないものの始まり。

いかがでしたか。もちろん、Mediumをその機能面から「ちょっと変わったSNS」として捉えることもできます。でも、それだとなんだか退屈じゃないですか。ぼくらの生活は日々、SNSで溢れていますし、新しいSNSは増え続けるばかりです。その数たるや、既にウンザリするほどではないでしょうか。Mediumをそうした市場への単なる「プラスワン」と捉えるのもアリはアリです。でも、そこはちょっと見方を変えて、次のように考えてみませんか。

Mediumの登場とは「人類が皆で書き上げる一冊の巨大な本」の登場である。そしてその本は人類滅亡のその日まで終わらない。完成しない。Mediumとは「Media」の単数形です。その名が示す通り、ぼくらの人生が何回分あってもそのすべてを読み切れないくらい、少々大きくはありますが、たった一つの本、それがMediumだと。

「終わりがないものの始まり」に立ちあえたぼくらに乾杯。

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森哲平
テッペイの森

1979年兵庫県生まれ。2011年より徳島に移住。2015年から徳島市沖浜町にて私設の図書館や子ども向けプログラミング教室を運営している。