両角光男[1946-]コンピュータ援用による建築設計教育の新しいかたちを求めて|建築情報学の源流・“CAD5”の思想を探る (2)

話手:両角光男/聞手:種田元晴・池上宗樹・猪里孝司・武田有左・長﨑大典[連載:建築と戦後─11]

建築と戦後
建築討論
89 min readJul 22, 2022

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日時:2019年3月1日(金)14:00–17:45
場所:熊本大学工学部まちなか工房(熊本県熊本市)
オブザーバー:位寄和久(熊本大学)、村上祐治(東海大学/熊本大学木島・両角研究室卒業生)、本間里見(熊本大学)
聞手:種田元晴(Tn)、池上宗樹(Ik)、猪里孝司(Iz)、武田有左(Tk)、長﨑大典(Ng)

両角光男氏(撮影:長﨑)

建築デザインにコンピュータが援用されはじめて、すでに半世紀が経過した。この50年の間に蓄積されたCAD(Computer Aided Design)に関する知見を整理し、歴史的に振り返る作業の必要性も叫ばれてきている。しかし,いまだCADに関する歴史を整理した研究は、建築の分野では数少ない。

本インタビューは、川崎清氏([連載:建築と戦後70年─07])および山口重之氏([連載:建築と戦後70年─09])へのインタビューに続き、日本建築学会情報システム技術委員会設計・生産の情報化小委員会建築情報学技術研究WGのメンバーによる日本の建築CAD黎明期に関する聞き取りの記録である。

上記2つのインタビューでも示された通り、日本では1970年の大阪万博を皮切りに、建築デザインへのコンピュータ援用が盛んとなった。これをけん引したのは、京都大学川崎清研究室や東京大学丹下健三研究室であった。80年代には、コンピュータの進化と共に建築CADの研究や開発が盛んとなるが、その中心的存在は、川崎らの次の世代である、山田学(東京大学)、笹田剛史(大阪大学)、山口重之(京都工芸繊維大学)、両角光男(熊本大学)、渡辺仁史(早稲田大学)の5名(シンポジウム“CAD5”メンバー)であった。

今回は、そのおひとりである両角光男氏に、建築CADにかかわる長年の教育と研究についてお話を伺った。インタビューは、両角氏の熊本大学における最終講義をもとにしたレクチャーと聞き取り、および両角氏とその関係者による座談からなっている。

“CADマインド”の設計思考教育を展開した両角氏のインタビューからも、川崎氏、山口氏に続いて、建築設計の初期の段階、すなわち、発想のためのツールとしてコンピュータを活用しようとしていることがうかがえた。建築の生産効率を主目的にコンピュータを活用する風潮とは全く異なる、より良い建築、新しい建築のかたちを求めるデザインマインドが、建築CADの先駆者諸氏に共通して抱かれていたことが明らかとなった。(Tn)

目次

1章:都市計画の数値解析に悪戦苦闘(1971–1986)

木島安史氏との出会い
アメリカで始まったコンピューターとの長い付き合い
都市計画の数値解析に明け暮れた熊大最初の10年
CLUGゲームを使った都市計画教育

2章:設計思考を触発するモデリングツールを試行錯誤(1985–2001)

転機となった米国建築CAD視察団参加
大学院授業でCAAD課題を試行
ミッチェル氏の下でCAAD教育手法を在外研究
三次元モデリングツール開発と遺跡発掘調査支援システム開発
レゴ感覚の対話型3次元モデリングシステム“CAAD-F”
90年代の熊大におけるCAAD教育
デザイナーの思考に馴染むモデリングツール
アンチBIMの企画設計CAD
チーム設計を支援するCAD(GW-CAD)

3章:遠隔協調設計技術の開発と教育現場の実践(1996–2013)

WEBを使った遠隔協調設計(VDS)
VDS技術を応用した設計演習授業の試行
VDS支援システムの開発(GW-Notebook)
GW-Notebookを活用した学外との遠隔合同授業
ギガビットネットワークを使った遠隔協調設計実験
Facebook, Instagram, Google Earthに通ずるツールを先駆的に開発

4章:試行錯誤の到達点は?

BIM(Revit)を用いた「包括的」建築設計演習の試行
まとめ:デジタル技術の導入と建築設計環境の変化

小座談:木島・両角研究室におけるOBの体験

1章:都市計画の数値解析に悪戦苦闘(1971–1986)

●木島安史氏との出会い

両角光男(以下、両角):事前にいただいた3つの質問、①なぜ建築に情報技術の導入を考えたか、②特にCADについて興味を持ってやり始めたきっかけは何か、③そのあと何をやって成果はどうだったか、これらの質問をもとに今までやったことを振り返ってみたいと思います。お手元の「熊本大学の建築分野(木島,両角,位寄,本間,大西)におけるICT利活用研究の推移」と題した年表に概要をまとめました。

年表:熊本大学の建築分野(木島,両角,位寄,本間,大西)におけるICT利活用研究の推移(両角氏作成)(こちらをクリックすると拡大表示します)

Tn:はじめに、建築を志したきっかけと、コンピューターとの出会いを教えていただけますか。

両角:僕が大学に入ったころは、早稲田もやっとIBMのメインフレームが入ったぐらいで、コンピューターとの出会いは少し後の時代。僕らが使えたのは、大学院時代でも電卓でした。

建築を志すようになったきっかけは木島安史[1937–1992](★1)先生との出会いでした。高校3年の前期に木島先生が非常勤講師として教えに来られた。1964年東京オリンピックの年でした。

Tn:その科目は何という授業なのですか。

両角:芸術分野の「工芸」という選択必修科目です。その年は、担当の先生が長期出張だった。代わりにフランス・スペイン留学から帰られたばかりの木島安史先生と、当時東大の助手をされていた高瀬忠重先生。そのお二人が交代で現代建築の3巨匠と、ルイス・カーンの図版やスライドをものすごくたくさん見せて下さった。それで面白くなって建築に行こうと決めました。そのクラスでは32人が受講していましたが、最終的に6人が建築に進学しました。

高校の仲間たちと同じ流れで、僕も東大と早稲田を受験したのですが、結局、東大は落ちてしまった。でも早稲田の建築を出たと言われた木島先生のインパクトが強かったので、浪人するよりはさっさと早稲田に行こうと決めました。

Tn:どこの高校ですか?

両角:東京教育大学付属高校。今の筑波大学付属高校。木島先生も小中高と教育大付属の先輩でした。

そういう関係があったので、大学に入った時から木島先生に模型のバイト先を紹介していただくなど、色々お世話になりました。木島先生は丹下事務所にしばらく勤められたあと、エチオピアの大学へ2年ほど教えに行かれた。僕が学部を卒業するころにエチオピアから帰ってきて、事務所を開かれた。最初は都市や地域の計画調査の仕事が中心で、僕はその手伝いをやっていました。

Tn:それは何年頃ですか。

両角:1969年。僕は1965年学部入学、69年大学院入学。一応戦後生まれで1946年です。

位寄和久(以下、位寄):木島先生は相田武文先生と2人で一緒に事務所を借りてましたね。

両角:㈱計画環境建築という共同事務所の形をとって建物を借りていた。作品は別々。当時から、木島先生は都市のメッシュ解析をやろうと言っておられましたが、たぶん佐々波秀彦[1923–2012]先生の影響だと思います。

位寄:当時はまだメッシュの統計データもほとんどなかった。

両角:木島先生の事務所には、電卓しかなかったので、荒いメッシュで人口密度の分析をするなど、簡単なことしかできなかったですね。

位寄氏と両角氏(撮影:長﨑)

両角:1971年、僕が早稲田の修士を出る頃に、堀内清治[1925–2008]先生の誘いで、木島先生は熊本大学に就職されました。

図1:お世話になった先生方(両角氏作成)

両角:堀内先生は建築史の先生で、西洋建築に対する地中海建築という建築文化圏の存在を描いていました。それを検証するため、地中海を取り囲む国々、アフリカから始めて、エジプト、トルコ、ギリシャまで遺跡調査に行った。文部科学省の支援で調査団を2回も組織した大先生です。結局イタリア、フランス、スペインなどを巡る3回目の調査は予算が認められず、残念でした。

木島先生の修士論文は都市の平面構成分析。ヨーロッパ都市が求心構造なのに対して、地中海沿岸の都市は格子状で中心がない。あるいはマルチフォーカルである。そんな修士論文を書いておられた。

堀内先生は、木島先生の修士論文をどこかで見られた。その考え方には通じるものがあったとかで、熊大に応募するように木島先生を誘われたようです。当時を知る人の話によると、木島先生も「地中海調査に行けるなら熊本に行く」と言って応募されたらしいです。

●アメリカで始まったコンピューターとの長い付き合い

両角:僕は、木島先生が熊大に行くことを決められたのと同じ時期に、アメリカのプリンストン大学大学院に留学しました。早稲田の吉阪都市計画学も魅力的でしたが、数値を使った計画論とか、公共政策とか、少し違った角度で都市計画を勉強したいと考え、アメリカへ行きました。

プリンストンでは、学生もIBMの大型コンピューターをタダで好きなだけ使わせてくれました。計算時間1分以内のものならいくらでも使っていいと。その時、僕はFortran文法も知らなかった。そこで直ぐに本を買って自習しました。とにかくタダで使えるわけだからこんな機会はないと思って。

Fortranプログラムを書けるようになったところで、都市調査法の授業の際にグラビティモデルを使った商圏分析プログラムを作ったり、次の学期の設計演習の課題でショッピングセンター建設位置の提案に使ったりしました。そんな経験をして日本に帰ったら、木島先生は渡辺仁史先生とメッシュによる都市解析の研究を始めておられた。

帰国直後、木島先生から佐々波秀彦先生を紹介されて、東京都区部基本計画策定作業を手伝いました。高山英華[1910–1999]先生が委員長で、佐々波先生、日笠端[1920–1997]先生など、本でしかお目にかかれなかった先生方といきなり出会って刺激を受けました。

僕は佐々波先生が主査の作業グループに入り、もっぱらバイトを集めて資料作りを担当しました。佐々波先生はメッシュデータを使って計画を作りたいと仰って、本格的にメッシュ解析に挑戦することになりました。

佐々波先生の仕事を手伝うようになった時、建築研究所は新大久保の早大理工学部キャンパスの横にありました。それで学部生だった位寄和久先生にもバイトに来てもらいましたね。

位寄:はい、私も行きました。

両角:当時、建築研究所には、TOSBACの4300というミニコンの名機がありました。佐々波先生から自由に使って良いと言われて。時には、夜中も泊まり込みながら、東京都のメッシュデータを作り、集計分析や印字マップの作成に取り組みました。

その2~3年後にもメッシュシステムを使った八王子市の土地利用計画策定作業に参加しました。八王子市郊外の丘陵地に都内の大学の移転計画が幾つも持ち上がっていた頃です。八王子市としては、郊外丘陵地の急速な開発が進むと行政需要が拡大して大変だし、中心部との連携を図れないと市が空洞化してしまうと心配していたんです。

位寄先生は当時早稲田の大学院におられたので、この時も作業に参加してもらいました。

位寄:土地利用計画のシミュレーションモデルをつくりました。現地に即した検討ができるように、東京都で使った500mメッシュより一回り細かい250mメッシュを使って。

両角:人口配分や施設需要を検討するモデル。簡単に言うと開発候補地毎に住宅地のタイプを想定し、10年後にはどのぐらいの人口が貼りつくかなどを推定するモデルです。開発が誘導する市街地スプロールも想定しながら。

位寄:市街化の進展がどうなるかを想定して、どこにどれだけの交通インフラや公共施設を整備する必要があるかを検討するという作業。

両角:あの時プログラミング自体は業者に委託しましたが、僕はひたすら解析モデルのフローチャートを書いて、業者が作ったプログラムを確認していました。とにかくデータ量が膨大で、自分たちが使えるコンピューターでは計算ができなかった。結局、日産自動車の追浜工場に行って、大型機の空いている時間帯に計算させてもらったりしました。

位寄:計算センターに泊まり込んで使っていましたね。

両角:熊大に来てから最初の10年ぐらいは、そうした都市計画のテーマで計算三昧の生活でした。

●都市計画の数値解析に明け暮れた熊大最初の10年

Tn:両角先生が熊本大学に行かれたのはどういう経緯だったのですか。

両角:留学を終えて日本に戻る際に、東大の博士課程を受験していました。ところが、二次試験の直前に、木島先生から、「熊大の建築で新しい教育プログラムを作ることが決まり、急きょ都市計画の助手を公募している。地方都市も面白いよ」と誘われた。先ほどお話した東京都区部基本計画をお手伝いしている時でしたので、委員を務めておられた東大の日笠先生に相談したところ、「迷うことは無い、都市計画はフィールドが大事。熊大に応募すべき」と勧められ、応募しました。

インタビューの様子(撮影:長﨑)

両角:八王子市のプロジェクトが終わると、木島先生は学位論文を書くことになり、熊本の都市計画分析にメッシュを応用する研究でまとめられました。

重複集計法、自己中心的都市像という副題が付いていました。計画対象地のメッシュデータを作り、数値分布の特徴を見ながら都市全体の構造的特徴を把握するというのが一般的なメッシュ解析のやり方でしたが、木島先生は別の発想をされた。一つ一つのメッシュが大事なんだと。個々のメッシュが周囲のメッシュからどんな影響を受けているか、周辺のメッシュとの関わりや位置づけを計ろうと考えていた。メッシュ間の距離に応じて影響や関係性は少しずつ弱まっていくだろうけれど、個々のメッシュに全体がどう関わっているかを考えよう、メッシュ毎に全体像を見るという、そんな研究をされていました。私も数年そのお手伝いをしました。

熊大のコンピューターはFACOM230–25。メインメモリは64KB、データエリアには11KB程度しか使えず、大量データを扱うには外部の磁気デスクを使いながらで、とにかくデータやプログラム作りに悪戦苦闘しました。

木島先生は1981年に学位を取得されて1982年に教授になられました。そうしたら堀内先生から「君も3年以内に学位論文を書きなさい」とのご指示。「さぁどうしよう!?」となった。メッシュはもう色々やったので、メッシュ関連で学位論文を書くのは無理だなと考えた。その結果ネットワーク解析に手法を変えて、再び、ひたすら計算しまくることになりました。

Ik:それで救急車のお話(編注:学位論文「地域施設配置計画のためのネットワーク解析手法の開発と救急自動車配置計画への応用に関する研究」のこと)になってくるわけですね。

両角:学部時代にOR(オペレーションズ・リサーチ)の本を読んで興味を持っていたので、ネットワークの最短路解析を道具にしようと考えた。論文提出予定の穂積信夫先生に相談したところ、「それは、君ね、ネットワークで最短路問題を扱うなら、移動時間が直ちに評価につながることをテーマにしなければいけない」と言われた。「便利さだとか快適さだとか、個人の価値観に左右されるものは要素が多くて議論がしにくい」と。

消防車の出動計画の研究は既に学位論文が出ていたので、時間が救命率と直接関わる救急搬送の問題を扱うことにしました。

ところが、都市の即地的な評価にネットワーク解析を使おうとすると、メッシュ以上にメモリー量や計算速度が必要でした。九州大学の大型計算機センターに通ったり、毎月、1週間程度センター暮らしをしたり。大変な作業でしたが、3年で何とか早稲田から学位をいただくことができ、僕の首もつながりました。

●CLUGゲームを使った都市計画教育

両角:僕は、プリンストン大学の丁寧な指導を経験して、熊大就職の当初から、建築あるいは都市計画の指導方法に関心があった。どうしたら学生が的確に理解してくれるか、自分のものにしてくれるかと考えていました。

年表の70年代末のところに「CLUGによる都市成長原理の理解支援」と書きました。CLUGは、Community Land Use Gameの略称。皆さんSimCityはご存知でしょう?あれの原型です。

プリストン大学の授業で体験して面白かったので、熊大大学院の授業でも使い始めました。各プレーヤーがメッシュで表された都市のどこかの土地を購入したり借りたりして都市開発するゲームです。開発のコストや、その後の日常的な商品やサービスの購入、さらには通勤移動や製品輸送の交通費、税金の支払いなど、計算がものすごく必要でしたが、学習ツールとしては良くできていました。。

位寄:面白いゲームで、ユーティリティセンター(上下水道センターのイメージ)や鉄道駅は初期条件で決めますが、ラウンド毎に、先ず市長が道路網やユーティリティライン(上下水道網などに相当)などのインフラを少しずつ整備します。次に、他のプレーヤーが土地を買ったり借りたりして工場や住宅、買回り品や日用品などの店舗、事務所などを建設する。それぞれ雇用契約や買い物契約をする。工場や事務所は外部から収益を得て、給料を払い、住宅は外部の店舗や域内の店舗にサービス代金を支払う。最後に各プレーヤーは市長に固定資産税を支払う。

最初は建物がぽつぽつとあるだけなのが、何ラウンドかやり取りを繰り返すうちに、だんだん街ができていく。どうして交通の便の良いところに集客施設が立地し、住宅地が郊外に広がるか、インフラの整備や都市計画規制の役割は何か、ということなどがよく分かります。

村上祐治(以下、村上):私が学生の頃にやったものでは、10×10のメッシュで表された都市で、各メッシュが土地の区画、メッシュ線が道路。10人ぐらいが1日がかりでやるゲームで、最低4ラウンドぐらい回すんですが、最初は何もなくて、住民が入ってきて、土地を買って、住民がそこに住む。実感を出すため新聞紙大のゲーム板を作り、土地の所有関係を視覚的に見せる札や施設の模型を作ったりもしました。

両角:村上先生には、色々な道具を作ってもらいましたね。

村上氏と両角氏(撮影:長﨑)

村上:その一方でパソコンに、施設建設や雇用や売買の契約など各ラウンドの行動を入力すると、画面上のゲーム板にも町が描かれ、様相の変化を見せてくれる。背後では金銭的なやり取りを自動計算してチームごとの資産の変化も教えてくれる。工場を建てる人がいたり、独立住宅は集合住宅を建てたり。商業施設が未だ立っていないときは、住人は町の外部で買い物するというので、外部経済を代表するゲームオペレータに代金を支払うとか。通貨はドルにしていましたっけ?

両角:「両」にしていた、両角だから「両」にしていた。

村上:外部経済から買い物すると定額で2,000両とか強制的に取られるんですね。商店を建てた場合は、居住者全員に同じ価格で売らなければならないという制約はありますが、価格は自由に設定できる。店舗オーナーは収益見込みを計算しながら、例えば500両というように外部経済より安く設定します。一方、居住者は外部より安くサービスを受けられますが、お店までの距離に応じて交通費も払わないといけない。交通費を足しても外よりも安ければ、そこと契約するという仕組み。市議会議員を選んで市長のインフラ整備計画を審議するので、賄賂も確か…。

両角:道路計画と、都市計画規制を誘導するために賄賂が出てきたこともありましたね。

一同:

村上:舗装を良くするなど道路を改善すると、交通費単価も半分になったりした。それで最短路計算しながら、どこの道路を改良してもらうと自分の持っている土地を有効に使えるかみたいなことを考えました。

位寄:インフラの通っているユーティリティラインっていうのに接していない区画には建築ができないんですよ。そのユーティリティラインを毎ラウンド延ばすんですけど、それを市長が自分で決めて良い。ですから市長に賄賂を出して、こっちに引いてくれと。

両角:市長も税収が入って来ますが、投資しすぎると赤字再建団体に陥るとかね。いわゆる経済モデルはよくできていた。ただ手計算だとやたらに大変だというので、当時学生だった村上先生にパソコンの支援システムを作っていただきました。

このゲームの支援システムを情報シンポで発表したら、「お前、一体何やってるんだ」って笹田(剛史)[1941–2005]先生に笑われてしまいましたが。

2章:設計思考を触発するモデリングツールを試行錯誤(1985–2001)

●転機となった米国建築CAD視察団参加

両角:そのことはさて置いて、あの頃は笹田先生がCGやアニメーションを発表され始めた頃で、僕も、興味津々でした。それが後に設計ツールの開発研究を始めたきっかけです。

僕自身はしばらくCLUGやメッシュ解析、さらには救急搬送サービスのシミュレーシ ョンなどコンピューターを計算の道具として使う研究をやっていました。でも1985年2月にやっと学位が取れたということで、晴れてその年の6月、笹田団長率いる米国建築CAD視察団に参加しました。図2の「第2回米国建築CAD視察団」の右側にある写真に写 っているのは誰だか分かります?

図2:第2回米国建築CAD視察団(1985年)(両角氏作成)

Ik:(ウィリアム・J.)ミッチェル[1944–2010]先生(★2)ですか?めちゃくちゃ若いなぁ。

両角:そうです。このUCLA訪問でミッチェル先生にお会いして建築CAD教育への関心が一気に強まりました。今度は年表資料を見て下さい。その左端に僕にとっての重要な出来事の年譜を書いてあります。笹田先生、山口先生にも大変お世話になりましたが、木島先生の次には、やはりミッチェル先生との関係が大きかったと思います。

Ik:視察団の頃は、山口重之先生はもう米国に行かれていましたか。

両角:いや、もう帰っておられました。笹田先生が視察団の団長で、山口先生が副団長でした。大成建設の北丈夫さん、柏崎孝史さん、構造システムの江田敏男さん、大林組の泉清之さん、日建設計の村井敬さんなど33人が参加しました。

Ik:結構な人数ですね。この報告書(建築CAD米国視察団報告書)は歴史的に貴重な資料です。

両角:今までお話したように僕は都市計画の数値計算ばかり。情報シンポでは笹田先生や山口先生達のCGを駆使した取り組みをうらやましく横目で見ていた。それが、やっと足枷が取れて、またアメリカの事情を見たら面白いし、熊大の設計教育に導入したいという思いが一段と強くなったわけです。

年表を見て頂くと、視察団に参加したその翌年、1986年に大阪芸大で「デジタル時代のデザイン」、「デジタル・デザイン・エイジ」だったかな、3日間ぐらいのセミナーがありました。ここにあのミッチェル先生が講師で来られた。

Ik:そのあと私、ミッチェル先生を日光にご案内しました。

両角:そうでしたか。セミナーの懇親会の時に、ミッチェル先生には誰も近寄らず、ぽつんとして居られた。それですぐにミッチェル先生に声をかけて色々話をさせていただきました。

特にパラメトリックデザインの話が面白かったので、早速その年の大学院の授業に取り入れてみた。それが年表資料の右端にある、「大学院授業を借りたCAAD(編注:Computer Aided Architectural Design)教育プログラム開発86~の始まり」です。

●大学院授業でCAAD課題を試行

両角:まだPCの台数も少なかったので、とにかく簡単にできる演習課題をやりました。それが図3の右側の曲線図形はHOMT図形といって、雑誌「PIXCEL」で見た図案科の先生の図形生成手法を応用した学生作品。時間をTとした時に、サイン、コサインを組み合わせたTの関数式でX、Yの座標を決めていく。時間Tと共に、点が曲線を描きながら動いて行く。関数に組み込んだ係数を変えるといろいろな恰好の曲線図形が出てくるんです。当時のPCは8色しか出ませんでしたが、時間で色を変えるようにしてみた。学生たちは、パラメータを変えるだけで想像もしなかった図形が描かれるので、みんな夢中になっていました。

図3:熊本大学大学院授業におけるCAAD課題の試行(1987年)(両角氏作成)

両角:その次にやった課題が図3左側の3次元モデル。そもそもCADが無いので、歴史系研究室の学生も含めてBASICプログラムの作り方を教えて、3次元のワイヤフレームモデルを定義し、透視図を描くプログラムを作ってもらった。その後で、ミッチェル先生がやっていたパラメトリックデザインの遊びをやろうと提案。簡単な建築のデザインエレメントの3次元モデルを定義してパラメータを変えながらバリエーションを描くことに挑戦してもらった。これは歴史研究室の学生の作品です。アーチを持つ列柱廊のバリエーションデザイン。

●ミッチェル氏の下でCAAD教育手法を在外研究

両角:年表の左端の欄に「1987IT活用教育プログラムの`88導入決定」と書きましたが、1986年ころから熊大建築教室でカリキュラム改革の議論が始まっていました。その一環で建築におけるコンピューター利用教育を充実させることが決まりました。これは構造もあるし、環境もありますが、デザイン教育にも応用しようと決めたのが、1987年です。その時、12台程度でしたが、学生が自由に使えるパソコン室も整備した。新しいカリキュラムは88年度からスタートと決まりました。

私の担当は3年生の「デザインシミュレーション」。CADを使ったデザイン演習のカリキュラムを作ることになりました。

開講は1990年からで少し時間がある。それならやはりCAAD教育の先進現場を見ておこうと、UCLAからハーバードに移っておられたミッチェル先生に「CAAD教育のやり方を勉強したい」と連絡しました。1986年に大阪芸大で親しく話させていただのが幸いして、「じゃぁおいで」ということになり、1988年秋に2か月強、ミッチェル先生のところに行きました。ミッチェル先生の授業を実際に受けて、学生と一緒に課題もやりながら色々勉強させてもらったというのが、この時期です。

パラメトリックデザインを始め、デザイン要素を逐次置き換えながら具体化し変化させる「置換のデザイン」など、ミッチェル先生の著書『Logic of Architecture(建築の形態言語)』(長倉威彦訳, 鹿島出版会,1991)に書かれている手続き的なデザイン発想法のヒントをいただいた。

ウィリアム・ミッチェル『建築の形態言語』(撮影:種田)

両角:この他、僕にとって大きな財産となったのは、AutoCADの学習。ハーバードのデザイン学部も、ちょうどワークステーション版のAutoCADGX3が4台ほど入ったところで、まだ利用者は限られていた。ミッチェル先生の授業でも時間外に講習があり、授業では建築作品の三次元モデリングと建築部材や空間構成の分析などの課題をやりました。私はミースのバルセロナパビリオンの作品解析を担当したのを思い出しました。

帰国後も、3年生のCAAD教育授業が始まるまでは、暫く大学院の授業を通じて、教育プログラムを検討し続けることになりましたが、研究面でも転機がありました。

●三次元モデリングツール開発と遺跡発掘調査支援システム開発

両角:1988年に、笹田先生が図4の右側にあるこの記事を出されました。「3次元丸ごと設計が3年後に見えてくる」という『日経アーキテクチュア』の記事(1988年2月22日号)。まだODE(Open Design Environment)を出す前でしたが、もうほぼ出来上がっていた頃ではないですか。猪里さんが居られた頃ですか。

Iz:1986年に笹田研を修了したので、これは私が出たあとなんですけれど、ちょうど取り掛かり始めたぐらいだと思います。

図4:笹田剛史氏に刺激を受け、モデリングシステムの開発に取り組む(1988年)(両角氏作成)

両角:これはすごいなと思ったし、真似をしたいと思いました。でも同じことをやっても追い付けないとも考えた。笹田先生が仰っているのはどうもプレゼンテーションの部分に見えた。つまり設計思考に即したモデリングのところはあまり扱っておられないように見えた。そこで僕の方はモデリングシステムの開発に挑戦することにしました。

設計者が欲しいのは、ダイレクトモデリング。透視図画面を見ながら、或いはアクソメ画面でも良いですが、3次元モデルを対話的に作れるシステムではないかと考えました。また、そのモデルを対話的にビューイングできたら嬉しいだろうと。それができるには笹田先生のところよりも性能の良い3次元グラフィック・ワークステーションが欲しいと考えた。

いわゆるリアルタイム・レンダリングする3Dグラフィック・ワークステーションが欲しかった。でも建築設計のためというだけでは、科研費を申請しても通るとは思えない。 そこで先ほどご紹介した堀内先生達が登場します。遺跡の発掘や実測調査の際に、現地で発掘した遺構などを3次元計測して、それを3次元CGで再現する、そういうシステムを開発したいという課題を考えてました(図5)。少し大き目の科研費を申請したら、見事採択になった。

図5:エジプト・シナイ半島の港湾都市トゥールの遺跡発掘調査支援(1988–97年)(両角氏作成)

Ik:そういうことでしたか、なんで遺跡の話がでてくるのかなと、そこも疑問だったんです。

両角:当時、地中海のシナイ半島で発掘調査している川床睦夫[1948–2018]さんという早稲田出身の方がおられました。堀内先生、木島先生に引き合わせていただきました。川床氏自身も、発掘するということは、積層されている異なる時代の遺構を上からどんどん取り去っていくことなので、その過程が的確に記録できているかについても気にしておられました。

そこで研究室でシステムを開発しながら、10年近く毎夏の発掘調査に参加し、発掘過程の3次測量と視覚表現をお手伝いさせていただきました。図5です。年表では3番目の欄「遺跡発掘過程の3D記録と視覚再現」に赤文字で一連の取り組みを書いてあります。

Ik:確か先生、レイヤーを上手く使うというお話をされていませんでしたっけ。

両角:発掘のレイヤーですね。10センチずつスライスをするように発掘しながら、スライス面に出た遺構の輪郭や遺物の出土位置をトータル・ステーション(光波測量機器)で三次元測量する。その日のうちに輪郭線データをAutoCADに取り込んで発掘記録図面や3次元モデルを作る。日本に戻ってからは3次元モデルをグラフィック・ワークステーションに送り込んで遺構の3次元形状や遺物の出土位置を対話的に観察する、そんなシステム作りました。

10㎝ずつスライスする発掘は川床氏の提案です。丁寧に作業が進むのですが、発掘としては時間かかるため、後では少しやり過ぎたかなとも思いました。

Tn:両角先生のご著書『新しい建築設計のかたち』にも書かれていたスライス式記録方法のお話ですね。あれはすごかったです。事前計画が大変そうですよね。

両角:発掘支援の話は、今回のテーマではないのでここまでにします。ただこの話がないと僕らの研究がスタートしなかったものですから少しお話しさせていただきました。

両角光男『建築設計の新しいかたち』(撮影:種田)

●レゴ感覚の対話型3次元モデリングシステム“CAAD-F”

両角:それでダイレクトモデリングの話に戻します。笹田先生の言葉に触発されて、先ずは、レゴ感覚のデザインツールを作ろうというので、1988年に対話型のモデリングシステムを修士の学生だった中村裕文君が開発しました。

図6:レゴ感覚の対話型3次元モデリングシステムCAAD-Fの『at』掲載記事(1990年)(両角氏作成)

両角:図6は『at』に書かせて頂いた記事です。システムをCAAD-Fと名前を付けました。当時2年に一回の割合で開催されていた国際会議“CAAD Futures”の名前を勝手にいただきました。

透視図で表示されたワークステーションの画面に向かって、プリミティブ・インスタンシングという考え方になりますけど、基本立体の名称コードとか寸法とか基準点の座標を打ち込んでいくと、3次元モデルが透視図表示される。拡大・縮小、移動、回転、コピー、繰り返し配列などのコマンドを入力しながら、基本立体を組合せてモデリングしていくようにしました。それさえできてしまえば、あとはワークステーションのキー操作だけで、ワイヤフレームやサーフエスモデルなどの表示や投影法を切り替えながら、自由に視点移動できるようになりました。

単純なシステムができると、早速、木島先生は研究室で取り組んだパリの日仏文化会館設計競技に使おうと言い出しました。1989年の秋です。その時、設計案がどう展開したかを1990年の『at』にかなりの頁をいただいて紹介しました(図7右側はその一部)。『建築設計の新しいいかたち』(両角光男、丸善、1998)にも詳しく書いています。図7の左側は『建築文化』に紹介した木島先生の他の設計プロジェクトで使った事例です。

図7:CAAD-Fによるデザイン試行(1989–90年)(両角氏作成)

両角:木島先生は30秒のCGアニメーションも作られました。どうしたかというと、ワークステーションの前にビデオカメラを据えて、モデルを表示する。キー操作で視点を決定して、1コマ撮影。予め計算しておいた経路に沿って視点座標を入力、視線方向を調整して次の一コマを撮影。そんな作業を繰り返しました。まさに人間コマ撮り装置。画像表示は一瞬ですが、秒30コマとして30秒分、900コマを撮影する作業が徹夜で1日続きました。

こうして木島先生が設計した九州電力のアジア太平洋博パビリオンの宣伝ビデオができました。あの時は足場のパイプを組み立ててパビリオンを作りました。割と単純な形の部材の組み合わせだったのでプリミティブ・インスタンシングの考え方でも、比較的容易にモデルができました。でもコマ撮りアニメーションを担当した学生やカメラマンにはかなりの苦役でした。

Ik:この時に笹田先生は、ウォークスルーじゃなくて、フライアラウンドをずいぶん褒めていたというか、「面白いんだよね、これ」っていうような話をしていたよう気がしますね。

両角:そうでしたか。高解像度ワークステーションの画面を撮ってるので、当時のビデオアニメーションとしては画像がきめ細かかったと思います。ミッチェル先生にも「線が綺麗だ」って言われました。

木島先生は、「道具は現場で使ってなんぼ」、「使えるかどうかの議論はどうでもいい」と。「どう使うかを考えろ」、それで「できないことは次の開発課題にしろ」という発想でした。

しばらくはCAAD-Fを使って設計やCGアニメーションを制作するという時期が続きました。これが大体1989年、90年のあたりです。

●90年代の熊大におけるCAAD教育

両角:1990年から始まったCAAD演習「デザインシミュレーション」の話をします。先ほど88年からカリキュラムを変えたと申し上げましたが、当時建築学科の学生用パソコンが12台。最初はAutoCAD GX3、1992年には台数も増えてAutoCAD GX5やソリッドモデラ―のAMEが入りました。

先ず、学生にAutoCADの操作法を教えなければいけませんが、ただコマンドを教えただけでは設計を志す学生は興味を持てない。基礎的な操作法を学んだ段階でも、そこで出来る作品を作ってもらおうというので、図8の左端にある「イスラミックタイルパターン」という第一課題を考えました。 ミッチェル先生の授業でヒントをもらったものです。

図8:PC-CAD(AutoCAD)によるイスラミックタイルパターン作成課題の学生作品と 三次元モデルの入力・編集方法の学習教材(1990年~)(両角氏作成)

両角:これは2次元図形の入力編集を習った段階の課題。単純図形を組み合わせて一つ分のタイルを描き、それ複写配列してもらいます。部分を塗り分けてみるとタイルの間に意外な繋がりが見えてくるのがイスラミックタイルパターンの面白さです。学生も塗り絵をしながら楽しんでいた。

次の授業では、模型製作の感覚で3次元部材を組み合わせながら3次元モデルを作るという教材を使って、3次元図形の入力と編集方法の基礎を習います。図8の右側です。穴あき板のモデル作って箱の展開図のように並べたあとで、部材を順次回転させながら箱に仕上げ、最後にレンダリングして完成。

図9の図版は次の段階で学ぶ、やや高度な図形編集コマンドの教材。一本の柱材を3次元空間で回転コピーする方法でオブジェを製作。パラメ―ターの値を変えだけで意外な形が作れることを体感してもらうのが狙い。ここまで来ると、模型では難しいレベルの造形も誕生。こんな課題を通して楽しみながらAutoCADによるモデリングやビューイング操作を学べるように教材を工夫しました。

図9:柱材を3次元回転させてオブジェをつくる課題(1990年~)(両角氏作成)

両角:当初、AutoCAD入門は3年の「デザインシミュレーション」でをやっていましたが、1994年からは新たに1年生にも造形表現という演習授業ができたので、そこに下ろしました。1学期を3区分して手描きスケッチ、模型製作、CADと3種類の表現方法を扱うスタジオを交代で受講してもらいました。そのCADスタジオの最後に作ったのが、図10「大学構内の広場に立つモニュメント」。この作品はその最初の年(1994年)の作品。色付けはプリントアウトしてからやっています。

図10:1年生のPC-CAD課題「大学構内の広場に立つモニュメント」(1994年) (両角氏作成)

両角:代わりに3年生の「デザインシミュレーション」では建物の作品解析をやるようになりました。図11が作品例。これはミッチェル先生の授業の踏襲です。建物の構成部材をばらしてみるとか、或いは特定の部材だけ抜き出して表示してみるとかすることで、そこに内在する規則性とかリズムの面白さを見つけ出す。そんなことが狙いでした。

図11:3年生次「デザインシミュレーション」の作品解析例(1990年) (両角氏作成)

●デザイナーの思考に馴染むモデリングツール

両角:時間的には少し戻りますが、1990年、高本孝頼氏が博士課程の社会人学生として戻って来られました。彼は「今のCADで扱うのは2次元や3次元の線の集まり。いわゆる部材という感覚がない。だから部材感覚で操作できるCADを作りたい」と言いながら、AutoCADをカスタマイズし始めました。

図12は『at』の92年4月号に掲載された高本氏の作った知的3次元モデラ―の紹介です。小さくて見難いですが、後述する、92年12月に開催された“CAD5”セミナーで僕が紹介した高本さんのデモの再録です。

図12:『at』誌に掲載された知的3次元モデラ―の紹介(1992年)(両角氏作成)

両角:3次元空間に机や椅子のワイヤフレームモデルを入力する。モデル自体はバラバラな基本図形の集まりですが、机とか、椅子とかパソコンとか、対応する図形群を選んで塊として定義する。次に、パソコン本体とキーボードは一つのグループで机の上にあるとか、椅子は机の前にあるとか、それぞれの位置関係を定義する。そうするとパソコンを動かしても机は動かないけれど、机を動かせばパソコンは机と共に移動する。まとめてコピーすると、そうした関係性も保持される。要は3次元の基本図形をグループ化する一方、グループ間に上位下位の包摂関係関係を定義し、集合操作できるようにするというデモでした。CAD5セミナーの参加者からは、こんなことをする意義が分からないと言われてしまいましたが。

CAD5は91年の12月から92年の9月までほぼ隔月で6回ありました。池上さんはこれ参加しておられましたよね。

Ik:参加してたんですけど、記憶がところどころしかなくて。

Tn:CAD5でのご講演はすべて『at』に記事として載っているんですか?

両角:僕のと、渡辺仁史先生のものは記事になりました。あとは載らなかったですが。

Tn:CAD5の記録はこれ以外にもどこかに残っていますか?

両角:印刷物は出なかった。毎回のハンドアウトはあったのですが、何回も引っ越しているうち紛失してしまいました。ただかろうじてCAD5の案内プログラムだけ見つかりました(図13)。

図13:“CAD5”案内プログラム(1991年)(両角氏作成)

両角:皆さんご存知のとおり、僕がCAD・CGの研究をやり始めたのは他の先生方よりずっと後のこと。80年代後半からですからね。それで笹田先生から最初にこう言われたんです。「お前は打たれ強いから、まずトップバッターで皆に叩かれろ」って。

Ik:それだけは覚えてるな、私も。

両角:笹田先生にしても、山口先生にしても、渡辺先生、山田学先生にしても、皆さんちゃんと実務と連携してやってこられていて、僕だけが「建築教育用のツール開発」とか言って役に立つかどうか怪しいことやってる。それで、「お前とにかくやれ」と言われたんです。

Tn:そして、さきほどの知的3次元モデラ―のデモンストレーションについて紹介されたのですね。

両角:そのデモの内容を一歩進めたのが、1993年の高本さんの学位論文、「建築要素の関係設定に着目した知的建築CADの開発研究」になりました。 CAD-Rと呼んでいました。図14の左側にRC造の模式的な平面図があります。

図14:高本氏博士論文「建築要素の関係設定に着目した知的建築CADの開発研究」 (1993年)(両角氏作成)

両角:当時のAutoCADは、線分や矩形、円などの基本図形の組合せで図面を描くものでした。それらの図形に、柱、壁、開口というように建築部材としての意味付けをすると、各部材の接合関係や包摂関係を理解して包絡処理した図面を表示するというシステムを作っています。さらに設計案を変更した際には、関連部分の表現を自動修正してくれるという、今では当たり前のものです。図では左端の通り芯を傾けると、それに追従して、適宜包絡処理もしながら柱、壁、開口の図面が変更されています。

この他にも、図形の置き換え手続きによるデザイン検討機能も考えてもらった。ラフなモデルを並べて全体構成を考え、徐々に具体化・詳細化したモデルに置き換えながらデザインを進めるというツールの開発です。

建築家の設計のスケッチの分析を幾つかやっていたのですが、その中にはラフに考えてからディテールのデザインを考え、スケッチの表現を置き換えながらだんだん密度を上げていくという、そういう設計の流れがあります。その手順を採り入れようというので、CAD-Rに置き換えデザインの機能を追加してもらった。

小さくて良く見えませんが、図14の右側に基本的な操作の説明を載せています。また図15には、この機能を活かして学生が「地方博の小パビリオン」という小課題で試行錯誤していた様子を紹介しています。何れも『at』1993年12月号に掲載されたものです。

図15:小課題「地方博の小パビリオン」の学生作品(1993年)(両角氏作成)

両角:まず、学生はキューブのユニットを組み合わせたデザインを考えるとの方針を立て、初期案として単線で描かれた立方体を並べました。次に、ユニットの初期案として木材を組んだフレームのモデルを制作。このモデルと最初の立方体を指示することで、順次木材フレームに置き換えます。格子壁を付けたユニットや、屋根を載せたユニットなど、場所毎にユニットの2次案、3次案との置き換えを試行錯誤しながら徐々に仕上げた。最後には入り口付近に変化を付けたかったとかで、出来上がったユニット列の一部を回転してせり上げています。

●アンチBIMの企画設計CAD

両角:このような開発と授業での利用を続けていましたが、その後大きく進んだのが、現在、金沢工業大学にいる下川雄一さんの博士研究。少しやりすぎたかなと思う3D-CAD、Schematic Design Systemを試作しました。これはBIMの考えに近づいているのですが、アンチBIMなんです。

設計者は、企画設計段階でアイデアを練っていく時に、平面から考えたり、断面から考えたり、外形から考えたりといろいろな角度から検討しますね。その時、それぞれの自由度を認めながらそれぞれの表現モデルをすり合わせる作業ができる3D-CADを作ろうとしたのが、彼の99年の博士論文「整合操作に着目した企画設計支援システムの開発研究」(Schematic Design System:SDS98)です。

図16:下川氏博士論文「整合操作に着目した企画設計支援システムの開発研究」 (1999年)(両角氏作成)

両角:平面、断面、立面などはある程度は連動して欲しいけれど、一つ変えると全部自動的に変わってしまうというのでは、案を練る段階としてはまずい。そこでアクソメ表示された作業空間に、平面スケッチ、断面スケッチ、外形モデル、構造体モデルなどを同時表示したり、いずれかを組合せて表示したりしながら、通り芯や階高基準線などを手掛かりに構想を練りすり合わせていく。そういうCADにできないかと考えた。

これはBIMの世界と微妙な違いを持っています。結局、この研究は実用段階には進みませんでした。パソコンの能力からするとやっぱり重かったので。

Iz:考え方が面白いですよね。AutoCADでやっているというのがすごいですね、

Tk:BIMじゃないっていうのがいいですね。BIMっていうのは本当に、設計を効率的に進めるためにはいいんですけど、デザインを膨らませるツールじゃないんですよね。結局これができないんですよ。

村上:全部が連動してしまう。

Iz:BIMって、決めたくないのに決めないといけないという側面がありますからね。

両角:この時もう既にIFC(Industry Foundation Classes)(★3)が動いていた頃で、それに少し反抗しながらこんなものを作っていました。

Tk:デザインってやっぱり、プランはこうだけど立面はこうしたいし、断面はこうしたいって、少しずつ少しずつ整合していくものだと思います。この研究はそういう人の手でやっていたことがまさにできていて、これはすごいことですね。

両角:下川君に話すと喜ぶと思います。このシステムでは、当然、プランは平面図視点で書けますし、各階平面図を並べておいてから、通り芯を動かして一斉に変える機能だとか、断面図と平面図をアクソメ画面の中で同時表示して調整するなど、色々な操作ができて、そこも結構面白かった。

モデリングツールの開発は、大体2000年ぐらいまでで、ここから先はもうほとんどやらなかったですね。AutoCADのADTが出てきたり、Revitが出てきたりで、もうやりたいと考えていたことは大体できている。下川先生が考えたところだけは別ですが。

●手書き訓練とBIMを併用した熊大の設計教育

両角: 2000年代に入り熊大の設計教育はどんなことをやっていたかをご覧頂こうと思います。

図17:照明による舞台演出シミュレーション(2004年)(両角氏作成)

両角:図17は3年生前期の「デザインシミュレーション」という授業の作品です。1年生は全員がAutoCADを使ったモデリングを習いますので、3年生はその応用ということで、3次元モデルのレンダリングやその画像を使ってプレゼンシートを作る課題をやる。デザイン的課題でありながらあまりモデリングに時間をかけない内容ということで、舞台の演出シミュレーションを課題にした。美しい表現ができるので、学生たちは結構のって色々な作品を作りました。当時のAutoCADはADTにグレードアップしていて、レンダリングの際に材質や光の特性もいろいろ定義できたものですから、彼らなりにイメージを膨らませて作品を作っています。

図18:建築作品の空間構造分析(2004年)(両角氏作成)

両角:レンダリングを学んだ次には、アートポリスの建築作品の図面をもらってきて、3次元モデリングしながら建築作品の空間構造分析をするという課題を出しました(図18)。この課題自体は何年も前からやっていましたけど、システムのレンダリング性能が良くなった分だけ、表現もレベルが上がっています。

Ik:これも2004年ですか?

両角:2001年からこの課題が始まっていますが、これは2004年の作品です。大西康伸先生が熊大に来られた年です。ADTが入ったのが2002年、そしてRevitに代わったのが2007年。

Ik:実務の世界だと、BIM元年って2009年だと言われていますから、これは先駆的な取り組みですね。

両角:BIMに関しては、今でも、熊大建築の3年生はほぼ全員が「デザインシミュレ ーション」という演習(選択科目)を受講し、Revitを習います。そのうちの4分の1ぐらいが、3年後期の設計演習でRevitを使って設計課題に取り組みます。それも個人作業ではなく、Webシステムを使って協働しながら設計課題をやります。それが3年生全体の3分の1ぐらい。卒業設計でも大勢が当たり前に使っている。今、熊大の学生が使うのはRevitですから。BIMユーザーをまとめて出していることになります。

Revitが出てすぐに熊大は授業用に入れました。その時から学生たちは、いわゆるドロ ーイングだとか、モデリングは習わずにいきなりBIMで始めるようになった。少々問題かなと思うこともありますが。

Tk:1年生からもうBIMも使うんですか。

本間:1年生はSketchUp。

Ik:SketchUpもBIMと言えばBIMですよね。

本間:まぁ造形ツールですね。 製図のためのCADは教えていません。

Tk:製図もBIMで、つまりRevitで図面を描くんですか。

本間:いわゆる設計製図は「設計演習」という名前ですが、必修科目が2年生からあります。この授業は手描きです。でも課題作品のプレゼンテーションでは、学生は勝手にSketchUpを使ってやっていますね。図面は全部手描きで、インキングもさせますが、パースは模型写真でも良いし、SketchUpでも良いしということでやっています。

Tk:一級建築士試験がいまだ手描きですから、やっぱりそうなりますよね。

両角:熊大建築では昔からオール・デジタルっていうのは考えていなくて、やはり手書きや模型と両方やらせた。かなり特化したというか、こういうデジタルが得意な連中、2割5分くらいが、卒業設計までデジテル・ツール中心でいく、そんな感じです。

Tk:ちなみに図18の作品は、ツールはどういうものを使っているんですか。ソフト、ハードは。

両角:Revitを入れたのが2007年からですから、この時(2004年)はまだADT、つまりAutoCAD2002。3次元CADで、レンダリング機能もかなり強いやつです。

村上:Revitが出る前に、ADTといって、AutoCAD2002をベースに建築モデルの作成に特化した試作バージョンみたいなのが出ました。

本間:Architectural Desk-Top。オブジェクトCADですね。BIMとは呼ばないです。

両角:熊大の建築ではデジタルツールも使うけれども、手描きと両方しっかりやらせようと。ただ、最初に申し上げたように、発想を豊かにする道具としてデジタルツールを使いたい。あと表現力もアップさせたいということです。手描きスケッチよりもデジタルの方が得意な学生も多数いるわけですし。

本間:2年生の設計演習は私がずっと担当なのですが、しつこく手描きをさせています。トレースもさせて、自分の課題も手描きでさせています。その学生達が3年生になると、3割程度が大西(康伸)先生のスタジオ(設計演習クラス)に入って、全部Revitでやる(3人の教員がそれぞれのスタジオを用意し、学生はスタジオを選択することになっている)。

先日、だいぶ完成しているところに入っていって、2年生の時に教えた学生に「どう? CADのほうがいい?」って聞いたら、「100倍いい」って言われました。

一同:

本間:「思いついたことがすぐに図面になるからいい」と言っていましたね。手描きの図面だと、設計変更を助言しても、ここまで描いたんだから変えたくないみたいな気持ちが働いています。「ここはスパンが違うよ」なんて言われたらもうおしまいで、課題提出の前の日ぐらいにそれを言われても、もう絶対に直せないみたいなところがあります。そういう意味で、CADのメリットの部分は、ものすごく学生は感じているみたいですね。

Tk:それはBIMに限らず、2次元CADでもそうですね。図面を描かせるところでも最後ちょっとスパン変えたりとか、壁の位置を調整したりという時にCADは便利ですよね。BIMをCADと区別してどう位置付けるかという問題もありますね。

本間:初学者の教育担当として私が感じるのは、立面とか天井などがどうなっているかという発想は、手描きの初学者はほぼないですよ。平面図でいっぱいいっぱいで。だけどBIMをやっている学生は3次元で全て作らないといけないので、初学者でも立面とか天井とかそのへんの感覚は最初からあるなと思います。例えばハイサイドライトなんかを作るにしても、手描きの学生だと図面でどう描けばいいかも分からないくらいですが、BIMだとモデリングできますので、こうなるんだと理解してちゃんと作れたりします。そういう意味では、立体的なものを理解するのは手描きよりもBIMのほうが圧倒的に早いと思いますし、初学者でも結構できるかなという実感です。最終的にそれが良いものかどうかというのは別ですけれど。

Tk:建築設計では、本来3次元でものを考えるというのは大事なことで、3次元で建築をイメージしながらそれを2次元CADの上で色々調整するのも勉強かもしれない。図面の変更作業が手描きより容易なら、デザインのツールとして有効と言える気がします。しかし、さっきの下川氏のSDS98のお話のように、BIMになるとそれが全部連動しちゃうことが逆に問題。建築というのは少しずつ少しずつ調整しながら考えていくものですから。いきなりできちゃうというようなことで良いのか。学生の思考訓練という点はどうなのかなというのが、まだ私の中では疑問です。

両角:やはり下川氏のSDS98の考え方を少しでも取り込んでほしいですね。

●チーム設計を支援するCAD(GW-CAD)

両角:時間的には戻りますが、年表の「企画設計の道具作り研究」欄の最後に紹介するのがGW-CAD。

図19:設計チームを支援するGW-CAD開発(1992–97年)(両角氏作成)

両角:サーバー上で複数の設計者が対話しながら、AutoCADのモデルやその部分を交換しながら協調設計できるようにするシステム。1992年ころから村上さんが技術指導しながら、修士の学生が挑戦した。パソコンやサーバーのパワー不足で苦労していましたが、最終的には「建築デザインチームのためのグループワークCADの開発研究」(1997年) として村上先生が学位論文にまとめました。

設計者のPCは共通windowと個人windowの2画面構成で、共通window上のモデルはサーバー上あって全員の表示内容が同期している。設計者は共通windowを交互にビューイングしたりモデリング操作したりしながら意見交換。時には個人windowと共通window(サーバー)の間でモデルを交換することで、個人作業の成果を全員が共有するようなイメージです。

村上:GW-CADではコモンスペースみたいなものを用意しておいて、ネットワークでwindow間の同期をとれるようにしておく。設計案をそこに入れると参加者が全員その案を見ることができるようにしました。チーム作業の時に、他の人がやっている作業画面を見たいという要求にどう応えるかを考えました。

3章遠隔協調設計技術の開発と教育現場での実践(1996–2013)

●WEBを使った遠隔協調設計(VDS)

両角:「ICT利活用研究の推移」という年表の左端の欄をご覧頂くと、1996年に国際遠隔協調設計(8–9月)と書かれていると思います。

図20:“Virtual Design Studio Project‘96” WEBを使った協調設計技術の開発 (1996年)(両角氏作成)

両角:熊本ではこの年の秋に、くまもとアートポリスの国際建築展が開催されることなり、街なかにオブジェを作るというプロジェクトが立ち上がりました。責任者は地元の造園家・環境デザイナー、吉井講二氏で、学生と何か面白いことできないかと相談を受けました。それが6月の中旬。たまたまこの時に仲隆介先生がMITのミッチェル先生のところに居られるのを思い出して、国際協調設計の課題にしようと吉井さんに提案しました。先ず仲先生、次に仲先生からミッチェル先生に声をかけていただいて、さらに山口重之先生にも声をかけて、三者でやることになりました。

熊本市中心部の熊本城天守閣を間近に見上げる魅力的な場所に九州電力熊本支店がありました。それが郊外移転して空き地になっている。だからそこにモニュメントを作ろうという課題。さらに、吉井氏は、不要になった農業用サイロの部材を使って、何かモニュメントを作りたいと提案して来られました。

まず、各大学から1人ずつ参加した国際混成チームを3つ作り、3つの案を作ることにしました。でも夏休みだし、単位にもならないので、MITの学生が参加してくれるかなと仲先生が心配された。それなら3チームのコンペにして一等のチームは全員熊本にご招待っていうのはどうかと提案しました。そうしたらMITの学生も3人参加してくれることになり、8月1日から9月にかけて取組みました。1週間単位で小課題を繰り返して5週間で最終プレゼンという段取り。

毎週の発表会には、MITからミッチェル先生、仲隆介先生、J. ペンデルトン先生、京都工芸繊維大学から山口重之先生、川角典弘先生、熊大からは位寄和久先生、桂英昭先生と私が参加。博士学生だった下川雄一氏や、MITでバーチャルデザインスタジオをやった経験があり、具体的な進め方を提案してくれたスーザン・イ―さん、その他にもまだ数人が各チームの技術支援に参加しました。

スケッチや作品の提示にWEBを使い、発表会ではCU-SeeMe(★4)という初期のインターネットビデオ会議システムを使いました。離れた場所にいるチームメンバー同士の討論やアドバイザーとの質疑には、電子メールとブレティンボード(WEB掲示板)、CU-SeeMeなどを使いました。

ところが途中で大変なことが起きました。このプロジェクトの4週目にWindows95が世界発売になったんです。それでインターネットが混んでCU-SeeMeがほとんど使えないというトラブルも経験しました。後半の発表会ではNTTの専用回線を借りました。

そんなこともありましたが、各チームから魅力的な作品が提案され、それを基に吉井氏が迫力のあるモニュメントデザインにまとめて下さいました。

当初は、一等のチームだけ熊本へ招待するとしていましたが、最終講評会で一等が決まった途端にMITの残り2人がひどく落胆した様子がビデオ会議の小さな画面に映りました。それがあまりに気の毒だったので、「それなら皆熊本においで」とその場で決めて、3大学のメンバーが現地に集まりモニュメントの完成を喜びました。

両角光男氏(撮影:長﨑)

両角:図21に当時のVDS(Virtual Design Studio)(★5)の技術的変遷をまとめました。91年にミッチェル先生が指導して、UBC(ブリティッシュコロンビア大学)とハーバード大学が、ファイル転送によるVDSをやっている。この時は設計図書のデジタルファイルをただ交換していただけ。

図21:VDSプロジェクトの技術的変遷(両角氏作成)

両角:ファイルの名前を工夫して、中身がどういうものであるかを伝えるところがミソでした。その後1993年にミッチェル先生がVDSの研究を広く提唱された。僕がミッチェル先生を訪問した際に、これからはVDSが重要だと言われたのもこの頃。でもその時はどうして良いか検討もつかなかった。

93年と94年には、MITを中心に、北米、ヨーロッパ、アジアの三大陸に位置する5つの大学が参加する協働スタジオが2件実施されました。参加大学は少しずつ変わったようですが、この段階ではまだ大学ごとにチームを編成していて、スケッチやプレゼンをお互いに批評し合うという、合同講評会のようなやり方でした。情報交換はFTPサイトによるファイル交換と電子メールによる意見交換が基本だったようです。ただ94年の協働スタジオではCU-SeeMeが登場。

Webを使ってスケッチや作品を共有するようになったのが、VDS’95です。ただこの時も結局、大学単位でプロジェクトチームを作ってやっていましたので、Webを使った合同発表会でした。僕は自然に発想したのですが、結果的には、VDS’96で初めて海を越えて設計チームを編成するという、とんでもなく難しいことにチャレンジしていたわけです。このVDS’96を経験して、研究室ではWebを使った協調設計支援ツールの開発研究を進めることになりました。

図22:Virtual Design Studioの4つの魅力(両角氏作成)

両角:図22にVDS’96の結果に基づいて建設したモニュメントを背景に「Virtual Design Studio の魅力」を整理しています。

VDS’96をやってみて、第1に文化の異なるメンバーが集まることで非常に発想が豊かになるとか、思考が広がることが分かりました。第2に日本人から見ると実践的語学の学習環境ができたと思います。MITの学生は極めて優秀だった、また仲隆介先生が向こうで助けて下さったということもありますが、日本人の拙い語学力をカバーして作業が進行し、日本人学生のコミュニケーション力も5週間で格段に向上しました。第3に、時差の活用で作業密度が上がる。時差が13時間、昼と夜が逆転していますので、リレー式で作業が止まらず積み上がる。これが大きな発見でした。第4には、Webに設計過程で作ったスケッチなどが全て整理され、蓄積されていく。これはすごいことで、設計演習の授業でも大いに使えると思いました。

●VDS技術を応用した設計演習授業の試行

両角:熊大では普段学生は製図室に居ないし、学生同士で設計のアイデアついて話し合うことがあまりない。先生が授業時間に学生の個別指導をしても他の学生にはその内容は全然伝わらない。ですからこのスケッチや資料を整理しながらWEBに登録していくVDSのやり方は、受講生や教員の情報共有という意味で非常に優れているのではないか。それからネットワーク上にあるので、学外からも指導助言がもらえるというメリットもあると考えました。

Ik:まさに建築のGitHubですよね、これ。

両角:ネットワークコミュニケーションとか協調作業の面白さを学生たちにも体感させたいと考え、早速、その翌年、97年後期の設計演習授業に取り入れました。

図23に、WEB導入の狙い、実際に作ったweb頁の例、作品例、授業過程における気付きなどを紹介しています。

図23:設計演習授業におけるVDS技術の応用(1997年)(両角氏作成)

●VDS支援システムの開発(GW-Notebook)

両角:97年の授業の課題は、都市ホテルの設計でした。資料集めの段階で、分担して設計事例を分析し、決められたフォーマットの資料にまとめて、それをWEBで共有するようにしました。1人1人の作業が確実に皆のものになり、WEBシステムの威力を確認できました。また、この時は建築学会の情報システム技術委員会の方々にWEBのURLとパスワードをご紹介したところ、日建設計の榊原(克巳)さんを始め何人かの方がコメントを書いて下さったりして、学生たちもそれが非常に刺激的だったと喜んでいました。

VDSの応用は利点が多い一方で、スケッチを登録するのにいちいちWEBページを作らなければならず、その作業負担大きすぎることが問題になりました。そこでスケッチの登録と表示、チームやクラス内の掲示板による意見交換などの定型作業をシステム化することにしました。

最初に誕生したのが、「GW-Notebook 97」。高橋将幸君の修士研究で作ったシステム(図24)。ネーミングも高橋君です。1998年後期の授業から実際に使用しました。

以降、前年の反省を踏まえて色々機能を持ったページを増やしたり、操作性を上げたりしながら授業でその効果を確認する作業を繰り返したというのが、年表の右から2番目「設計チームの情報共有高度化と知的生産性向上」と書いた欄の一連の取り組みです。

図24:情報共有支援システム「GW-Notebook97」の開発(1997年)(両角氏作成)

両角:システムの大まかな階層構造としては、プロジェクトページがあって、その下にチームのページがあり、チームの下に個人のページがあるという構成。基本的には個人の頁に色々な資料を登録して行き、そこから選んでチーム頁に登録、それを見ながらチームで議論する。授業の時は、チーム頁から選んだものをプロジェクトページの中の発表ページに登録し、それを見ながら発表し討論する。そんなやり方でスケッチやプレゼンテーションの図版を蓄積し、情報交換しながら授業を進めました。

翌年には97年度の授業を踏まえて、「GW-Notebook 98」にバージョンアップしました。

図25:情報共有支援システム「GW-Notebook98」の開発(1998年)(両角氏作成)

両角:図26は、何かの機会に発表させて頂いたものですが、GW-Notebookの利用効果のまとめです。

教員のWEBサイト管理の手間も減ったし、学生たちの余計な手間も無くなった。そもそもWEBを書いていた頃はWEBの書き方から教えなければならなかったし、学生のWEBプログラムを直す先生たちも大変でした。それが膨大な量の資料を登録しても動作は安定していたし、登録の手間も簡単になって、設計作業に集中できるようになりました。

図26:情報共有ツールとしてのGW-Notebookの効用まとめ(両角氏作成)

両角:先ほども申し上げましたが、作業で作ったスケッチや設計図書が確実に一括保管できる。3番目に書きましたが、これも非常に大きな効果。振り返ると、WEB上のアイデア掲示板(Digital Pin-up Board)だったものが設計情報交換場所になり、更にそれが教材データベースになっていく。つまり学生たちは、課題を始める前に、前年度の作品も、前々年度の作品も全部見ることができるわけです。過去の優れた作品は、学生たちの動機付けにも効果を発揮しました。

それから課題の途中で作った全学生のスケッチや図面が蓄積されていますので、設計プロセスの分析もできます。各チームの提案が他のチームの作品にどのように影響を与えたか、途中段階に設定する小課題の出し方で学生のアイデアがどの程度増えるかなど、授業の進め方や協調作業の効果を検証する研究にも取り組むようになりました。

図26の4番目に、「蓄積情報を有効に活用した会議時の説明」と書きました。例えば、講評会で先生が色々質問しますが、その場に資料を用意していないというケースは結構ありますね。そうした場合でも学生は「あ、いや実はこんなスケッチも検討しました」 と、その場でGW-Notebookの個人頁などから必要なスケッチや資料を見せることができます。やはり資料が全部蓄積されていて、想定外の質問が出ても、必要な資料をその場で取り出して説明に使えるというのは大事だと確信しました。

5番目に「非同期情報の共有で相互触発」と書きましたが、講評会が終わった後で、気になった友人のスケッチをゆっくり検討できる。授業時間外でも思い出した時に家からそれをじっくり確認できるわけです。先生が時間外にGW-Notebookに記載したコメント、それも他の学生に対するコメントも全て見ることができる。それも非常に効果的だったと思います。

2000年ころのバージョンからCADのファイルも扱えるようになりました。3次元モデルを、視点を変えたりズームしたりしながら確認できるので便利だと思っています。

●GW-Notebookを活用した学外との遠隔合同授業

両角:GW-Notebook97ができた次の年には、早速、98年にはデジタル設計にはなじみの薄かった滋賀県大の柴田いづみ先生を強引に誘って遠隔合同授業をやりました。

図27:VDSによる滋賀県立大学との合同授業(1998年)(両角氏作成)

両角:また、2001年夏にはUBCのJ.ボィトビッチ先生と、大学院の合同授業をやりました。

図28:VDSによるブリティッシュコロンビア大学大学院との合同授業「千年都市」 (2001年)(両角氏作成)

両角:この年、鹿島建設が主催して「時間都市プロジェクト」が開催されました。千年、百年、1年、1日などと異なる時間スケールで都市の役割を考え、それぞれ理想の姿を描くいう課題で、複数の大学の学生チームが参加。いずれかの時間スケールについての考察結果をWEB上に構築されたパビリオンで展示することになりました。 熊大―UBCチームは「千年都市」を担当。

作品自体の話はさて置き、その時のビデオ会議の様子を紹介しているのが、図29。この時はImpressionというビデオ会議システムを使っていました。VDS’96のころから見るとインターネットの回線速度はかなり上がっていましたが、それでもしばしばモザイク状に画像が抜け落ちました。講評会が妨げられるほどではありませんでしたが、当分はどうしようもないと諦めていました。

図29:Internetの泣き所(モザイク状に画像が抜け落ちる)(2000年) (両角氏作成)

●ギガビットネットワークを使った遠隔協調設計実験

両角:そんな経験を踏まえて参加したのが、2001年、総務省の「ギガビットネットワーク利活用研究開発制度」。GW-Notebookやビデオ会議、アプリケーション共有ツールなどを使った遠隔協調設計技術の開発というテーマで採択になりました。構造計画研究所にも共同参加していただきました。

熊大と熊本空港横のテクノリサーチパークにある電応研という施設、構造計画研究所の東京本社と、あとはギガビットネットワークの拠点研究施設である北九州のギガビットセンター、この4地点間をギガビットの実験用高速回線で結んで遠隔協調設計に必要な各種の情報交換技術を実験しました。使用機器やネットワーク環境を紹介しているのが図30です。

図30:ギガビットネットを使った協調設計実験(2001年)(両角氏作成)

両角:ここでは設計の様々な局面を想定して各種の対話型ツールの動作性を実験しました。本間先生に、通信の平均速度がどのぐらいかかるかを計測していただきました。またこの際には、構造計画さんにはセキュリティの強化を含めGW-Notebookを全面的に書き換えていただきました。それが図31の左。右側は実験風景の写真です。

図31:GW-Notebookのセキュリティ強化を含めた書き換え(左)(2001年) (両角氏作成)

両角:このあたりから、パソコン間のアプリケーション共有も実践に使えるとの感触をつかみました。

先ほどネットを介してAutoCADを相互に操作するGW-CADを紹介しましたが、その他にも、例えば電子ホワイトボードを使うとか、GW-Notebookのプレゼンテーション画面に、デジタルペンを使って書き込みながら討論するなど、対話的情報交換手法の開発に取り組んだのがこの時期です。

図32は、先端技術の紹介をテーマにした2002年1月の公開授業の一コマ。ギガビットネットワークを使って、東京と熊本の2ヶ所にいる設計者が電子ホワイトボードに投影した設計案に交互に手描きしながら討論しているところです。今ではギガビットネットワークは当たり前ですが、当時としては驚異的だったという、懐かしい写真です。

図32:電子ホワイトボードを用いた東京-熊本間の遠隔協調設計(2002年) (両角氏作成)

●対面とオンラインを併用したハイブリッド・ラーニングシステムの開発

両角:また設計演習の授業の話に戻ります。

従来型の演習授業では、折角、製図室に集まって授業していても、例えば、少し離れた位置にいる学生には発表資料が見えていないというように、学生と教員、支援スタッフの間のコミュニケーションが必ずしも旨くできていない。そこで、GW-Notebookの機能を強化し、製図室における発表や討論などの対面型の授業を充実させようと考えました。

図33:学生の個人作業と製図室での対面指導を連携するHybrid approach Design Studio(2003年~)(両角氏作成)

両角: GW-Notebookの導入で、個人単位の作業はいつどこで取り組もうと、その成果をクラス内で共有できるようになった。そうしたネットワークを使った非同期・分散型情報交換と、製図室における同期(対面)集合型情報交換を効果的に組み合わせた学習環境を作るという狙いから、ハイブリッドアプローチ・デザインスタジオと名づけました。

図中の「教材・作品アーカイブ」、つまり教材やスケ ッチやプレゼンテーションなどを蓄積する部分と、蓄積したスケッチを製図室で見ながら対面で意見交換する「設計コミュニケーション掲示板(GW-Notebook)」で構成。今から説明するのは、同期集合型情報交換にGW-Notebookを使用する際の支援機能を強化した話です。

Ik:学生さん、遊んでる暇なくなるんじゃないですか。

両角:確かに時間外や製図室での情報交換の機会が増えるので、学生はサボり難くなった。教員の方もコメントの機会が増えて忙しくなった。でもそれは時間配分の問題で、適宜休みをとればいい話では…と。

図34:学生の個人作業と製図室での対面指導を連携するHybrid approach Design Studio(両角氏作成)

両角:図34の左上の写真は2003年の演習授業の風景です。この時は矢部達也さんという、山口(重之)研出身の建築家が、大阪の事務所から、隔週ペースでビデオ会議システムを使い、GW-Notebookを共有しながら指導して下さいました(★6)

学生の発表とそれに対する意見交換を効率良くやりたいというのでひと工夫しました。図34の左下の写真を見てください。GW-Notebook2003のプレゼンテーション用の画面です。2台のプロジェクターで分割投影しています。画面の下部に、学生が用意したプレゼンシートがいくつも縮小表示されています。縮小画像のどれかをマウスで右クリックすると、スクリーンの右上に大きく表示される、左クリックすると左上に表示される。それぞれ独立してズームとかパンとかできるシステムです。そうやって製図室での発表を便利にする。同じものを矢部さんも大阪で画面共有しながら討論に参加したので、製図室の授業が充実しました。

Ik:資料に表示されているようなプレゼンテーションは、あらかじめきちんと作っておかないといけないわけですよね。

両角:これは講評会の風景なので作品パネルに仕上がっていますが、表示するのは手描きスケッチの画像イメージでも良いし、AutoCADのファイルでも構いません。

本間:必要なところをズームして部分を拡大して見せることができます。

両角:図35の右側を見てください。2004年には50インチのプラズマディスプレイにタッチペンを使って画面描き込みする機能も出てきましたので、グループ授業ではそれも使っていました。

図35:敷地調査支援システムと対話型設計指導システムの開発(2004年)(両角氏作成)

両角:設計課題では、早い段階で敷地調査をしますね。その作業結果をクラスで共有する機能も用意しました。それが図35の左側。学生が現地で撮った画像やスケッチを地図の対応した場所に貼り込むシステム。これは本間先生に作っていただきました。地図上に一覧表示された画像のアイコンを選んでクリックするとそれらが拡大表示されます。

2004年には建築学会九州支部計画委員会の行事としてこのシステムとGW-Notebookを使って100人ワークショップをやりました。100人強の学生が集まった大学対抗のウォッチング&プロポーザル・ワークショップ。図35はその時の風景と発表に使用したWEBの画像です。

本間:今はGoogleがこんな機能を全部やってくれるから、システム開発のあの苦労はなんだったんだという感じです。当時はGoogleがまだあまり使えない時期でしたから、ベースの地図から全部自前で作っていました。

●Facebook, Instagram, Google Earthに通ずるツールを先駆的に開発

両角:こうして見てくると、僕らがやったことは10年後には、ほとんど世の中に出て来た。ある時ミッチェル先生に言われました、「君は面白いことやっているのに、どうして、作ったシステムを商品化しないのか」って。「いやーって」言って言葉を濁したのですが。今でいう起業家精神が足りなかったな。

本間:Facebookみたいなものですからね、GW-Notebookは。

両角:あの段階ではまだFacebookのレベルまでは行ってなかったですが。2006年に丸山高央君という修士の学生が「GW-Notebook をFacebookのような構造にしたい」と言い出した(★7)。それまでGW-Notebookはプロジェクトの頁があってその下にチームの頁があり、さらにその下に個人の頁がありました。彼は、個人のページを中心に置いた構造に変えたいと。学生が自分の頁を起点に、設計演習、仲間とやるコンペというように自由にコミュニティを作って、そこに情報を投稿し意見交換したいと提案した。構造が複雑になって1年間苦戦しましたが、授業で使えるまでに仕上げてくれました。確かにGW-Notebook2007はもうFacebookでしたね。

話を少し前に戻します。GW-Notebook2006では投影された画像の上にフリーハンドで書き込んだり、書き込み自体を保存したりする機能を強化しました(図36)。プロジェクターに装備されたペンの相対位置を読み取る機能を使用しています。画面の右側にあるのが書き込みに使うペンの色や種類、画面操作機能の選択メニュー。

図36:プレゼンテーション機能を強化した「GW-Notebook2006」(2006年) (両角氏作成)

本間:メニューが増えて。

両角:操作選択メニューのインパクトが凄かった。画面の横に立って、デジテルペンで色ペンを選んで書き込んでいくという、テレビの天気予報と一緒です。

Ik:機能を覚えるだけでも結構大変そうですね…。。

両角:学生ってすぐマスターします。皆、普通に使いこなしていました。

本間:こういう機能をひとつ作ってから授業で使ってその評価をまとめるというのが研究室の当時の卒論だった。図にある、WEB画面の書き込みに使用するペンの選択メニューも、どんな操作性を実現するかを含め一人の卒論生のテーマでした。

両角:このほかにも、設計演習における学生の作業を充実させたいと、本間先生、村上先生、大西先生に色々なシステム開発をして頂きました。

本間:図37の右上にあるのが、村上先生の作った建築作品や都市空間の画像アーカイブです。

図37: GW-Notebookを補完するシステムの開発(2005–06年)(両角氏作成)

両角:僕も熊大にいる間に万単位で都市空間や建築作品のスライドが溜まりました。他の先生も皆さん持っておられるけど、ほとんど死蔵状態。学生も含め、お互いに共有し活用できるようにしようと取り組みました。でも万単位の高解像度画像を蓄積検索しようとすると、まだPCでは重たくて動作が鈍かったですね。

本間:これはInstagramでしたね、今で言えば。

村上:検索方法をいろいろ工夫しました。

両角:そうそう、対象物の名前だけでなくて、こんな情景というと、そういう絵が出てくる。もう狙っていたのはAIの世界ですよ。

本間:今だと世の中に画像検索のネットライブラリがあるから、もっと色々できる。

Tk:あと図37の右下の市街地の3次元モデルを使った画像検索、これも面白いですね。

本間:これは3次元モデルをGoogleの地図とリンクさせて位置を一致させるというものです。これも今はGoogle Earthが都市の3次元表示をやってくれるから、あまり意味がなくなった(笑)。写真撮影の位置座標を手掛かりに、自動的に3次元都市モデルの中に写真が配置されるというのを作ったのですが。

Ik:これは今から10年以上前ですか?

両角:そうね、2005年からですね。

本間:今はもう…。

両角:本当、そういう話ばっかりですね。

4章試行錯誤の到達点は?

●BIM(Revit)を用いた「包括的」建築設計演習の試行

両角:大西先生は学内会議が伸びたようで、今日、遂に間に合いませんでしたが、最後に、大西先生と取り組んだ、BIMというか、Revitの機能を活かした演習授業をご紹介します。

BIM本来の機能を活用することで、設計演習を、構造とか環境とか、他の授業で習ったことを復習するというか、包括的に学び直す場にしたいという取り組みです。図38は2007年から3年生の「デザインシミュレーション」の課題で使い始めた木島先生の「日本キリスト教団熊本草葉町教会」[1988]のRevitモデルです。

図38: BIMを活用した包括的設計教育の試行(2007年~)(両角氏作成)

両角:3年後期になったら、部材や部品も意識しながら建物の成り立ちを考えて欲しい。建物の細かい仕様はREVITのデフォルトの設定のままでも構わないから、建物の概略的な構成から詳細まで一貫して考えてもらう機会を提供したいと考えました。

Ik:デフォルトというのはRevitのシステムに入っている部材仕様を使うという意味ですか。

両角:そうです。企業はそれをどんどんカスタマイズして増やしていくのだと思いますが、僕らはRevitに入っているのをベースにやっています。

学生たちに施工図を渡して、これを読み込んでもらう。Revitは本格的に使おうとすると材料や仕様など沢山のパラメータを決める必要があります。図38上のRevit画面の左にあるような要素プロパティ・ウインドウで、施工図を見ながら一つ一つ入力していく。そういう作業を通して、草葉町教会の成り立ちが見えてくる。

日本キリスト教団熊本草葉町教会(撮影:種田)

両角:さすがに1人では荷が重いので、3人チームで取組んでもらいました。チームで話合いながら、草葉町教会はこのような成り立なのかと確認する。実物が近くにありますので、現地にも見に行ってもらいました。

Ik:値段とかそういうところまでは出さないんですか?

両角:コストはやっていません。そういう機会があっても良いとは思いますが。

Ik:現実をどこまで追求するのかなと思って。

Tk:設備の配管なんかもやられているのですか。

両角:設備もやりませんでした。半期の授業でRevit入門から始めるので、それほど時間もかけられませんので。こうした学習方式が確立してくれば、何れのテーマも可能と思います。

図39: BIMモデルのMIDASによる構造解析(2007年)(両角氏作成)

両角:図39は構造解析をやったチームの作品。この時は構造の先生も来られて、学生達に助言していただきました。MIDASという解析ソフトを使って荷重条件を色々変えながら、その場合はどこを補強したら良いかというようなことを検討しました。まだ、これは知的お遊びに過ぎませんが、構造設計と建築設計とのつながりを体験できたのではないかと思います。図39の下は地震時の変形をアニメーションで観察しているところです。

2008年には、大西先生が設計演習の際に、学生の作品について、空気や光の環境シミュレーションを指導しておられました。環境の先生にも応援に来てもらいながら。

●まとめ:デジタル技術の導入と建築設計環境の変化

両角:最後はまとめです。反省みたいなものですが。

図40: ICTで建築の設計は変わったか(両角氏作成)

両角:デジタル技術の導入で建築の設計環境はどう変わったか。第1に表現力が確実に向上した、試行錯誤が容易になっただけでも、発想が触発され豊富化した。

第2に建築を立体的に考えられるようになった。また、特にBIMの登場で計画・構造・設備、あるいは企画設計から施工段階や概算コストを考えるというように多面的な検討も可能になった。ただ先ほど話題になったようにがんじがらめの整合性というのは設計案を試行錯誤する段階では使い難いという問題は残りますが。

第3は遠隔地間あるいは大きな組織における協調作業を円滑にできるようになったのは大きなメリット。

第4に手書きのような器用さというのは必ずしも問われなくなった。

第5に、その分、個人の感性とか思考力の差というのが成果に出てくる。 同じことは組織にも当てはまる。それが第6。設計組織として道具を活かせるかどうかで成果も変わるのではないか。要はユーザーの問題というのが改めて問われるようになったのだと思います。

ということで、色々お話させて頂きました。

Tn:今日のお話では、今となっては当たり前だけれど、それを当たり前じゃない頃に発想されていたというところが、とても重要なことだと思いました。なぜ十数年前に、後の世で当たり前になることを発想できたのでしょうか。

両角:それは何故でしょうね。ニーズベースでモノを考えていたからでしょうか。例えば、設計作業にツールを使っていると、こういうのできないの?この辺りを変えられたらもっと便利になるのに、という問いかけが出てきますね。僕自身は設計実務の現場にいませんので、学生が課題をやっていく立場に立って考えていた。もっともっと機能を拡張したいと欲張ってきた。学生たちに協力してもらいながら、とにかく自前で作り続けているうちに、いつの間にか時代を跳んでしまった?ということなのでしょうか。

Tn:長時間にわたり丁寧に説明いただき、どうもありがとうございました。

Ik:今日は本当に面白い話だったですね、堪能しました。

●小座談:木島・両角研究室におけるOBの体験

Tn:本日は両角先生と一緒に研究室を運営してこられた先生方にもご参加いただきました。最後に、卒業生でもある村上先生から木島先生、両角先生、位寄先生と続く研究室の様子について、ご自身とのかかわりを含めてお話を伺えませんか 。

村上:学部卒は83年、修士修了は85年でいずれも木島・両角研究室でした。その後、社会人ドクターで構造計画研究所の所属のまま1995年から3年間お世話になりました。 学部の時はパソコンを使った都市成長のシミュレーションゲームを支援するシステム作り(CLUG)を卒論でやりました。年表の都市計画の欄に、「CLUGによる都市成長原理の理解支援」と書いてありますが、研究の4代目か5代目を私がやっていました。筑波大とかにも紹介に行きましたよね。

両角:あれは、筑波大に公共政策のシミュレーション研究会があって、それに呼ばれたからです。

村上:大学院の修士課程に上がった時もそういったことをやっていましたが、何か新しいことをしようということで、簡単なCADを作りました。データ構造から全部自分で考えて、ワイヤフレームとシェーディングの簡単なシステムを作りました。木島先生がすごく喜んで、何しろ使えと仰った。そんなに使えるような代物ではないんですが、先生の仕事で簡単なイメージ表現に使っていただいたことを覚えています。

両角:年表では、設計思考を触発する企画設計の道具作りの欄の最初に載せた、「PC BASICによる対話型3Dモデリング83」に対応します。

村上:修士を終えた後、私は設計の会社に2年ほどいたんです。全然畑違いの水澤工務店という数寄屋建築とかをやってる会社です。木島先生の「ラ・マンチャの家」[1975]を水澤がやっていたので、木島先生のご紹介で入ったのですが、3年目で構造計画研究所に転職しました。そこから2年ほどは汎用コンピューターのシステム開発をや っていたんですが、ここに書いていますように、入った時には、熊本構造計画研究所もできていましたが、私は東京勤務でした。AutoCADがちょうど動き出したぐらいの頃に入っているんです。 AutoLISPという簡易のカスタマイズ言語を使って、ちょっとした作図をするようなものを作り始めていました。

両角: 木島先生が草葉町教会を設計した際にAutoCADのEX2を使っていて、設計過程で入力したコマンドの履歴データから、どんなコマンドが何回使われるか、それが設計の進行に従ってどう変わるか調べようと言って、イゴール・ペラザ君が分析した。そのコマンド履歴からコマンドの数を集計するツールを作ったのは村上先生でしたよね?

村上:EX2をカスタマイズして、ですね。はい、覚えています。

両角:研究室に最初にAutoCADというか、市販の建築CADが入ったのは、構造計画研究所の高本孝頼さんが試供品で持ってきてくれたEX2が最初。それで木島先生がとにかく使おうと仰って、草葉町教会の設計に早速使い始めた。その時に木島先生がコマンドの分析研究を思いついて高本さんに相談した。ツールを作ったのは村上先生。

イゴール君は設計図入力を担当しながらそのツールを使ってコマンドの数を毎日記録していった。設計が進み設計案が固まってくると、コマンドの使い方や組み合わせが変わってくる。道具を村上先生が作って、イゴール君がその分析を学位論文にまとめた。

村上:ああいうことがAutoCADは許せるんですね。コマンド履歴が蓄積されたりとか、そういうログを取って解析をしたりとか。AutoCAD自体にそういった柔軟性がすごくあって、色んなカスタマイズができるのが特徴ですね。

両角:研究室から構造計画研究所にはFMチームも含めて20人以上行ったかな。バスさんにもお世話になりましたけど、やっぱり構造計画さんに採用してもらった数は半端ではなかった。

村上:90年のころはそんな関わりでした。高本さんが熊大のドクターに行かれて私も刺激を受けて、95年から3年間お世話になりました。この時はインターネット利用が盛んになった頃で、グループワークのシステムを両角先生のところで書いて、色々な実証研究をやりました。

両角:年表で2000年代以降はCAD開発の欄が空欄になっているのは村上先生が抜けたせいと言いたいところですが、実際は、AutoCADが僕らのやりたいことをほぼ超えたから、もう開発しなくなった。代わりにむしろグループワークというか、ネットコラボレーションのほうにテーマを変えていったわけです。

村上:年表の95年ぐらいのところに「非同期分散型コラボ支援Webシステム」とありますが、このあたりを開発し始めたスタート期にも関わりました。

両角:その年表の最後に「SDS98(Space Design System 98)の取り込み」って書いてあるけど、そこにある「GW_CADⅢ2001」は、総務省の「ギガビットネットを利用した遠隔協調設計支援システムの実用化に関する研究」をやっている時に村上さんがまとめてくれたものですね。

村上: CADとグループワーク、今思うと重要な節目のところでお世話になったなと思います。

両角:どっちがお世話になったかはともかくとして、一緒になってやってきたね。

Tn:ありがとうございます。木島・両角研究室の80年代~90年代の主要な研究活動のご様子と、構造計画研究所と木島・両角研究室との深い関係がよく分かりました。

(★1)木島安史はドームを好むポストモダンの建築家で知られる。1937年朝鮮黄海道海州市生まれ。1962年早稲田大学理工学部建築学科卒業。卒業式の日にフランス・スペイン留学。途中、インド・チャンディガールの現場事務所でアルバイトしてル・コルビュジエに会う。1964年帰国、早稲田大学大学院理工学研究科入学。東京教育大学付属高校で芸術科目「工芸」の非常勤講師(半期)。1966年早稲田大学大学院理工学研究科修了。丹下健三+都市建築設計事務所勤務。1967年エチオピアのハイレセラシエI世大学講師。1969年帰国、河原設計事務所勤務。1970年(株)計画環境建築 YAS都市研究所設立。1971年 熊本大学工学部助教授。1982年同教授。「重複集計法による都市構成の研究 : 熊本市のメッシュ・データ・システムによる実証的分析」で早稲田大学より工学博士学位取得。1985年「球泉洞森林館」で日本建築学会賞(作品) 受賞。1991年千葉大学工学部教授。「熊本県立東稜高校」で村野藤吾賞受賞。1992年逝去。
主な作品に「上無田松尾神社」(1975)、「上無田公民館」(1975)、「孤風院(自邸)」(1976)、「球泉洞森林館」(1984)、「日本キリスト教団熊本草葉町教会」(1988)、「折尾スポーツセンター」(1989)、「熊本県立東稜高等学校」(1990)、「TOTOアクアピットASO」(1991)、「小国町立西里小学校」(1991)、「埼玉県立長瀞青年の家」(1993)、「東陽村石工の里歴史資料館」(1993)他。
主な著書に『半過去の建築から』(1982)、『内なるコスモポリタン』(1983)、『建築の背景―熊本週記』(1986)、『紺碧の幾何学―東地中海の都市風景』(1988)、『カイロの邸宅―アラビアンナイトの世界』(1990)、『「孤風院」白書 ―住居に変身した明治の講堂』(1991)他。(Tn)
参照:堂夢の時間―半過去から半未来へ:木島安史の世界, SD1994年4月号,鹿島出版会

(★2)ウィリアム・J. ミッチェルの経歴は、山口重之氏へのインタビュー([連載:建築と戦後70年─09])の★9に詳述しているので参照されたい。(Tn)

(★3)IFC(Industry Foundation Classes)とは、異なるソフトウェアで作成された建物を構成する全てのオブジェクト(ドア、窓、壁など)のデータを、相互に共有し、やり取りをスムーズにすることを目的とした仕様およびファイル形式のこと。(Tn)
参考:IFCとは?(building SMART Japan), https://www.building-smart.or.jp/ifc/whatsifc/

(★4)CU-SeeMeは、コーネル大学が1992年に開発したインターネット用ビデオ会議システム。ソフトウェア自体はインターネットを通じて無料配布されていた。このシステムの登場により、ビデオボード、サウンドボード、スピーカー等を内蔵したパソコンと、家庭用ビデオあるいはパソコン用のマイク内蔵ビデオカメラなどの安価な機材があれば、世界中の誰とでもネットワークを通じてリアルタイムに相手の顔を見ながらの会話が出来るようになった。(Tn)
参照:両角光男『建築設計の新しいかたち』, ASCII.jpデジタル用語辞典 (https://yougo.ascii.jp/)

(★5)VDS(Virtual Design Studio)は、MITに移籍したウィリアム・J.ミッチェルが1993年2月のMITメディアラボの講演で提唱した遠隔協調設計の構想。ミッチェルはブリティッシュコロンビア大学のジャージー・ボィトビッチとともに、高速通信技術の発達によって、デジタル化した設計情報の交換やビデオ会議装置を使った意見交換が容易になることに着目して、1992年頃より遠隔協調設計の実験に取り組んでいた。VDS構想の経緯に関してはWojtowicz,”Digital Pin up Board the Story of the Virtual Village Project”,pp.8–23(邦訳:建築文化1995年8月号に掲載)に詳しい。(Tn)
参照:両角光男『建築設計の新しいかたち』

(★6)2022年現在、コロナ禍によりZoomやGoogle Meet, Microsoft Teamsなどのオンライン会議システムが普及し、教育の現場でも従来の対面型の授業方式とこれらの併用による「ハイブリッド型授業」が一般化しつつあるが、両角研究室では、2003年当時にすでにこれと同様の授業形式を実現していたことになる。(Tn)

(★7)Facebookは2006年に一般公開、日本語版は2008年公開なので、両角研究室のこの試みは先駆的なものであった。(Tn)

両角光男(もろずみ・みつお)
熊本大学名誉教授。(株)まちづくり熊本顧問。1946年東京生まれ。東京教育大付属高校時代に非常勤講師を務めた木島安史氏と出会う。1969年に早稲田大学理工学部建築学科卒業(吉阪隆正研究室)。1969年「個室システムによる住居群の提案」でUIA主催第10回国際学生建築設計競技ユネスコ賞受賞(近代建築1970年1月号掲載)。1971年同大学院修士課程修了(穂積信夫研究室)。1972年夏ニューヨーク市マンハッタン南部地区都市開発事務所にインターンシップ勤務。1973年プリンストン大学大学院建築都市計画修士課程修了。建設省建築研究所佐々波秀彦第六研究部長の研究補佐員として勤務。1974年熊本大学工学部助手。1985年「地域施設配置計画のためのネットワーク解析手法の開発と救急自動車配置計画への応用に関する研究」で早稲田大学より工学博士学位取得。熊本大学助教授。1986年学位論文で日本都市計画学会論文奨励賞受賞。1988年ハーバード大学デザイン学部客員研究員としてW.J.ミッチェル氏の下でCAAD教育の手法を研究。1991年熊本大学教授。2008年熊本大学工学部長(~2011年)、2011年熊本大学理事・副学長(~2015年)。
日本建築学会では建築計画委員会、都市計画委員会、情報システム技術委員会などで活動。1995年に笹田氏、山口氏らとCAADRIA(アジア建築CAD学会)設立に参画。以降、eCAADe、ACADIAなど欧米のCAAD学会との交流に努め、W.J.ミッチェル氏を基調講演者に迎えてCAADRIA2006国際会議を熊本大学で開催。
地域では、2002年熊本市都市計画マスタープラン検討委員会委員長(~2004)など、熊本県や熊本市の都市・地域計画に参画。2005年に熊本市の中心市街地商店街にまちづくりサテライト研究室「熊本大学工学部まちなか工房」を開設し、商店街や経済団体と大学とのまちづくり連携を深める。2006年熊本市中心市街地活性化協議会幹事。2007年熊本県都市計画審議会会長(~2018年)。2018年熊本県益城町中央被災市街地復興土地区画整理事業審議会会長。都市計画分野における一連の活動に対し、2014年日本都市計画学会功績賞、2019年都市計画法・建築基準法制定100周年記念国土交通大臣表彰を受賞。
主な著書に、『建築都市計画のためのモデル分析の手法』(日本建築学会編,井上書院,1992)、『建築設計の新しいかたち』(丸善, 1998)、『地域と大学の共創まちづくり』(共著, 学芸出版社, 2008)他。

位寄和久(いき かずひさ)
熊本大学名誉教授。工学博士(早稲田大学)。1953年、東京生まれ。1983年早稲田大学大学院博士後期課程修了(渡辺仁史研究室)。1983年建設省建築研究所に勤務し「エレクトロニクスを利用した建築技術の高度化」などの大型プロジェクトを担当。1993年熊本大学助教授。1995年熊本大学教授(~2019年)。2013年工学部副学部長(~2015年)。2009年日本ファシリティマネジメント協会賞(功績賞)を受賞。地域では熊本県都市計画審議会会長、熊本市住宅審議会会長などとして活躍。2021年逝去。主な著書に『マッキントッシュ入門』(共著,オーム社,1989年)、『建築都市計画のためのモデル分析の手法』(日本建築学会編,井上書院,1992)他。

村上祐治(むらかみ・ゆうじ)
東海大学 文理融合学部 人間情報工学科教授。1983年熊本大学工学部建築学科卒業。1985年修士課程修了。木島・両角研究室で建築・都市・コンピュータについて学ぶ。1985~1987年水澤工務店、1987~2003年構造計画研究所勤務。1997年熊本大学大学院博士課程修了。九州東海大学工学部建築学科助教授、東海大学基盤工学部電気電子情報工学科教授を経て、現職。博士(工学)。2013~14年建築情報教育小委員会主査。

本間里見(ほんま・りけん)
熊本大学大学院先端科学研究部都市地域計画分野教授。1990年早稲田大学理工学部建築学科卒業。1993年シュテーデルシューレ(国立フランクフルト美術大学)建築デザイン専攻科修了。ピータークック、エンリック・ミラーレスのスタジオで都市デザインを学ぶ。1993~1996年(株)バス勤務。1996~2003年熊本大学工学部環境システム工学科助手。2004~2015年熊本大学大学教育機能開発総合研究センター准教授。2016~熊本大学大学院先端科学研究部准教授を経て、現職。熊本市住宅審議会会長、NPO法人熊本まちづくり会長。博士(工学)。

種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。明治学院大学文学部非常勤講師。近現代日本建築史、図学。1982年東京都生まれ。2012年法政大学大学院博士課程修了。東洋大学助手、種田建築研究所等を経て現職。博士(工学)。一級建築士。著書に『立原道造の夢みた建築』ほか。日本建築学会情報システム技術委員会設計・生産の情報化小委員会建築情報学技術研究WG幹事、建築討論委員会戦後建築史小委員会主査。

池上宗樹(いけがみ・むねき)
東京都立大学客員研究員。株式会社FMシステム フェロー。一級建築士。1973年東京理科大学理学部Ⅰ部応用物理学科卒業。1980年東京理科大学工学部Ⅱ部工学部建築学科卒業。1991~96年東京理科大学非常勤講師。1996~98年熊本大学客員教授。1984~87年DRA-CAD開発参加(㈱構造システム)。1988~93年横浜ランドマークタワー設計参加(㈱バス)。建築情報学技術研究WG委員。

猪里孝司(いざと・たかし)
1980年大阪大学環境工学科入学、83年から3年間、川崎研・笹田研で都市・建築とコンピュータについて学ぶ。86年大成建設入社、CAD、CGの開発・運用に従事、93年 カリフォルニア大学バークレー校客員研究員。2012年から日本ファシリティマネジメント協会BIM・FM研究部会部会長を務めている。日本建築学会情報システム技術本委員会委員。

武田有左(たけだ・ありさ)
一級建築士事務所 +ANET lab.主宰。明星大学建築学部特任教授。1985年 東京芸術大学大学院 修了。三菱地所/三菱地所設計を経て現職。代表作に「代官山フォーラム」「二番町ガーデン」「石神井公園ふるさと文化館」ほか。著書に『設計者のための「建築3Dスケッチ」」(2000)、『建築CGシミュレーション術』(共著,1999)ほか。日本建築学会文化施設小委員会・設計方法小委員会・建築情報学技術研究WG委員。

長﨑大典(ながさき・だいすけ)
株式会社安井建築設計事務所大阪事務所企画部企画主幹。鹿児島大学工学部建築学科非常勤講師。1971年京都府生まれ鹿児島育ち。鹿児島大学大学院工学研究科建築学専攻修了後、㈱安井建築設計事務所入社。設計部、情報・プレゼンテーション部所属を経て現職。修士(工学)。一級建築士。認定FMer。建築情報学技術研究WG主査。

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建築と戦後
建築討論

戦後建築史小委員会 メンバー|種田元晴・ 青井哲人・橋本純・辻泰岳・市川紘司・石榑督和・佐藤美弥・浜田英明・石井翔大・砂川晴彦・本間智希・光永威彦