公営住宅 万華鏡

連載:連帯する個人:労働者・大衆の時代とその建築(その6)

Sumiko Ebara
建築討論
26 min readDec 24, 2023

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オープン・ハウス・フェスティヴァル
毎年9月、ロンドンではオープン・ハウス・フェスティヴァルという建物の公開イベントが開催される。近年、日本でも大阪・京都・神戸・広島・福岡・愛知などで同様のイベントが開催され、好評を博しているが、その先駆となったイベントだ。
2022年9月、私は、なるべく普段は公開されない一般住宅を中心に見学に参加した。そこで感じたのは、公営住宅の多様性と、そこで展開される住民の生活の豊かさだった。本連載最後となる今回は、イギリスの公営住宅について見てゆきたい。

ヴァンブルーフ・パーク・エステイト(Vanbrugh Park Estate, 1961–65, 設計はChamberlin, Powell and Bon)
Open HouseのChief Executive、Phineas Harper 氏のご自宅の居間。竣工時、石炭暖炉のあったところに薪ストーブを入れている。
高層棟と低層棟がある。低層棟の2階バルコニーは各戸の仕切りがない。

バウンダリー・エステイト(Boundary Estate)
第5回連載で紹介したアーサー・モリソンによる小説『ジェイゴーの子』には、舞台となったショーディッチ地区のオールド・ニコル通り界隈で、スラム・クリアランスが進行する様子も描かれていた。この再開発事業は、イギリスにおける最初の公営住宅建設事業であった。
19世紀の人口増加に対応するための多くの取り組みは、第3回連載で紹介したような工場主や民間開発業者、慈善団体による住宅供給事業であったが、19世紀末、ついに、公による労働者のための住宅供給が始められたのだった。バウンダリー・エステイトは一部戦災があったものの、現在も残っており、ロンドン・メトロポリタン・アーカイブズには図面も収蔵されている。
図面を閲覧した後に現地を訪れると、当たり前のことだが、図面と瓜二つの建物が建っていて、感動を覚えた。図面自体、美しく着彩された見応えのあるものであったが、目の前に現れた建物は、画一的な公営住宅のイメージと大きく異なり、アーツ・アンド・クラフツの趣もあり、随所に手仕事の温かさが感じられたからだ。第3回連載で取り上げた、工場村ポートサンライトやギネスによって建てられた労働者向けの愛らしい住宅に負けじと夢のあるデザインが目指されていたのかもしれない。バウンダリー・エステイトに続いて1897年から1902年にかけて建てられた同様のデザインのミルバンク・エステイトは、元は監獄のあった場所に建てられたものだが、各棟にターナーやロセッティ、ラスキンといった名前が付けられており、文化芸術を労働者に届けるという理想も感じられる。
バウンダリー・エステイトにはさまざまな住戸タイプがあったが、平均すると家賃は1部屋あたり週3シリング3ペンス ★1(例えば3寝室1居間、台所トイレ共用で、13シリング★2 )であり、多くは台所とトイレは共用であった。それでも、この家賃は以前のスラムの約倍であったという。そのため、元のスラムの住民は戻ってくることはできず、結果として、より上位の階層の人々によって元の住民がとって代わられる“ジェントリフィケーション”が進んだ。

バウンダリー・エステイト 図面はいずれもLondon Metropolitan Archives所蔵 ★3

バタシー地区のラッチメア・エステイト(Latchmere Estate)
それに対して、バタシー地区では、ジョン・バーンズ(John Burns, 1858–1943)という1889年のロンドン港湾の大規模ストライキのリーダーであった人物が1892年から自由党の国会議員として選出されていた。バーンズは、より即物的に、しかし、実質的に労働者の手に届く住宅として、ラッチメア・エステイトの建設を主導した。建てられた住宅の外見は2階建てのそっけない長屋である。だが、特筆すべきは、各戸に台所、トイレのみならず、浴槽付きの洗い場(Scullery)がついていたことだ。道路工事、給排水、電気工事は区の直営工事で、電灯も引かれていた★4。また、各戸には専用の玄関があり、1、2階住戸ともに裏庭へのアクセスがついている。これは、住戸たるべきもの、玄関と裏庭を持つことが重要という考えを反映したものであろう。
家賃は、1部屋あたり2シリング6ペンスで、バウンダリー・エステイトに比べても随分とお得であった。
ラッチメア・エステイトの通りには、リバティ、フリーダム、リフォームといった名前がつけられている。まさに、新しい労働者の時代の到来を感じさせる 。

左上:Freedom Street 右上:4軒分の各住戸への玄関
左下:2寝室1居間に水回りがついた住戸プラン。約59m2。家賃は1週7シリング6ペンス。上階の住戸(右図)からも直接庭に出る階段がついている。
右下2枚:Cornes & Haighton社製の浴槽と台所の調理台の熱源を同時に供給する装置 ★5

英雄たちに相応しい家?
しかし、ラッチメア・エステイトのような住宅は、優良な事例であって、同じような住宅がすぐに全国的に建てられたわけではない。
1914年、第一次世界大戦が勃発したが、従軍志願する人たちの健康状態が良くなく、労働者階級の住宅の改善が不可欠との声が軍隊の上層部の人たちからも上がったそうだ。そこで、第一次世界大戦後、首相のロイド・ジョージは、「英雄たちに相応しい家 Homes fit for Heroes」キャンペーンを張った。その結果、1919年には住宅および都市計画法(Housing and Town Planning Act, 1919)が制定され、住宅を供給することは国の責任、との認識で事業が進められることとなった。
この法律の根拠になったのは、ウェールズ出身の建築家で自由党の国会議員でもあったチューダー・ウォルタース(Tudor Walters, 1866–1933)が1918年に提出した報告書で、その主な執筆者は、レイモンド・アンウィン(Raymond Unwin, 1863–1940)であった。アンウィンはJ.ラスキンやW.モリスの思想に傾倒し、ハムステッド・ガーデン・サバーブやレッチワースの住宅地の設計を行った人物である。
チューダー・ウォルタース報告書において、必要最低限の住宅の型として示されたのは、3寝室1居間とトイレ・浴槽付き洗い場を持つ2階建ての住宅であった。
しかし、実際には予算不足により、ロイド・ジョージは3年以内で50万戸を建設することを掲げたにもかかわらず、21万3千戸の供給に終わった ★6。しかも住宅地には必ず併設すべき小学校や、商店、公民館なども十分に建設することもできなかった。ロンドン郊外のビーコントリー・エステイト(Becontree Estate)を見ると、通りの形状には円形や馬蹄形などのバリエーションがあるが、ひたすら、2階建長屋が連続する様子は、画一的と言わざるを得ない。これらの住宅の多くの壁は中空壁(Cavity wall)となっているが、中に断熱材は入っておらず、エネルギー効率もよくない。王立建築家協会(R.I.B.A.)は、1919年から1939年の両大戦間期に建てられた「英雄たちに相応しい家」はエネルギー効率をより良くするための改修が必要であるとした報告書を2022年に提出している★7 。

EPW024283 ENGLAND (1928). Housing surrounding Lindisfarne Road, Becontree, from the north-west, 1928. ★8

サマーズ・タウン(Somers Town)の住宅群
“英雄のための住居”を建てることも十分にできないほどに財政は苦しい。戦間期はそんなものだろう、といえばそうかもしれない。ロンドンの中心部では、いまだスラムも存在していた。そんな時に、よくぞ頑張ったと思わされた事例が、セント・パンクラス駅や大英図書館にも程近いサマーズ・タウン(Somers Town)の公営住宅だ。
1927年から31年にかけて建設されたオサルストン・エステイト(Ossulston Estate)は、ロンドン・カウンティ・カウンシルの公営住宅であったが、表現主義的なデザインが随所に見られる。この公営住宅は、ウィーンで第一次世界大戦後に社会民主党のヤコプ・ロイマン市長によって建設が主導されたカール・マルクス・ホフなどの労働者のための集合住宅団地に触発されたもので、時代の先頭を行く建築家たちの手で自由闊達な表現に装飾的な要素も取り入れて実現されたものだった 。カール・マルクス・ホフは長大な壁のような建築で、大きな中庭を持ち、1934年にオーストロ・ファシズムのドルフス政権による労働者弾圧の際には、要塞と化した★9。実は、オサルストン・エステイトも航空写真を見ると、一朝事ある時には労働者たちが籠城する場所になり得たと思われる形状をしている。しかし、イギリスでは、ウィンストン・チャーチルらによって、それまでのドイツ宥和政策に対する批判が高まり、ファシズム政権とは訣別したので、そのようなことは起こらなかった。

オサルストン・エステイト (左上:Google Map 航空写真より)

挙国一致内閣とべヴァリッジ報告書
そして、イギリスは、第二次世界大戦が始まると、1940年5月10日からの約5年間はチャーチルを首相、労働党クレメント・アトリーを副首相とする挙国一致内閣となった。この間、1942年11月には戦後イギリスの社会保障政策の基盤となるウィリアム・べヴァリッジ(William Beveridge,1897–1963)による報告書(「社会保険と関連サービス」)が提出された。
この報告書は、国家が国民の最低限の生活を守るため、完全雇用の実現、国民皆保険および医療費の無料化、そして公営住宅の建設が提案しており、メディアでも歓迎の意をもって大きく取り上げられた、世論調査では90%以上もの人々が賛成したそうだ ★10。また、戦地にいる兵士にも配布され、兵士たちは自分たちが何のために戦っているか、戦後に何を求めるかを知り、大いに士気を向上させたとのことである ★11。
べヴァリッジはオックスフォード大学卒業後、ロンドンの貧民街でトインビー・ホールのセツルメント運動に携わり、フェビアン協会のウェッブ夫妻とも近しく活動した人物だった。自由党支持者で、1944年には自由党の国会議員に選出された。自由党は20世紀に入り力を次第に失っていたが、保守党・労働党の挙国一致内閣にとって戦争遂行上、極めて有効となった政策は、自由党支持者により起草されたこととなる。
本連載でも何回か触れているJ.オーウェルは、『ウィガン波止場への道』(1937年)で「良識ある人ならだれでも、世界的な体制として、また誠実に適用されるならば、社会主義がひとつの手段であることを知っている」として、「社会主義はきわめて初歩的な常識」と述べていた。べヴァリッジ報告書はまさに、社会保障を“社会の常識”として実現する道筋を示したものであり、それゆえ党派を超えて、多くの人々の支持を獲得したと言えよう。
1945年5月、ドイツの降伏に伴って挙国一致内閣が解消され、同年7月の総選挙で、労働党が過半数を大きく超える議席を得て圧勝した。労働党単独のアトリー内閣が誕生したことで、べヴァリッジ報告書がいよいよ実現に向けて動き出すこととなった。

アトリー内閣とアナイリン・べヴァン
アトリー内閣で保健・住宅大臣に就任したのは、閣内最年少のアナイリン・べヴァン(Aneurin Bevan, 1897–1960)であった。ベヴァンは労働党内でも最左派に属し、時にアトリー攻撃の先頭に立つこともあったが、鋭い論客として有能と見られていた。医師会をおさえ、1948年に医療の国有化・無償化を実現し、国民健康サービス(National Health Service: NHS)を設立させた。そして、公営住宅の建設にも取り組んだ。
実は、イギリスでは第二次世界大戦の終戦前、1944年7月にダッドリー卿を委員長とした委員会において、『住宅のデザイン』★12 と題した報告書(ダッドリー報告書)がまとめられていた。委員会が発足したのは1942年3月20日で、ベヴァリッジ報告書が提出されるより前であった。委員は19名中7名が女性であった。
ダッドリー報告書は、先のチューダー・ウォルタース報告書を批判的に見なおし、次の3点を主な問題点として挙げた(第25節)。

1) 供給された住居タイプの多様性が欠如していたこと
2) 住居が手狭で現代の生活様式に合わないこと
3) 外部物置が不十分で粗末、かつ配置が悪かったこと

1)の住居タイプに関しては、大家族、老人、子供のいない夫婦、独身者にも対応する住居の必要性を述べた(第26節)。2)の住居の広さについては、戦間期に建てられた住居は750から850sq/ft(約70から79㎡)であったが、少なくとも900sq/ft(約84㎡)は必要との見解を示した(第48節)。そして3)の外部物置(outbuildings)は自転車置き場や、ガーデニングの道具をしまっておく物置などで、70sq/ft(6.5㎡)は最低限必要だと述べた(第54,55節)。この外部物置については、なんと言おうか、実にイギリス的である。しかし、この点を強調していることから、いかに庭がイギリス人にとって重要かを改めて感じさせられる。
そして、保健・住宅大臣のべヴァンは、これらの提案に留保をつけたりせず、むしろ積極的に提案の実現に取り組み、その結果1949年には、住居の広さの平均は3寝室タイプで1,055sq/ft(98㎡)にまでなった ★13。
また、住居タイプのバリエーションについても、べヴァンはそれまで低所得者向けのみの公営住宅を供給して来たことを批判し、所得の違う人々を分離するのは、文明という視点からしてもまったくもって良くないことだと述べた。そして、人々を分離隔離するから画一的になるのであって、公営住宅も、より所得の高い人向けのものを供給すべきだとした★14 。
ダッドリー報告書をもとにした『ハウジング・マニュアル』(1944年)★15には、住戸タイプとして老人向けには平屋を供給する一方で、高層住宅でも2階分を有するメゾネットタイプが提案されていた。また、住棟配置は必ず共用庭を持つよう複数の案が提示され、敷地に古木がある場合には、それを残した住棟配置まで指南されていた。
私がイギリスのことを調べていていつも驚くのは、「戦中」にこんな生活改善のことを考えていたことだ。同じ1944年には都市農村計画法で歴史的建造物のリスト化を自治体に任意で求めた。戦後の復興を見据えて、さかんに戦災建物の記録を写真および絵画で進めることで、芸術家たちの雇用を確保したりもしていた。

左:中央の図がメゾネットタイプの平面計画 右:古木を残す住棟配置
いずれもHousing Manual, 1944より

公営住宅 万華鏡
実際に建てられた公営住宅について、その変遷をつぶさに説明しながら見てゆきたいのだが、紙面が足りないし、また私はそれをするには力不足だ。そのため、本稿においては、写真アルバム的に、建設開始年順にいくつかの公営住宅を紹介してゆきたい。

・チャーチル・ガーデーンズ・エステイト(Churchill Gardens Estate,1946–62)
まず、ご紹介するのは、第二次世界大戦を戦い抜いたチャーチルの名前を冠した集合住宅。一見、画一的に見えるが、3,5,7,9,11階建の建物があり、メゾネットの住棟も多い。各棟にはチョーサー、クーリッジ、キーツ、シェリーなど文学者の名前がついている。

チャーチル・ガーデーンズ・エステイト

・クレメント・アトリー・エステイト(Clement Attlee Estate, 1955)
次は戦後、政権を取ったアトリーの名前を冠したメゾネット・タイプの高層アパート。腰壁は、色違いのタイルで模様が作られている。

クレメント・アトリー・エステイト

・パーク・ヒル(Park Hill, Sheffield, 1957–61)
イギリス中北部のシェフィールドの集合住宅。ピーターとアリソン・スミッソン夫妻が設計したロビンフッド・ガーデンズ(Robinhood Gardens)は数年前に惜しまれつつ解体されたが、こちらのパーク・ヒルは設計事務所のアーバン・スプラッシュ(Urban Splash)によって改修が進行中で、リ・ブランディングが成功し、活力を取り戻しつつある。

パーク・ヒル

・エセルバーガ・エステイト(Ethelburga Estate, 1963–65)
高層棟と低層棟のミックス。高層棟はメゾネット。エレベーターは1階おきにしか止まらない。

エセルバーガ・エステイト
中:廊下は2層吹き抜けとなっている 右:エレベーターは1階おきのボタンしかない

・ドウソンズ・ハイツ(Dawson’s Heights, 1964–72)
ロンドンの南、ダリッジにある公営住宅。サザーク区の設計コンペで若干26歳のケイト・マッキントッシュ(Kate Mackintosh, 1937-)が勝ち取った。エレベーターは3階毎にしか止まらない。そのエレベーターが止まる廊下階に、1寝室、2寝室、3寝室、4寝室の各住戸への玄関が集められている。さまざまな家族構成の住民が顔を合わせることを重視した。複雑に飛び出たバルコニーは建設費の観点から難色を示されたが、避難に必要だと説得して実現した。

ドウソンズ・ハイツ
左:中庭を囲んで2棟が並ぶ。部屋やバルコニーが複雑に出ている 中:3階毎に廊下階がある 右:廊下階の様子。

・テームズ・ミード(Thamesmead, 1968–74)
第4回連載で紹介したクロスネス(下水処理場)へ行く途中に遭遇した巨大集合住宅。人造池の周りに高層棟と低層棟が立ち並ぶ。映画「時計仕掛けのオレンジ」が撮影された。当時は殺伐とした雰囲気だったのかもしれない。近くにエリザベス・ラインの終着駅アビー・ウッド駅ができ、現在は、一部、19世紀設立の住宅供給団体ピーボディ・トラストにより建て替え事業が進む。

テームズ・ミード、右写真はピーボディ・トラストによる再開発棟

・サウスウィック・エステイト(Southwyck Estate, 1972–81)
ブリクストン駅の近く。城壁のような建物が目に止まり、近づいてみると、公営住宅だった。ブリクストン・バリアー(Brixton Barrier) とも呼ばれるそうだ。この壁の内側には庭付きの平屋住戸が並んでいて驚いた。

サウスウィック・エステイト

・トルマーズ・スクエア(Tolmers Square, 1970年代)
マルコム・マッキューイン著・藤井正一郎・河原一郎訳『建築の危機 Crisis in Architecture』(原著1974年,翻訳1976年)に取り上げられており、訪れた。ユーストン駅のすぐそば。19世紀に建てられた住宅地の高層事務所ビルへの建替え計画が起こった時、住民やジャーナリストが協力して、建設事業を請負ってくれる業者を探し、住宅の建設事業を行ったあと、土地を無償でカムデン区に提供し、公営住宅として供給された。

トルマーズ・スクエア

・ハイゲート・ニュータウン(Highgate New Town, 1972–79)
オープン・ハウス・フェスティヴァルの際に3層住戸を見学させてもらった。最上階の1寝室の住戸への階段はやや大袈裟に見えるが、各戸に専用の玄関を作る鉄則に従った結果である。カムデン区ではシドニー・クック(Sydney Cook,1910–79)率いる建築課により、低層棟のみで高密度の公営住宅建設が試みられた ★16。この集合住宅の設計はハンガリーのブタペスト出身のピーター・タボーリ(Peter Tábori, 1940–2023)。

ハイゲート・ニュータウン

・ブランチ・ヒル・エステイト(Branch Hill Estate, 1974–78)
高級住宅地ハムステッド・ガーデン・サバーブの一角にあり、建設にあたって階級闘争が勃発したとも言われる。ハイゲイト・ニュータウンと同じくカムデン区の公営住宅で、設計はベンソン&フォーサイス(Gordon Benson,1944- and Alan Forsyth,1944-)。斜面に沿って二戸一のメゾネット住居が規則的に並んでいる。各戸に中庭や屋上テラスがあり、計画時は、イングランドでもっとも建設費のかかる公営住宅と批判された。現在はGrade II 登録建造物となっている。

ブランチ・ヒル・エステイト

ちなみに、ブランチ・ヒル・エステイトは別名スピーダン・クロース(Spedan Close)という。第2回連載で取り上げたあのジョン・ルイス百貨店でワーカーズ・コープ体制を築いたジョン・スピーダン・ルイス(John Spedan Lewis)の名前を取った小道に接するからだ。ルイス一家はブランチ・ヒル・エステイトのすぐ隣に住居を構えていたのだった(その住宅は非現存)。
ロンドンはそこらじゅうに記憶を繋ぐ糸が張り巡らされていることを思い知らされた。

おわりに
大衆のさまざまなライフ・スタイル、ライフ・ステージに応じた住居を提供するのはそう簡単なことではない。しかし、イギリスの公営住宅は、決してその目標を諦めていなかったように私には感じられた。とにかく大量の住宅を供給することが急務であった時期から、十分なオープンスペースの確保と住戸の多様性を求め、さらによりよい住環境を目指して低層高密度の集合住宅が試みられて来たことが見て取れた。
チャーチルは「民主主義は最悪の政治形態だ。他に試みられたあらゆる形態を除けば。」と述べた。民主主義は面倒だ。ジャーナリストの池上彰が述べるように「ひとりひとりが賢明にならなければ、民主主義はうまくゆかない」のも確かである。
これを建築の世界で考えれば、どんな建築も、ひとつずつ、「これは民主主義の世の中にふさわしい建物か? 国民一人一人の幸福を実現する建物か?」と問いなおしながら設計をするということになろう。限られた予算で、より広く、より多様性に富んだ住宅を豊かなオープンスペースとともに供給するという課題は、難しいものだった。しかし、それは、建築家たちにとっても、やりがいを喚起するものであったと、多くの公営住宅に関する著作を出しているジョン・ボートンは評価している ★17。
現在、イギリスの公営住宅は、サッチャー政権時にはじまった公営住宅払い下げ政策(Right to Buy)により、一部は分譲されている。公営住宅の家賃で入居している人と、持ち家として入居している人が混ざって生活しているのみならず、持ち家の人から部屋を借りて入居している人もいる。同じ集合住宅内で家賃が大きく異なることが問題視されてもいるが★18 、これにより、住民の多様性はさらに広がっているとも言える。各エステイトで管理組合を作り、維持保全計画を立てて運営していくのは並大抵のことではないだろう。だが、その面倒くささを通して、異なる価値観を持つ個人がいかに協力/連帯するかを、学ばされているのではないか。
そして、実をいえば、それは面倒くさいだけではなく、楽しそうでもあった。冒頭で紹介したヴァンブルーフ・パーク・エステイトでは複数の住宅が公開されていたが、イベントを通して近所付き合いのネットワークが形成されているようだった。(1軒のお宅はオープン・ハウスには参加していなかったが、ウチも見て行く? と、見学の一団を招じ入れさえしてくれた。)イギリスにおいては、公営住宅が労働者・大衆一人一人の“夢”とコミュニティを育む場として、成熟しつつあると感じた。

6回に渡り、連載の貴重な機会を与えていただきありがとうございました。また、これまでお読みいただきました皆様に心より御礼申し上げます。

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★1 James Cornes, “Modern Housing in Town and Country”, 1905, London, p. 3.
★2 3シリング3ペンス ×4部屋=13シリング(1シリング=12ペンス)
上掲 Cornes(1905)p. 49によれば、バタシー地区の労働者の平均賃金は、大工・レンガ積工・石工の場合、時給10.5ペンスで、1週48時間労働であったとのことであった。つまり、週給42シリングとなり、家賃は給与の1/3程度であったということになる。
★3 図面はすべてLondon Metropolitan Archives 所蔵, 筆者撮影LCC/AR/HS/03/006/120, LCC/AR/HS/03/006/131, LCC/AR/HS/03/006/139
★4 James Cornes, “Modern Housing in Town and Country”, 1905, London, p. 47.
★5 下段の写真はJames Cornes, “Modern Housing in Town and Country”, 1905, London, p.46, 50, 51.
★6 UK Parliament, “Council Housing”, (2023年12月13日閲覧)
★7 RIBA report “Homes for Heroes”, 2022 にて閲覧可能(2023年12月21日閲覧)
★8 https://britainfromabove.org.uk/cy/image/EPW024283 (2023年12月21日閲覧)
★9 松葉一清『集合住宅 — 20世紀のユートピア』ちくま新書, 2016年, p. 95, 98.
★10 宇沢弘文『経済学は人びとを幸福にできるか』, 2013年, 東洋経済新報社, p. 48.
★11 河合秀和『クレメント・アトリー チャーチルを破った男』, 中央公論新社2020年, 序章 — 人民の平和
★12 Central Housing Advisory Committee, “Design of Dwellings”, 1944. London: HMSO にて閲覧可能 (2023年12月18日閲覧)
★13 John Boughton, “Municipal Dreams”, 2018, London, p. 94.
★14 1945年10月17日のべヴァンの答弁 (2023年12月18日閲覧)
★15 Ministry of Health, “Housing Manual”, 1944, London: HMSO, p. 46, 82.にて閲覧可能(2023年12月18日閲覧)
★16 Mark Swenarton, “Cook’s Camden — The Making of Modern Housing”, 2017, London: Lunt Humphries.
★17 John Boughton, “A History of Council Housing in 100 Estates”, London: RIBA Publishing, 2023, p. 109.
★18 Mail Online, Council rent £74 a week, private rent £280 a week… why social housing is ripe for reform. 2010年11月1日付(2023年12月20日閲覧)

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Sumiko Ebara
建築討論

えばら・すみこ/建築史・建築保存論。千葉大学大学院工学研究院准教授。著書『身近なところからはじめる建築保存』、『原爆ドームー物産陳列館から広島平和記念碑へ』