建築をイメージする身体 — 大村高広インタビュー(インタビュアー:藤倉麻子)

073│2024.05–07│特集:建築のイメージ/言葉

Taichi Sunayama
建築討論
36 min readJun 13, 2024

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特集:建築のイメージ/言葉

対談企画の意図

特集「建築のイメージ/言葉」の2つ目の企画は、建築家であり理論研究者でもある大村高広さんのインタビューです。建築設計行為における幾何学性に起点にしつつ都市や郊外、後背地における建築の今日的な必然性を検討する大村さんに、共同制作するアーティスト+建築家ユニットのパートナー藤倉麻子さんからインタビューいただきます。建築が単なる物理的存在にとどまらず、社会的・文化的メッセージを伝える手段としてどのように機能するのかを考えます。(砂山)

建築をイメージする身体

大村高広インタビュー
──インタビュアー:藤倉麻子
(文:
藤倉麻子、大村高広)

道具に埋め込まれた直観

──藤倉:前回のインタビューでは終盤に、生成AIを使った共同作品《Trans-prompt》(2023年)の話をしました。スイッチということで、後半はこの話題からインタビューをはじめたいと思います。さっそくですが今後、生成AIが建築の設計をどう変えると思いますか。また、生成AIを使った表現や制作をしていくとしたら、どういうことがしたいですか。

大村:砂山太一さんが巻頭言で書いておられるように、長期的に見れば、建築の様々な作業・技術を生成AIが代替していくことは十分に考えられるし、おそらく現実にそうなっていくんじゃないかと思います。とはいえ建築家というのは、様々な価値判断を瞬時に下し、自らの意思で「決定」していくことを事とする職業です。だからこそ、「責任をともなう決定」をおこなう建築家という主体性が、生成AIの登場によってどのように変容しうるかという点こそが、いま議論すべきことなのでしょう。私は人工知能については専門でもなんでもないので、あくまで建築の専門家として所感を述べるならば、生成AIがたんなる道具である限り、決定・決断する主体としての人間の役割は延命されるのではと思います。しかし、もしも人工知能が自律的に考える主体性を獲得してしまえば、状況は変わってくる。何らかの仕方で人工知能が決定の責任をもつ、という仕組みが可能になるかもしれない(人工知能の決定によってなんらかの財産上の損失が生じた場合、それをカバーする保険のような仕組みさえあればいいわけですから……)。

──藤倉: 生成AIがあくまで「道具」にとどまるか、あるいはAI独自の主体性が確立することで建築家という職能そのものが変わってしまうか……その瀬戸際にあるということでしょうか。

大村:私は建築における幾何学性に注目して建築設計のプロセスを考えるような研究をしています。持論ですが、幾何学は建築にとって原始的な生成AIなのではないか、と思っている(笑)。小坂森中建築の《武蔵野の戸建》(東京都、2019年)のレビュー※1や、岩波書店の『思想 2024年1月号』で磯崎新について書いた論考※2など、過去に書いたいくつかのテキストでも言及してますが、たとえばプラトンの『メノン』には、ソクラテスが召使の少年を呼び出して、正方形の倍積の原理を伝える有名な一説があります。ある正方形の一辺の長さとその倍のおおきさの正方形の一辺の長さは整数比をもちませんから、数学的な教養のない少年にとっては難しい問題です。そこでソクラテスは、地面に線を書いて、田の字型に分割されたおおきな正方形の辺の中心同士を結ぶと45度回転した新たな正方形が現れることを少年に示します。少年は地面に残されたかたちを観察し、回転した正方形の面積が、ちいさな正方形のちょうど倍になることを発見する。

大村:最終的には消されてしまう補助線を通して、1:√2という(自然数では表現不可能な)比例関係を感覚的に理解し、少年は実際にそれを描画できるようになる。いわば「通約不可能性の直観」です。ここでの知識の獲得や形態やサイズの発展は、少年が創造したものでもなければ、ソクラテスが一方的に教授したものでもない、ということが重要です。むしろ、仮設された幾何学図形の物性によって引き出されたわけです。ベルナール・スティグレールはこの『メノン』の一節に注目し、ここでは「砂に線を引く」という行為が無自覚・無批判に導入されていると指摘します3。図形を描く行為、そしてそれを可能にしている条件を、プラトンはあたかも自明のものとしてまったく問題視していないけれども、実際には図を描く際の道具──砂と棒──は必要不可欠だろう、と。私もその通りだと思う。

──藤倉:道具を用いた思考の外在化が、生成AIと通じるところがある、と。

大村:痕跡を残すための砂があり、棒という手の延長となる道具があって、補助線という幾何学図形が描かれる。知識・技術を引き出したのは、ソクラテスと少年の「あいだ」にある、この一連の装置と動作のプロセスです。こうした関係が、現在の人間と生成AIの関係と、根本的に異なるものとは思えません。そもそも幾何学は、人間が頭だけで考えてもわからないような抽象的な記号操作を、人間の身体の限界を超えて実行することができる手続きだと思うんですね。先ほどの『メノン』的な状況は建築の設計プロセスではよくあることなんです。図形や規則、形式をとりあえず敷地に置いてみて、サイズを与え、そこに機能をあてはめたり、家具を置いてみたりして、試行錯誤する。すると次第に、種々雑多な条件との折り合いをつけるなかで、設計者が思いもよらぬ仕方で、ある形式性へと到達する。こうした設計プロセスが、生成AIの登場によって単に自動化されてしまうのか、あるいは別の対話的創造の可能性へと発展するのか、といったことは注目に値する。

──藤倉:道具には固有の直観が埋め込まれていますよね。例えばコンパスによって引き出される描画の連鎖は、定規によって引き出される線の構築性とは異なっている。あくまで道具として生成AIを扱う際には、各々の分野で、生成AIを用いたときに引き出される固有の直観を追求すべきなんだろう、と思います。

イメージ=仮想的身体運動

──藤倉:では、いずれ人工知能が自律した主体性を獲得した場合はどうなると考えますか。

大村:次の段階としては、人工知能が身体あるいは身体性を獲得できるか、ということになるんだと思います。人工知能の身体性について議論する際に私がすごく面白いなと思っているのは、人工知能研究者の月本洋さんが提唱している「仮想的身体運動」論です。月本さんによれば、1990年代に入り脳の非侵襲計測(PET、fMRT、MEG等)が進んだ結果、人がイメージ(想像)するときに活性化している脳の部位と、実際にその活動をする際に活性化する脳の部位が基本的に同じである、ということが実験的に確認されたそうなんです。単純化すると、「積み木をしている」ときに使っている脳の部位と、「積み木を見ている」ときあるいは「積み木について想像している」ときに使っている脳の部位は、基本的に一緒だと。ここから月本さんは、身体を動かす神経系が実際の身体運動をともなわずに活動することを「仮想的身体運動」と位置づける。イメージもまた身体運動なんだ、というわけです4。

──藤倉: たいへん面白いですね。たとえばダンスを見て興奮するときには、身体を動かす感覚運動回路が脳で働いて、仮想的に自分もダンスしているんだ、ということかな。実際に身体が動いてしまうこともありますよね。音楽を聞く際にも、たとえば楽器をやったことがある場合とない場合では、演奏を聞いたときの感覚があきらかに違いますよね。

大村:「犬」という線画もしくは音がもたらすのは、目の前に犬がいない場合は、眼球等の仮想的な身体運動になるわけです。ですから、犬という線画もしくは音の「意味」は、仮想的身体運動によって引き出される諸々のイメージ、ということになる。これは私たちに身体があるからこそ可能になる意味の構築・生成の仕方だと思います。だからこそ仮想的身体運動論は、人工知能の身体性を捉えるうえで重要な議論になる。身体運動と想像(仮想的身体運動)の違いは、少なくとも神経活動的には、「フィードバック」の有無でしかないわけですね。たとえばホットコーヒーが入ったマグカップを持つとき、適度な重みと温かさを感じます。こうした皮膚や筋肉、内臓からのフィードバックがあるからこそ、私は実際にマグカップをもっているんだと確信できる。

──藤倉:フィードバックがあれば実際に知覚しているということだし、逆になければ想像(イメージ)だと。

大村:たとえば事故や病気で身体の部位が失われても、失われた部位を動かす神経系は破損していないから、当該部位の仮想的身体運動は可能です。このとき、存在しない部位を運動させようとする神経系の活動が、(皮膚や筋肉などからのフィードバックの欠如によって)痛みを生じさせる場合があります。幻肢痛と呼ばれるものですね。しかし、そもそもその部位は存在していないので、この痛みを治療するのは難しい。有名な話ですが、米国の神経科学者・ラマチャンドランは鏡を用いたフィードバックの調整によって幻肢痛を軽減させました(幻肢をもたらす神経系の活動に対して、錯覚による視覚的フィードバックを与えることで、治療のためのアクセシビリティをもたらしたわけです)。

建築をイメージする身体

大村:例えば「重さ」を言語的に正確に表現することは非常に難しい。しかしこれまでの議論を踏まえれば、「重い」が意味するのは、「重い」という線画/音が指示あるいは喚起させる仮想的身体運動であると理解できる。「重い」によって引き起こされる漠然とした感覚は、過去に石やダンベル、机、風船、皿、など無数の事物を実際に持ち上げたときの体験によって獲得された感覚に基づいている。建築に引き寄せて考えてみると、「この建築は重々しい」というときには、(実際に建物を持ち上げたことのある人はおそらくほとんどいないので)、重量のあるオブジェクトを持ち上げる際に使う感覚運動回路を仮想的に動かさなければいけない。もちろん、日常生活を送る際に毎日行っている行為など、習熟した行為はそうしたイメージを介さずに行う場合が多いと思いますが(たとえば四則演算などは、習熟時はモノを使ってイメージを定着させながら記号操作を学ぶわけですが、習熟後はイメージなしにある程度の記号操作は可能になりますよね)、なにか新しい状況に出会った際には、過去の経験を用いて対応しようとする。

──藤倉:人工知能に身体がないということは、「想像すること」の不可能性を意味するのではないか、と。

大村:私たちにとって「想像可能性」と「記号操作可能性」のあいだには大きな乖離が存在します。身体があるとその2つは明確に違う。例えば、7角形、8角形。9角形、10角形……と図形の角を増やしていくと、徐々にその像が想像できなくなっていく。1000角形と1001角形は、記号操作は可能だし、明瞭な差があるわけですよね。しかし、一人称的な理解ではおそらくまったく差がありません。1000角形と1001角形は、一人称的視点=内部観測に基づく限りは意味がない。対して三人称的視点=外部観測に基づくと意味があるのです。
同様の問題は他にもあります。たとえば「自─他」「質─量」「全体─部分」「統一─分裂」といったカテゴリー対がありますね。これらは建築を構想する上でも、あるいは経験するうえでも重要なものですが、身体(主体性)がある限り、これらの概念の把握・了解にはつねに「方向」が生じている(このあたりの私の認識は、精神病理学を専門とされている安永浩さんの考え方に依拠しています)。たとえば「自」と「他」は一見平等に見えるんですが、この種のカテゴリー把握において、これらは決して可換的・平等な対立ではありません。必ず、「自」が先行する。「自」は、直接体験的に「わかる」と感じられる。そして「自」の把握は、同時に「自でないもの」の把握も可能にする。そしてこの「自でないもの」を「他」と名づけるわけです。「自─他」という対概念は、経験のレベルでは必ず「自→他」という方向がある。非対称なんですね。私たちは「純粋な他」を思い浮かべることはできない。他はつねに「自でないもの」として感知される。その意味で自は、私たちにとって「他でない、という以上の何ものか」5 となる。
このカテゴリー把握における一方向的な力動的緊張関係は、あまり言及されることはないけれど、実際には現実の諸秩序や論理関係等を発生させる基盤になっている。建築に関係するものとしては「全体─部分」がありますが、これに関しても、実存的に先行するのは「全体→部分」という方向性のはずです。私たちがある「机」を認識するとき、ある対象をひとまとまりの「全体」として把握しているわけですが、このときあらゆる「部分」について知っている必要はない(机の脚や天板の裏を見なくとも、机の把握は可能である)。部分(たとえば机の脚)は全体(机という対象)に対して、つねに不特定多数の関係にある。逆に、机の脚をみて机を想起するという換喩的な経験は、机という全体の措定なしには成立しえない。全体は常に、部分の総和以上のものであり、そして同時に、部分から想起されうる全体もまた不確定に分裂・拡散しうる(全体はそのつど新しく掴み直される)。

──藤倉:身体をもたない人工知能は「想像可能性」と「記号操作可能性」の差が判断できないのではないか。そして、カテゴリー対における方向性も、持ち得ないのではないか。

大村:その限りにおいて、自らの有限性に基づいて決定する主体としての建築家の役割は残ると思います。

──藤倉: 生きること、この体験構造そのもののなかに、身体性と主体性が避け難く食い込んでいる、ということでもありますね。これは《Fixing Garden》(2022年-)の制作過程でも大事にしていたことでした。前回も少しお話しましたが、このプロジェクトでは、庭の制作および改修の前段階として、自然の風景や人工環境のなかで「庭のような状況」が見出される場面をリサーチしました。具体的には、①南国の風景(石垣島)、②火山島特有の風景(青森県下北半島)、③郊外の風景(関東エリアの湾岸部、郊外の工業地帯、住宅地の自然環境)を対象に調査をおこない、「庭のような状況」を感じられた瞬間を写真に記録し、事後的に分析・議論・分類をおこなうことで、人間が「庭」を見出す際の原理のようなものを反省的かつ仮説的に見出そうとした。

《Fixing Garden》(藤倉麻子+大村高広、2022年-)
《Fixing Garden》全体平面図

大村:あたかも自分たちの身体を環境に対するリトマス試験紙のようなものとして扱って、あくまで身体がキャッチした感覚から制作のヒントを得ようとしていました。

──藤倉: このときのリサーチでは、「達成・充足」(fulfillment)、「あの木立」(the oneness)、「2あるいは3」(2 or 3)、「石」(stonev)、「消失」(blind curve)、「速度ベンチ」(speed bench)、「物見塀」(watchwall)、戸(entrance)などのキーワードを得ました。

リサーチで得た8つの「庭のような状況」のパタン

大村:これだけだと意味がわからないと思うのですが(笑)、たとえば「達成・充足」(fulfillment)は、「その方向をみると、四角窓の枠が完璧に役割を果たし、こちらが力を抜いて臨むことができるような、満ちた状態で木立の「前」にいること、が、すなわち「中」にいることと言えるような、私が私を忘れることの可能性。コンテナが積まれた駐車場、あの巨大な砂まみれのほぼ壁のようなものが立ち上がったとき、その両端、また物流倉庫が適切に蛇行する道の要所にあり役割を果たすとき、また街灯がその下に独立した入口を作るとき、「手前」が消え去って、fillが持ち上がりあたりに満ちる。見るべきものがなにもない。」と説明している。このとき私たちは、(私たちの)身体なしには説明できないようなイメージと言葉の関係を、どうにか記録できないかと考えていたのだと思います。生成AIを使えば簡単に画像やテキストが生成できるけれど、「想像すること」(仮想的身体運動)は人間の重要な能力として手放してはいけないと思う。

— 藤倉:想像力は、たとえば、痛みや恐れを他者と共感するために重要ですよね。

大村:そうですね。なにかを判断する際の倫理感も、仮想的な身体運動なしには生じないのかもしれない。その状態では、人工知能を自律的に運用するというのは難しいですよね。

— 藤倉:たしかに、以前生成AIがつくった生物の皮膚と人工物が混ざったような画像を見たとき、私は倫理的にまずいな、と思い少し忌避感を感じるということがありました。

大村:改めて、人工知能が自律的に思考できるかという問いは、これまでの議論を引き受けるならば、「イメージ」(すなわち仮想的身体運動)と記号表現(図や音)を統合できるか、ということになると思う。感覚・運動を担当する回路(プログラム)をイメージの生成へと流用しつつ、それが言語処理に寄与すること、そうしたフィードバック・ループをつくること。

— 藤倉:必ずしも人工知能の身体は人間の身体を模倣しなくてもいい、という可能性もありますよね。

大村:その通りだと思う。生成AIの登場は建築や都市の創造過程を自動化する「コミュニケーションの全面化・実体化」によって世界を書き換えるかもしれない。ともすればディストピア的です。人工知能がもたらすものに希望があるとすれば、個人的には、「あらゆるものが身体になりうる」ことです。たとえばそれは、柱や穴、あるいは花や昆虫といった「人間でないもの」と人間が交流する時間と空間が、いつかかならず訪れること、そうした未来の可能性を信じることでもある。

建築を経験すること──反復する身体について

── 藤倉:建築を経験する際にも、やはり身体運動(と仮想的身体運動?)が鍵になってくるんでしょうか。

大村:たとえば建築物の「厚み」を把握するためには、隣接する室Aと室Bの「表面」をじっくりとみて、その位置関係を十分に認識したうえで、両者(室Aの表面と室Bの表面)の位相的なずれをイメージする必要がでてくる(これはコーリン・ロウが「虚の透明性」という言葉をあてた経験のカテゴリーですね)。つまり、知覚(身体運動)と記憶(仮想的身体運動)、その両者が連帯するときにはじめて「建築」が我々のなかに現象する。別の例を考えてみましょう。ある建築を経験するさいに、A-B-C-D-Eという経路があるとする。その建築を何度も経験していれば、Cを過ぎた先のDにいるとき、このまま歩いていていけばEに到達するだろうという予想は当然可能だし、それができなければ日常生活に支障をきたします。この予想を可能としているのは、仮想的な建築の一望性を私たちが想像できているからにほかならない。現にいま知覚しているDという空間と同時に、いまは知覚することができないA、B、C、Eという空間を頭のなかで立ち上げ、そこに構造を与える(知覚している空間と記憶のなかの空間を串刺しにする)ことを、私たちは無意識のうちにおこなっています。建築はその構造上つねに部分的にしか経験できませんから。
私は、建築家の専門性というのは、何千、何万回反復した先の知覚を具体的に想像できる力をもっていることだと思うんですね。ある家の住人が10年間その家で生活したあとに立ち上がるであろう知覚、経験の手触りを、たとえばオープンハウスにいったときに瞬時に把握し、想像し、批評をおこなうことができる「眼」をもつこと。その想像力を設計に組み込む能力をもっていること。想像=イメージが仮想的身体運動だとすると、建築家の専門性は、仮想的に建築を経験する際に、初めて体験する身体を想定したり、逆にその建築に慣れきった身体を想定したりと、身体のモードを切り替える能力にあると考えられるかもしれない。

── 藤倉:建築家が建築を前にしてタイムトラベルしている姿を想像すると面白いです。

大村:たしかに(笑)。そもそも建築物の特徴というのは、丈夫で、長持ちするということですね。当たり前なんですが、これはとても大切なことです。だからこそ、建築を構成する要素の数々は一定のリズムで何度も何度も繰り返し経験される対象となるのだし、結果として宿命的な「慣れ」がそこにもたらされる。たとえば住宅のドアノブは、一度デザインされるとそれが何万回、あるいは何十万回と繰り返し使用される可能性が高いものです。しかし、「ドアノブをひねる」ということをわざわざ意識しながら生活しているひとは少ないですよね。建築と人間の接触は、たいていは無意識のうちに遂行される。
けっきょくのところ私は、建築空間が生(活)の地=環境になり意識から退隠した状態を前提にして、構築的なアイデアが練られている建築物に惹かれるのだと思います。たとえば住み始めてから10年後、ふとした瞬間にその家とみずみずしく出会い直せるような、そんな知覚の生成変化を実現しうるディテールは考えられるだろうか、ということなどを、普段自分で設計をおこなうときは考える。無意識のうちにドアノブをひねり、無意識のうちに窓を開け、無意識のうちに壁に横たわる習慣化した人間の身体を相手どること。それは途方もなく難しいことですが、建物を組み立てるうえでとてつもなく重要なことだと思う。これは学部生のときに坂本一成さんの「環境としての建物と対象としての建物」という考えに出会い大きな感銘を受けてから、ずっと大切にしていることです。
最近のプロジェクトを紹介すると、ktkaさんと共同した《上大岡の衝立》(神奈川県、2022年)があります。神奈川県横浜市の上大岡駅に近い木造(一部鉄骨造)2階建ての、路面に面した36㎡ほどの一室を改装して、プライベートヘアサロンを計画しました。このときはインテリアの改修といいつつファサードの一部もつくれたので、インテリアとファサードを同じようなウェイトで、似たようなものとして扱えないかということで、「衝立=スクリーン」(仮設的で穴の空いた仕切り)という単位を使って全体を構成しました。

《上大岡の衝立》(大村高広+ktka、2022年)
Photo: Takahiro Ohmura
ファサード(左)と鏡・タイル(右)
サインはグラフィックデザイナーの本庄浩剛氏による
Photo: Takahiro Ohmura

大村:衝立の仕上げをおこなう施工者は意図的にバラバラにしていて、たとえばファサードの衝立は看板屋さんによって仕上げられているので非常に精度が高い(もっとも典型的な看板下地である溶融亜鉛めっき鋼板を用いています)。内部の鏡は大工が施工していますが、白いタイルは施主と施主の友人らで仕上げたので、けっこう荒々しい。精密さの度合いが異なる諸部位が同居していて、それらが鏡を通して同時に見えるようになっています。長時間着座し、視覚が固定されるような状況で、被施術者の視線や意識を泳がせつつ、気が散ってぼーっとすることを許容するような環境をいかに構築できるか、ということを考えていました。

── 藤倉:「反復の先にある知覚や想起」に対して、どれくらいの可能性を用意できるか、ということが設計の鍵になっているということですね。先ほどまでの話ともつながることだと思います。

都市と郊外の同時性

── 藤倉:前回のインタビューでは触れることができませんでしたが、わたしたちが共同した最初のプロジェクトとして、私が企画した「手前の崖のバンプール」がありますね。最近は物流やロジスティクスの問題についても論じていると思うので、このあたりについてもお聞きしたいです。

大村:物流については以前から強い興味があったのですが、明確に意識し始めたのは「手前の崖のバンプール」のためのリサーチに関わるようになってからですね。展示自体は2022年5月の実施で、展示のための準備はこの年の春くらいに集中しておこなっていました。

── 藤倉:「手前の崖のバンプール」は物流・労働・対岸をテーマにした自主制作の展覧会で、「物流型展覧会」と銘打ったものでした。問題意識としてあったのは、港湾の整備とコンテナによる物流網が(その重要性に比して)私たちの日常生活からあまりにも遠いところにある、ということでした。身近にある不透明な風景を、物語的な想像力と語りの複数性によって可視化できないか、と考えていた。

《手前の崖のバンプール》(東京湾、2022年)
Photo: Takuto Ota

大村:リサーチでは車で東京湾の埠頭を全部まわったりしましたけど、基本的に、陸からは埠頭の港にアクセスできないんですよね。「埠頭内は関係者以外立入禁止」。なので、陸路で埠頭にアクセスすることは諦めて、海路で埠頭の風景に対面することにチャレンジした。展示の構造としては、「チケット」として参加者には事前に材木を送付し、この材木を所定の目的地まで運輸することを指示しました。材木にはQRコードが掲載されていて、参加者はこの情報を手がかりに出発地点(青海埠頭の船着き場)に集合し、小型船舶に乗り込んで、青海コンテナ埠頭、大井埠頭といった物流拠点を約45分かけて巡ります。この一連の流れをダンスでガイドしたのがAokidさんで(ガイド・ダンス、略してガイダンスという役割とした)、Aokidさんには参加者を先導しながら、風景のリズムやスケールを身体を通して捉え、記録し、観客に開示しつつ、ときに共同して船上で踊る、という非常に重要な役目を担っていただきました。目的地に到着すると、徒歩1分の通関業者の道具場まで移動し、海上からの風景とも連動した藤倉の映像作品を鑑賞する。この道具場は実際に港湾の労働者の方も使用する場で、その隙間に作品が置かれているという状況でした。物流のリアルな現場とフィクショナルな想像力が──労働的な行為を媒介に──仮設的にすれ違う、ということを目指していた。私は当初は会場構成ということだったんだけど、あれよあれよというまに「なんでも屋」的な感じで関わるようになり、最終的には航行ルートの詳細設計、プレスリリースの作成、通関業者との交渉、道具場の設営、什器のデザイン・制作、リーフレットのデザイン・制作、角材チケットの制作と郵送などを担当しました。準備も佳境の際、あなたは新作の映像作品等をいくつも作りながら(悪阻のため)一日中吐いているという状況だったので、できるだけ可能なことは自分が引き受けようと思い取り組みました。

── 藤倉:企画そのものが前例のないものだったのに、人手を十分にアレンジする余裕もなかったので、あなたには本当に苦労をかけました、ありがとうございます。建築家とはすごい能力者だと思ったものです。

大村:建築家の特徴のひとつとして、良くも悪くも「オールマイティー」であることがあるのだと思います。このときはそれが良い方向に働いたような気がします。もちろん、グラフィックはグラフィックデザイナーがやるのが良いし、什器は家具職人が作るほうが良いに決まってるんです。とはいえ、夫婦間や他業種との共同をおこなう際に、他者のケアやサポートをおこなう「何でも屋」としてオールマイティーさが役に立つこともあるのだな、と希望をもったことを覚えています。

── 藤倉:それと、この企画で高いハードルだったのは、船を使うということと実際の労働の現場を展示室にするということ、この2点でしたね。

大村:とくに、DIY的な展示企画ですから、展示を許可してくれる実際の業者を探すのがかなり大変でした。協力してくれた通関業者(東海海運さん)がいたことは奇跡的でしたね。

── 藤倉:埠頭付近にあって、Googleマップに名前が出ている物流関係の企業に片っ端からメールを送り、唯一好意的なお返事をいただけた業者さんでした。参加者に「運ばれていること」を自覚させ、気がつくと港湾の労働の現場に迷い込んでしまうような状況をつくりたかったので、この展示はこうするしかなかった、と今でも思います。「コンテナになる」(コンテナという「振り付け」を経験する)ことで、参加者は匿名化・不可視化された労働を仮設的に演じ、経済論的な知識でも、俯瞰的なイメージでもなく、生きられた経験として港湾の風景と出会う、ということを意識していました。また同じことをやれと言われても、難しいと思う(笑)。

大村:なぜ無理をして海上移動とアクチュアルな労働現場での展示をやったのか。これはロジスティクスへの批判的介入をする上での必然性があったわけだけれど、当時の私たちが考えていたことを、少し振り返ってみます。
もともとロジスティクスという語は、「計算(技術)」を意味するギリシャ語に起源をもちますが、この語が「計算通りに物事を運ぶ合理性を組織的に実現する」といったことを意味しはじめる近代的な起源のひとつは、19世紀初頭のナポレオン戦争です。さらに、19世紀から20世紀にかけて、戦争が産業化・機械化されたこの時期に、とりわけ燃料の戦略的運搬・配分=ロジスティクス(すなわち採取地から戦場への惑星規模での物資の円滑な移動性の確保)が軍事的にもっとも重要な課題のひとつとなった。ロジスティクスは物流の用語(経済用語)である以前に、軍事用語だったわけです。ロジスティクスの次の画期としてしばしば指摘されるのは、やはり戦争(ベトナム戦争)をきっかけとして展開した、1960–70年代のいわゆる「コンテナ革命」です。

品川埠頭のコンテナヤード
Photo: Takahiro Ohmura

大村:コンテナは、二重の意味で重要な影響力をもっていた。ひとつは荷役の機械化で、これによって海と陸という、これまで分断されていた物流形態を連続的で摩擦のないものにした。これは港湾の荷役労働に関連する労働者たちにとっておおきな脅威となりました。物流に関わる労働の自動化・無人化がおおきく拡張したわけですが、現在では情報技術やロボティクスと結びつくことで、コンテナヤード全体が無人化しています。次に重要なことは、サプライチェーンです。サプライチェーンは国家を超えた企業間の受発注・納品の供給連鎖のことで、これによって特定の生産工程を人件費の安い国でおこなうなど、低賃金労働の「輸出」がもたらされた。要するに、ある場所では失業者が増加し、ある場所では低賃金労働者が増加したわけです。結果、工業・港湾用地として造成された港湾部の埋立地には突如として大量の空き倉庫が生まれ、工場の撤退などの状況がもたらされた。都市港湾部は従来の物資の集積地としての役割を変え、むしろ「通り過ぎる空間」となり、対照的に、倉庫的な労働は内陸部へと浸透し、ドライ・ポート=内陸港の開発に結実する。こうした事態が、前回の話にも出た1969年の新全総等が推し進めた臨海型の大規模工業基地の都心部から辺境への移転や70年代の第四次中東戦争がもたらした石油危機以降の重厚長大産業の衰退などと相まって、ウォーターフロントの商業開発やタワーマンションの林立をもたらします(東京の佃島、天王洲、お台場、汐留、葛西、横浜市の横浜みなとみらい、千葉の幕張新都心など)。

── 藤倉:このとき発生した「空き倉庫」は現代美術のオルタナティブな展示空間にも転じていくわけですね。日本に限らず、YBAsに代表される世界の都市部の若手アーティストの活動の背景にも、こうした港湾部の抜本的な構造の変化があった。しかし、こうした歴史的な経緯とそれがもたらした現在の状況への反省・批判がないかぎり、都市部の「アクセス可能」な埋立地や倉庫でどれだけかっこいい展示をしても、虚しく思えてしまう。

大村:港湾で役目を失った赤レンガ倉庫が審美的なものとして消費の対象となったからといって、倉庫的な労働が消えたわけではない。むしろ内陸に拡大している。たとえば現在の横浜は魅力的だけど、あの魅力的な場所は同時に、(あなたの原風景でもある)埼玉の工業団地の均質な風景もつくっている。その同時性を考えたい、というのが私たちのスタンスですね。私たちが郊外や後背地の風景と同時に都市港湾部に注目し、それらをつなぐインフラ=ロジスティクスにことさら注目するのは、このあたりに必然性があるんだと思います。

── 藤倉:だからこそ「手前の崖のバンプール」では海からのアクセスを重視したり、消費の対象となっていない労働の現場を展示室として転用することにこだわった。たぶんそのあたりの狙いが全然伝わっていなくて、あと自主企画というのもあり、告知をお願いしていた現代美術系のメディアなどには全然とりあってもらえなかった。唯一告知してくれたのは「日本物流新聞」さんでした(笑)。そんななかで展示後、中島水緒さんに詳細なレビューを書いていただけたのは本当にありがたかったですね※6。

囲い込み、壁、ロジスティクス

── 藤倉:ロジスティクスの問題は、現在のガザ地区での極めて深刻な人道危機を考える上でも重要です。イスラエル/パレスチナ問題に関して、佐藤熊弥さん(tandem)と一緒に勉強会を企画していましたね。

大村:佐藤さんによる勉強会シリーズ「毎日新しく世界を知るものとして」の第一回目を私が担当することになり、ラシード・ハーリディー『パレスチナ戦争 入植者植民地主義と抵抗の百年史』鈴木啓之・山本健介・金城美幸訳(法政大学出版局、2023年)、北川眞也『アンチ・ジオポリティクス: 資本と国家に抗う移動の地理学』(青土社、2024年)、ゲーリー・フィールズ『囲い込み──歴史の鏡に映るパレスチナの風景』(University of California Press、2016年)などを補助線に、「囲い込み、壁、ロジスティクス」というタイトルでイスラエル/パレスチナ問題を考える勉強会を企画しました。最近、勉強会の議事録やレジュメなどを公開するためのサイトをつくったので、ぜひ確認してみてください7。個人的には、パレスチナについて考えることなしに、これから建築や都市を考えていくことは不可能だと思っています。

── 藤倉:イスラエル/パレスチナ問題の根底には、壁やフェンスの建設やロジスティクスといった、建築や都市を維持・運営するための諸技術が、暴力の手段として使用されてきたという現実があります。

大村:そうです。基本的にパレスチナの近現代史は、先住者の意図に反して郷土を他民族に明け渡すよう強制する、植民地戦争の系譜に位置づけられます。イスラエル/パレスチナ問題は、端的に土地と資源の収奪を狙った植民地支配と、それに対する先住民・パレスチナ人による独立紛争です(宗教戦争ではない)。と同時に、外部勢力の多大な支援を受けてきた「シオニズム運動」という非常に特殊な事業の結果でもある。ハーリディーは、イスラエル/パレスチナ問題をめぐる6つの転換点(パレスチナ人への「宣戦布告」)を指摘しています。具体的には、1917年〜1939年(バルフォア宣言とイギリスによる委任統治)、1947年〜1948年(大災厄=ナクバ)、1967年(第三次中東戦争)、1982年(レバノン侵攻)、1987年〜1995年(第一次インティファーダ&ハマース組織〜オスロ合意)、2000年〜2014年(パレスチナの分裂)。イスラエルの植民地主義は、①「囲い込み」(土地収奪の正当化)、②「壁」(物理的な境界の建設)、③「ロジスティクス」(物資供給のコントロール)というかたちで進展してきた、というのが私の見立てです。

イスラエル/パレスチナ問題の見取り図(作成:大村)

── 藤倉:地理学者の北川眞也さんは、ほんらい「摩擦のない流通空間」を生産する技術であるはずのロジスティクスが、イスラエルによって「敵の土地に計画的かつ組織的に摩擦だらけの空間を生産し、他に選択肢がない状況で敵の住民をいっさいのサプライチェーンから切り離す」ために使用されていることを指摘しています※8。

大村:北川さんの研究は建築や都市の視点からイスラエル/パレスチナ問題を考える上で非常に示唆に富むものです。そもそも、1967年の第三次中東戦争でイスラエルは、先制攻撃によってエジプト・シリア・ヨルダンの空軍を瞬く間に壊滅させて、その後の電撃戦でアラブ諸国に圧倒的な勝利をおさめ、パレスチナ(ヨルダン川西側地区・ガザ地区)を軍事占拠したわけです。国連の調停(国連決議242号)によって停戦したものの、イスラエルが占領地を大幅に拡張したことに変わりはなかった(イスラエルが西岸及びガザからの撤退要求に応じなかったからです)。その後長い間、ガザ地区はイスラエル経済にとっての安価な労働力の供給源となりました。オスロ合意(1993年)以降イスラエル軍はガザ地区から撤退するわけですが、その代わりに、あらゆる物資の供給を遮断することによる外部からの徹底的な管理がおこなわれた。すなわち、軍事力による内部からの占領ではなく、ロジスティクスによる外部からの占領が行われたのです。とりわけ2006年のハマース統治後、イスラエルはガザを本格的に封鎖し、輸出は完全にストップし、燃料の供給を絶ちます。「天井のない監獄」と化したガザに、イスラエルは2008年、2012年、2014年に地上と空から激しい攻撃を加えました。そして2023年10月7日のハマースによる大規模攻撃以降、イスラエルによるガザへの激しい軍事行動によって、おびただしい数の民間人が亡くなっています。
イスラエルとパレスチナのあいだには、著しい力の不均衡があります。そのなかで、壁やフェンスの建設、そしてロジスティクスといった技術が、植民地主義という暴力を実行する装置として働いている。こうした事態に対して、建築家は沈黙してはいけないと思います。建築家は、日々の業務で引く無数の線に対して、そしてそれがもたらす確定しえない未来に対して、愚直に責任を取ろうとする存在だと私は信じているからです。
イスラエル/パレスチナ問題は、民族的権利を含む諸権利の完全な平等に基づく以外、解決する道はないはずです。そして両者に著しい力の不均衡が存在している以上、多くの中東の専門家がそう言うように、イスラエル人自身によるイスラエル社会の変革以外に現状を変える道はおそらくありません。この状況を心から変えたいと願うイスラエル人やその支持者を動かすために、遠く離れた私たちができることは、断固とした批判の道筋を複数的な仕方で構築することです。単一のロジックでの批判では、現状を変えられない。あらゆる角度から批判の道筋を組み立て、開示しなければいけない。そのために、各人がこの問題を各々の仕方で引き受け、個々の関心や専門性がパレスチナの問題と交差しうる一点を見つけ、考え、記述し、発信していくことが不可欠だろうと思います。

  1. https://kskmrnk.tumblr.com/post/674058497508442112/%E6%B9%BF%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%B9%BE%E4%BD%95%E5%AD%A6-%E5%A4%A7%E6%9D%91%E9%AB%98%E5%BA%83
  2. 大村高広「重力と歴史──新宿ホワイトハウスの歪んだ立方体」、『思想 2024 年 1 月号』、岩波書店、96–114頁。
  3. ベルナール・スティグレール『偶有からの哲学』浅井幸夫訳、新評論、2009年、66頁。
  4. 月本洋・上原泉『想像 心と身体の接点』、ナカニシヤ出版、2003年、5頁。
  5. 安永浩『ファントム空間論』、金剛出版、2014年、31頁。
  6. https://bijutsutecho.com/magazine/review/25763
  7. https://tandemstudy.com/
  8. 北川眞也『アンチ・ジオポリティクス: 資本と国家に抗う移動の地理学』、青土社、2024年、285頁。

▲プロフィール

大村高広/Takahiro Ohmura
1991年生まれ。建築設計・批評。博士(工学)。Office of Ohmura(OoO)主宰。2023年より茨城大学助教。建築設計、研究、批評・執筆活動、芸術作品の制作を通して、都市化以降の──郊外での、あるいは後背地での──生の持続を支え励ます共同の可能性と、そこでの建築の新たな必然性の位置を検討している。
近年の主な仕事に、「新宿ホワイトハウスの庭」(改修、2021年)、「手前の崖のバンプール」(構成・美術、2022年)、「上大岡の衝立」(改修、2022年)などがある。「倉賀野駅前の別棟」(齋藤直紀と共同)でSDレビュー2019入選・奨励賞。
https://www.tkhrohmr.com/

藤倉麻子/Asako Fujikura
1992年生まれ。アーティスト。都市・郊外を横断的に整備するインフラストラクチャーや、それらに付属する風景の奥行きに注目し、主に3DCGアニメーションの手法を用いた作品を制作している。2016年、東京外国語大学ペルシア語専攻卒業。2018年、東京藝術大学大学院メディア映像専攻修了。
近年の主な個展・プロジェクトに、「手前の崖のバンプール」(東京湾、2022年)、「Paradise for Free」(Calm&Punk Gallery、東京、2021年)など。近年の参加グループ展には、「都市にひそむミエナイモノ展」(SusHi Tech Square、東京、2023–4年)、「MOTアニュアル2023 シナジー、創造と生成のあいだ」(東京都現代美術館、 東京、2023年)[Unexistence Gallery(原田郁/平田尚也/藤倉麻子/やんツー)として参加]、「エナジー・イン・ルーラル [展覧会第二期]」(国際芸術センター青森、青森、2023年)、などがある。
https://www.afujikura.com/

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Taichi Sunayama
建築討論

Architect/Artist/Programmer // Co-Founder SUNAKI Inc. // Associate Professor, Kyoto City University of Arts, Art Theory. //