建築と「聖なるもの」

連載:建築の贈与論(その5)

中村駿介
建築討論
28 min readSep 29, 2022

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はじめに

文化財保存の業界では、国宝や重要文化財といった古建築を修理する際に、古材転用の原則がある(「古材保存」)。例えば根元が腐った柱は、根継という形で一部の部材のみを取替え、破損していない瓦は新しい瓦と混ざるように再利用する。また時には建物自体を移築し、全体を保存する。このように古い部材を残す修理手法は、木造建築の保存における特質の一つである。

こうした古材を大切にする考えは、部材の再利用という経済的な意味の他に、精神的な意味がある。修理後の建築は新しい部材が混じる分、まったくの本物ではないはずであるが、我々は修理後も古建築を本物と認識する。それは元から建築の一部であった古材が、建築のオリジナリティを担保する要素として認識されているからだろう。

こうした古材や古建築の価値を考えた時に、モーリス・ゴドリエが発見した「聖なるもの(貴重品)」の概念が、一つのヒントになる。マルセル・モースの『贈与論』を受けて、フランスの人類学者であるモーリス・ゴドリエはその著書『贈与の謎』★1において、モースの二つ目の問い〈贈り物を受けとった時に返報を義務付ける力〉について、贈り手の人格とモノを結びつける関係の力こそが、返礼を義務付ける力への答えであるという。そして、さらに贈与できない保持すべきものに対して分析を進めた結果、真に重要となるのが「聖なるもの」(またその代わりとなる「貴重品」)であったとする。

今回の第5回では、モース以後の贈与論研究のなかでも重要な「聖なるもの」について、ゴドリエの視角に導かれ、人類学的な関心に建築史学の側から応えてみたい。建築やその部材は「聖なるもの」と成り得るのだろうか。そして、建築が「聖なるもの」となる時の建築保存の論理について考えてみたい。

モーリス・ゴドリエ『贈与の謎』の「聖なるもの」

まずは、ゴドリエの議論を整理し、「聖なるもの」(またその代わりとなる「貴重品」)の機能や特徴、また贈与社会の発生条件などを概観する。

ゴドリエは、アネット・ワイナーの譲渡できないモノを手掛かりに★2、モースが見落とした第四の義務(神々への贈与)を分析する。そのなかで、富がすべて交換されないという事実から★3、神々への贈与物は、贈与できるものと、贈与されずに保持されるものに分類でき、権力は保持されるモノを持つ人にあったと結論付ける★4。

そして、物に《聖》性を付与するのは何か、《聖物》とは何かと問う。結論から言えば、聖物は記号や単なる象徴以の以前のものであり、有益な効力を譲渡(分与)するような力を持ち、社会の利用に役立てられるものであった。とくに、聖物の中に存在する神々や祖先から贈られた力は、社会を再生産する力をもつ。

この聖物の代替品となったのが、贈与とポトラッチの社会で力を付与する能力を持ち、その象徴であるもの(貴重品)であったとする。貴重品には⒜現実の人間の代りであること、⒝神や霊・先祖などの想像上の存在に由来する力がその中に現存するという証拠、⒞量や質によって、所有者が相互に値打ちを測り上下関係を作れるもの、という三つの機能を充足しているという。

さらに貴重品は、この機能に含まれる人間とモノとの関係の融合・転換のメカニズムに役立つ3つの特徴(⑴日々の生活行動では無用なもの。⑵日常生活からの分離する抽象性。⑶それを使用する社会の文化的、象徴的宇宙で定義される意味での美)を一定数備えているという。中でも特に、三つめの特徴である美はその他二つの機能の支柱であり、極論すれば、美しくなくても古くさえあればよく、この時に貴重品は、聖物がそうした傾向をもつように《一にして不可分》となるという。

そして、交易物が祖先や神々に通じる自己の起源・アイデンティティを証明するものとなった時、交易物は流通しなくなる。交易物は社会の重要な場所に固定され、人々が常に立ち戻る場所になる(≒聖物・貴重品になる)のである。こうした貴重品を用いた交易が行なわれる贈与社会の発現する時期は、社会的な階層間で流動的な変化がある時と指摘している。聖なるものとは、いわば、力を持つ人間の想像上の分身を示すものであった。

建築は聖なるものになり得るか

ゴドリエの言う貴重品の〈機能〉と〈特徴〉は、殆どの古建築・文化財に適用できるといってもよい。特に宗教建築や民家においては、⒜については一概に当て嵌めることはできないものの、⒝想像上の存在(神、自然の霊、先祖)に由来する力がその中に現存するという証拠、⒞量と質によって所有者が上下関係を作れること、の二つの〈機能〉を満たすとことが分かる。

さらに、貴重品が備える、日常から切り離された抽象的で美しいものという〈特徴〉は、現代では民衆の日常から切り離された宗教建築や、前近代での機能を果し終えた民家が備えている。たとえば、神社や寺院が日常生活のなかで道具のように使用されることはないが、その一方で、現代住宅や倉庫などは現実的な機能の元に使用される建築である。したがって、貴重品となりうる建築として、ひとまず宗教建築や民家を設定できるだろう。

また、貴重品の特徴の支柱となる美については、部材と部材が組み合わされる建築の全体を考えた時に、建築が分解すると価値の失われる《一にして不可分》なものになっていることは容易に理解できる。それでは、貴重品としての古建築とそれを構成する古材の価値について、建築史の議論を元に考えてみよう。

建築における聖なるもの

木造建築で古材に価値が見いだされた時、古材は保存(転用)される。その最たるものが建物全体を保存(転用)する移築であろう。藤井恵介氏らは、木造建築の保存の最たるものが移築であるとし、移築に関する研究会で幾つかの重要な論攷をまとめている。そこでは、⑴移築事例の収集、⑵移築事情の解明、⑶移築の技術的な課題の解明、⑷移築という行為の意味の解明の4点を目的に、古代から近代まで、多岐にわたる建築類型を幅広く扱っている。

たとえば、伊勢神宮は20年ごとに建て替えられ(式年遷宮)、この時に解体された旧社殿から排出された古材は、周辺の神社などに拝戴される。角田真弓氏は、伊勢神宮の古材転用について分析し★5、古殿として建ち続けていた時点では拝啓の対象であるが、解体され古材となると「朽木」と呼ばれるようになる。つまり、社殿という具体的な形状が失われることにより「聖なるもの」への認識が変化し、解体された時点で神聖であるという認識は失われるというのである。

また、室町時代の春日大社では、本殿に祀ってある神体を移殿と呼ばれる建築に移す「下遷宮」の後、解体された社殿は春日社に務めている社司たちに分配される。その際、旧社殿の移築先は社司たちが決めるのであるが、重要な点は、移築されただけでなく売られる場合があること、もう一つは解体した際の古材にも値段がつくということであるという★6。古材となった建築は売却され、他の建築の一部となるようである。

以上の二つの事例から、転用された部材が社会的に重要視されることはなく、ひとまず古材自体が貴重品としての役割を果たすことはないとわかる。なお、中世における闕所処分の際に、古材を売却する行為には、穢れを祓う(≒払う)意味を見出す可能性も指摘されており、神社の古材でも売ったという行為が聖性を破棄した可能性もある★7。

ところで、角田氏は、近代に入って伊勢神宮からの下賜や、熱田神宮のように伊勢神宮の社殿形態の模倣が多くなるという指摘している。古殿として建ち続けている間は拝啓の対象であったという点からも、社殿形式(意匠)を重視したといえる。むしろ、貴重品が持つという《一にして不可分》な美は、建築の〈形式〉に対して有効な考え方であったと分かる。さらに、仏教・神道などの宗教が再編された近世近代の移行期に、このような現象が多くみられたことが重要である★8。ゴドリエは贈与社会の歴史的推移を知ることが必要であると説き、贈与社会が消滅した理由が階層の固定化であったことを歴史的推移の分析を元に明らかにしている★9。これによるならば、贈与が頻繁に行われるのは、階層が流動的になる社会に限られるはずで、近世近代にかけての伊勢神宮の下賜や模倣をめぐる現象は贈与社会の現われた一部と考えられる。次に、移築が行なわれる時期について考えてみよう。

移築が行われる時期について

藤井恵介氏は、移築の種類に関して、⑴時代性を伴うもの、⑵天皇や将軍などからの恒常的な下賜、⑶近代の財界人や文化財保護の3つに大別する。なかでも、⑴大移築時代として、大規模な移築が行われる3つの時代を挙げている。まず都城の移転に際して多くの移築が行われた古代、次に秀吉による聚楽第や豊国社などがある中近世移行期、最後に城郭の破却や廃仏毀釈による寺社の移築があった近世近代以降期である。古代については不明であるが、茶器の名物が流行する戦国期を中心とする中近世移行期も、身分制度が廃止される近世から近代へ変わる移行期も、社会階層が流動的になる時代であった。

なお、贈与論で考えると、⑵の下賜は社会的身分が上の者が建築を贈与することで、社会を再生産するための行為といっても過言ではないだろう。とくに、先の角田氏が言及する伊勢神宮の下賜の増加や、形式模倣が行なわれるようになる近代は、社会階層が流動的となる時代であった。社殿の下賜の背景には、恒常的な贈与社会があったと考えられる。

それでは、⑶の公的な貴重品とする文化財は元より、近代の財界人による移築には如何なる意味があったのか。近代における移築や古建築の保存が移築や古建築の保存が贈与論の俎上に乗るか、検討を進めよう。

原三渓の古物趣味

中村琢巳氏は、近代の東都財界人の個人邸宅へ移築された建築についての種類と、移築の手法に関して簡潔にまとめている★10。たとえば、茶室は歴史上の茶人に由来するものを、オリジナルを尊重しつつ移築し、一方で、神社仏閣は奈良・京都、鎌倉の寺院の環境を日本庭園の立地風景を創出するように移築する。また、民家における大黒柱や囲炉裏などの部材の移築は、愛郷の念をおこさせる装置としての要素を維持する効果があるという。

表1 代表的な東都財界人の出自(中村琢巳「邸宅へ配された古建築の類型と移築再生の手法」を元に筆者作成)

こうした前提のもと、ゴドリエに倣い、建築の移築をしていた東都財界人の出自を確認したところ、いずれも地方出身者であったことが分かる(表1)。たとえば、薬師寺や浅草寺などの古材で内部を構成する城山荘を作った三井高棟八郎衛門は京都の出身であり、大掃雲台を作った益田鈍翁は佐渡相川の出身であった。江戸を基盤とした都市社会では、社会階層をあげるために、貴重品の存在が必要だったように考えられるのである。

なかでも代表的な移築先として、原三渓が作った三渓園がある。三渓園に移築された古建築は、由緒を持つ古建築の古材の一部のみを用いたものなどがあり、古物趣味の延長とも捉えられるものであったが、三渓園の初期に移された建築を挙げるとそれ以上の価値観があったことが分かる(表2)。

表2.初期の三渓園に移築された建築(三溪園保勝会編『三溪園 : 100周年 : 原三溪の描いた風景』神奈川新聞、2006年を元に筆者作成)

まず、明治37年に移された旧天瑞寺寿塔覆堂は、天正19年(1591)の墨書をもつ大徳寺内の天授堂である。豊臣秀吉が大政所の長寿を祈って建てさせたもので、明治36年の「美術品買入覚」には1100円で購入したとの記述があるという。その後、天授院(鎌倉心平寺地蔵堂)や、聚楽第の遺構と言われた臨春閣などが移される★11。興味深いのは多くの建築が京都、それも豊臣氏所縁のものであったことである。こうした豊臣所縁の建築は意図して集められたと当時の記事で言われている。たとえば、『美術之日本』の松栢山人「三渓園の大師会」によれば、大正12年4月21・22日、聴秋閣の移築をもって三渓園完成のお披露目を兼ね、財政界人らが集い美術品を披露し合う大師会の第二回が三渓園で開かれた★12。臨春閣の展観席で行われた第一席では桃山の史料を陳列し、「何れも太閤の偉略」、「淀君の嬌艶」を物語るものであったという。この大茶会で巡った席は桃山時代の遺構が多く、原三渓の趣味を表している。

こうした豊臣氏所縁の建築を集めた背景には、明治元年に明治天皇が出した豊国神社再興の詔勅があると思われる。豊国神社の再興は、豊臣秀吉の権威を復活させることで、江戸幕府の権威を貶める意図があったと言われるように、この近代という時代において豊臣氏には特別な価値がつけられていた★13。つまり、豊臣氏所縁の桃山趣味の建築は、明治政府によって改めて価値付けされた意味を有していたと分かる。こうしてみると、原三渓による豊臣所縁の建築の収集は、明治政府が価値付けた貴重品(建築)を有するという意図があり、これら豊臣所縁の建築を披露(≒視覚的に贈与)することで、茶人仲間に一目置かれるという効力を発揮していたように思える。したがって、近代の財界人による移築事例から、近代でも建築が貴重品になり得たことが分かる。

ただし、臨春閣が移築前の原形から庭園に合うように大きく変更されたことなどを踏まえると、由緒と貴重性の担保となるのは、建築の形式以上に古材であったといえる。この点、この時期と社会の移築が、茶人社会における古物趣味の延長にあることが分かる。

三渓園の開放と打ち壊し回避

なお、明治39年に原富太郎は三渓園を一般に開放する。これは原三渓が当初から抱いていた構想と考えられている。庭園を一般に対して開放(≒視覚的に贈与)する行為は、資本を社会に還元する行為といえるが、こうした動きは昭和7年に三井の理事長団琢磨が暗殺された後に頻繁に確認できるようになる。たとえば、岩崎家が東京駒込の六義園を公園として東京市に寄付したのは昭和13年のことであった。

桜井英治氏は『贈与の歴史学』のなかで、室町時代における土倉・酒屋などの金融業者に債務破棄を求めた徳政一揆(土一揆)は、民衆に対する直接的贈与を求めた運動と位置付けている★14。こうした意味で、近代の財界人の公園開放や文化財の寄附は、打ち壊しや暗殺を防ぐための民衆に対する贈与であったといえる。原三渓と三渓園が現在でも多くの横浜民に親しまれるのは、貴重品としての古建築を所有するだけでなく、大衆にいち早く開放(≒視覚的に贈与)していたからだろう。

その後、昭和34年に移築された旧矢箆原家と、昭和57年に移築された旧燈明寺本堂の移築目的は文化財保護を目的としたものであった。ともに原三渓が関わったものではないが、移築の目的は茶会という社会に対するものから、文化財保護という公的な社会に対するものへと移り変わったのである。文化財保護とは、特定の社会における貴重品を維持し、民衆に公開するという点で、贈与に類するといえよう。

さて、社会階層が流動的になる時代に移築が多く行なわれたことはほぼ明らかであろう。古建築の移築や保存を贈与論から分析し・整理するには、更なる詳細な検討が必要であるため又の機会とし、ここでは最後に建築保存について贈与論を元に思索する方向へと舵をきる。

建築を「貴重品」とするのは誰か

贈与論で物が「貴重品」となるには、⒜現実の人間の代りであること、⒝想像上の存在(神、自然の霊、先祖)に由来する力がその中に現存するという証拠があること、そして、⒜⒝の前提として⒞”社会的な美”をもつという特徴が最も重要であった。建築を「貴重品」として保存を考えた時、⒞の社会的な美が最も重要である。それは、建築を美とする社会が、建築に関わる人毎に様々な視点から規定されるからである。

住人をはじめとし、設計者や施工者、はたまた近所に住む隣人や訪れる観光客など、いずれも彼らの社会毎に建築の魅力を感じている。三渓園での美は、茶人という文化社会で発生したものであり、文化財の価値は国や地方自治体によって決められる。さらにいえば、古い民家はそこに住んだ住人にとっての美であり、谷中銀座や伊勢のおかげ横丁のようなノスタルジーを感じる町並みは住人や観光客にとっての美があるだろう。つまり、建築の美と貴重性は、建築に関わる人たちの社会毎に異なっている。

昨今の建築保存論

こうした社会毎の美は保存や活用の手法と結びつくだろう。こうした社会毎の美は保存や活用の手法と結びつくだろう。世界遺産登録には、基礎的必要条件となるオーセンティシティという概念がある。これは、①意匠、②材料、③技術、④環境という四種を設定し、この項目が保持されていることを重視する考え方である。たとえば、移築はこの内の②材料、④環境の二つの変更であると藤井氏によって指摘されている。これは逆を言えば、変更できない建築の形式(①意匠)とその作られ方(③技術)、これが建築の貴重性(聖性)の担保になっているともいえるだろう。

先の式年遷宮による建て替えからも分かるように、材料に聖性を宿す力があるのではなく、社殿の建築としての形式が重要であった。近代初頭の古材が「名物」と同様に由緒に対する証拠となることを除き、基本的に建築の形式が《一にして不可分》な美を表わし、前近代において分解された古材に特別な美は見られなかった。

こうした建築の形式に対する関心は、文化財保存の分野でも重視されてきている。坂井禎介氏は、古建築の修復をするなかで古部材を消耗品と捉え、建築の意匠を保存するという考え(「形式保存」)があり、それは「古材保存」の対になる考えであると提言している★15。「形式保存」は古建築の所有者に、現代社会における建築の使用を制限しないために施すという。また、古建築を修理する「古民家再生」も、所有者の使い勝手を重視した改修をするという点で「形式保存」に近い考えであろう★16。

この二つの保存に対する考え方は、建築に関わる人や社会という視点からみれば、建築の物的な価値を重視する社会団体(行政)と、建築の形・形式を重視する所有者(住人)と考えられる。

環境保存について

他方、建築の所有者や行政ではなく、建築を眺める人たち、つまり観光客や町の住人にとっての社会から主題に保存を考えると、如何なる保存論となるのだろうか。たとえば、多くの古建築が保存される公園(ここでは「建築園」と呼ぶ)を題材に考えてみる★17。代表的な建築園(「三渓園」「博物館明治村」「東京建物園」「川崎日本民家園」「椿山荘」)に移築された建築は、配置される上での環境の考え方が異なっている。たとえば「博物館明治村」「東京建物園」で建築の配置された環境は、町屋建築などは街路が広くて当時の環境の面影までは感じられず、文豪住宅の配置計画にもどこか違和感がある。これは壊される寸前の古建築を拾い上げたからであり、建築形式の保存が重視されたことは言うまでもない。加藤悠希氏によれば、建築を保存するに向けての演出であるという★18。

図1 江戸東京たてもの園(筆者撮影)
図2 博物館明治村(筆者撮影)

一方で、原三渓の作った「三渓園」や山縣有朋の「椿山荘」では、庭園作りが建築園のはじまりだった。「三渓園」は本牧三之谷に庭園を造り、そこに由緒ある古建築を配置する計画であった。また、「椿山荘」の三重塔・圓通閣は、山縣有朋から庭園を譲り受けた藤田平太郎が広島県の竹林寺から移築したものであった★19。

図3 椿山荘・圓通閣(筆者撮影)

この建築園の形成経緯から建築保存をみると、両者における建築保存は少し異なる。明治村を「保存型」とし、三渓園を「活用型」とするならば、「活用型」の建築園では建築保存よりまず先に、庭園という環境の整備から考えた点が重要であろう。さらに、初期に移築した古建築の多くは、庭園の環境に適合するように大改造されている。物によってはほとんど面影を残さず、また古い部材をほとんど使わない建築もあった。そうして建築を鑑賞すると建築園の美を成り立たせる一部となっていると分かる。

こうした建築のもたらす環境に焦点を当てた時、これを享受する人たちは建築を眺める人たちであろう。贈与論での貴重品が備える美を元に考えるならば、彼らの社会における美を基準とした保存方法として「環境保存」という考え方が存在すると提案したい。

私がかつて研究した有馬温泉町は、江戸時代の建築こそないものの、18世紀初頭からに現代に至るまで、町の中心部の地割(敷地の割り方)は変わっておらず、建築も道に接道する町屋の形式が守られている。当初の建築がなくなったとしても、古い町並みの面影を想起できるのは、こうした環境が保存(継承)されているからだと考えられる。

また、伊勢神宮内宮の門前に作られた「おかげ横丁」は、伊勢地方で多く見られる下見板張りの切妻屋根の町屋群を復原したもので、町並みを商売に使用している。これは「環境保存」と「形式保存」を組み合わせたものといえる。周到に再現された建築だとしても、過去の建築とその環境を想起させる重要な役割をもつのだろう。

図4 伊勢おかげ横丁(筆者撮影)

こうした保存の考え方は、移築のしづらい近代の非木造建築でも考えることができる。例えば近年話題となった青木淳氏の「京都市京セラ美術館」は、「可逆性」のある改修として、オリジナルの部材と形式を保存するという原則を守りながら、本来の動線を異なるアプローチに作り替える手法が新鮮であった。移築の特徴は敷地との分離、すなわちアプローチに変化をつけることでもある。移すのが難しいコンクリート造の建築に異なる敷地条件を与えたという点で、「環境保存」にメスを入れた保存であったと考えられる。

むすびに

今回は、モーリス・ゴドリエの「聖なるもの」の概念を補助線に、移築を題材に古建築がもつ力について考えてきた。中でも、古建築を「貴重品(聖なるモノの代替物)」とする要素は建築の〈形式(意匠)〉にあり、古材が「貴重品」となるのは、近代初頭の財界社会での古物趣味の延長と考えられる。移築(≒古建築の贈与)は、近代初頭や中近世移行期のような社会階層が流動化する時期に見られ、古建築は時期などの条件によって「貴重品」としての機能をもつ。

また、美をつくる社会毎に保存を考えた時、古材の保存や形式の保存に加え、外部空間の一部として建築を保存する「環境保存」が考えられる。修景やまちづくりに通じるこの考え方については、次回に外部空間と建築を主題に扱った建築家を取上げる形で考えてみたい。

なお、贈与論から考える建築保存には、更なる射程も期待できる。たとえば「スポリア」は、古材を移す行為であり、それによって聖性が付加されるという★20。青井哲人氏は、スポリアの語源が「奪うこと」であると説明しているが★21、ゴドリエの贈与論に出てくるバルヤ族の聖なるものは、女性から男性へ使用権を奪われたものだとされている。安易に比較することはできないかもしれないが、この聖性を付加する建築行為は、贈与論の考え方が大きく適用できるだろう。

また、カルロ・スカルパによる「レスタウロ(建築再生)」は、単に古い建築を修復するのではなく、既存の建築が材料の一部になるようにするという。スカルパが扱った建築はいずれも社会的な美を獲得した歴史的な建築であり、この美を継承するという点は、聖なるものの分身を作り出す貴重品の構造と類似する。

こうした建築史的手法を用いた研究は近年活発に議論されている★22。この拙い試論に対し、読者の方々から忌憚のない御批判をよせられることを、心からお願いする次第である。

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参考文献

  1. モーリス・ゴドリエ『贈与の謎』山内昶訳、法政大学出版局〈叢書ウニベルシタス〉、2014年。
  2. 藤井恵介研究代表『建築の移築に関する研究』(科学研究費補助金研究成果報告書:2002–2004年度)2005年。
  3. 鈴木博之編『復元思想の社会史(建築Library ; 18)』建築資料研究所、2006年。
  4. 桜井英治『贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ』中公新書、2011年。
  5. 伊藤喜彦(ほか)著『リノベーションからみる西洋建築史 : 歴史の継承と創造性』彰国社、2020年。
  6. 加藤耕一『時がつくる建築 : リノベーションの西洋建築史』東京大学出版会、2017年。

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★1:モーリス・ゴドリエ『贈与の謎』山内昶訳、法政大学出版局〈叢書ウニベルシタス〉、2014年。(原著『贈与の謎:L’énigme du don』1996年。)
★2:Annette B. Weiner『Inalienable possessions : the paradox of keeping-while-giving』University of California Press、1992年)
★3:たとえば、貴重品のなかにも、クラ(交換)に用いるものと、首長の壇上に展示され霊に捧げられるものの二種類がある(『贈与の謎』2014年)。
★4:「権力は、女性と富を集積したビッグ・マンではなく、人間以外の力としての太陽、森の精霊等が先祖に与えた聖物や秘密の知識の中にある、世襲権力の保持者グレートマンにあった」(モーリス・ゴドリエ2014年、p10)
★5:角田真弓「伊勢神宮における古材転用の様相」藤井恵介研究代表『建築の移築に関する研究』(科学研究費補助金研究成果報告書:2002–2004年度)2005年。
★6:前者の例として唐院(現磯城郡川西町唐院)、ここには春日社の旧社殿を移築したと言い伝えられる比売久波神社本殿がある。後者の例としては、第一殿と第二殿の連結部の大樋が忍辱山寺(おそらく円成寺)の裳階の敷板材として二貫五〇文で売られたこと、もともと興福寺の末寺であった円成寺には春日堂・白山堂が存在し、春日社の旧社殿を移築したものである可能性が指摘されている。(山野敬史「(コラム)春日大社と移築―中世における旧社殿の行先」藤井恵介研究代表『建築の移築に関する研究』(科学研究費補助金研究成果報告書:2002–2004年度)2005年。)
★7:住宅検断については、勝俣鎮夫「家を焼く」(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎮夫『中世の罪と罰』東京大学出版会、1983年、初出1980年)に始まり、清水克行「室町後期における都市領主の住宅検断」(『室町社会の騒擾と秩序』吉川弘文館、2004年)での整理に詳しい。近年は三枝暁子の研究(「戦国期北野社の闕所」『比叡山と室町幕府 : 寺社と武家の京都支配』東京大学出版会、2011年)がある他、建築史の分野では山本紀子「住宅検断にみる建築の破却 : 建築の移築に関する研究(その3)」(『日本建築学会学術講演梗概集・建築歴史・意匠 (2001)』日本建築学会、 2001年7月、p417–418)が言及している。
日本の中世社会では、公家や寺社などの都市領主が、門前の罪科を犯した民衆の住宅を「闕所屋(けっしょや)」とみなして処分する権利(住宅検断権)がある。「闕所屋」にされた住宅は、まず「検封」という仮差し押えが行われ、その後は都市領主に没収され、解体や焼却処分される。なかでも重要なのは、室町期から「闕所屋」が売却処分(償却・沽却)される例がみつかるということである(清水、2004年)。
三枝暁子氏によれば、戦国期の北野社領では、闕所処分された建築部材の売却行為「沽却」は、焼却・破却に等しい意味を持ち、穢れの祓いではなくとも、領主が家屋の所有関係を一度壊し、新たに組み替えているという点では、穢れを祓う効力を十分に持ったという。また、「祓」は「払」(売り払う)と同じ語源であるといい、都市領主による家屋の売却は、祓いの意味を見出すことも可能であるとしている(三枝、2011年)。
一方で、こうして壊された住宅は、住まい(「居屋」)と廃屋(「壊屋」)で値段が若干異なるという。その理由について、解体費の有無か、廃屋が単なる古材の集合と認識されたか、その判断は難しいものの、売却された住宅は単なる古材として認識される例が多いという(山本、2001年)。
つまり、中世の住宅建築の古材は、最終的に古材・建築共に単に実用的なモノとしての価値に留まったといえる。
★8:角田氏は、近代以降に神社に古材下付が増える理由として、明治四年に御師制度が廃止され、受け手側のみの利益で古材が拝戴されるようになったからと考えている。
★9:「だが同じくもう一つの問題も提起された。すなわち、敵対的な贈与、ポトラッチやポトラッチ社会の出現と発展の社会学的な、したがって歴史的な条件をもっと近よって分析するという問題がこれである。」(モーリス・ゴドリエ、2014年、p157)。
★10:なお古建築移築を推進していた東都財界人たちは、様々な形で文化財保護との接点があるといい、三渓園の臨春閣、東慶寺、三重搭、春草蘆の移築経緯などは古建築保存が目的であるという。(中村琢巳「邸宅へ配された古建築の類型と移築再生の手法」藤井恵介研究代表『建築の移築に関する研究』(科学研究費補助金研究成果報告書:2002–2004年度)2005年)。
★11:三溪園保勝会編『三溪園 : 100周年 : 原三溪の描いた風景』神奈川新聞、2006年。
★12:松栢山人「三渓園の大師会」『美術之日本』4号、大正12年、4月20日(三溪園保勝会編、2006年。)
★13: 津田三郎『秀吉英雄伝説の謎―日吉丸から豊太閤へ』中央公論社、1997年。
★14:桜井英治『贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ』中公新書、2011年。
★15:坂井禎介「オリジナルの価値」2021年建築学会大会シンポジウム。
★16:降幡広信『民家再生の設計手法』彰国社、1997年。同『民家建築の再興』鹿島出版会、2009年。
★17:本稿では「建築園」としたが、「都市公園」と呼び配置計画を扱った研究もある(坂本浩樹・小柏典華「都市公園に移築された文化財建造物の評価に関する研究:東京都内の 13 事例における、方位変更と周辺環境の相互作用に着目して」日本建築学会『日本建築学会大会学術講演梗概集』2022年7月。)
★18:加藤悠希氏は、博物館明治村に移築された建築について、明治村が行っている移築という手段は、現地での保存がかなわないような時の次善の策であると谷口吉郎が語っているといい、同様の考えを理事である野田宇太郎も共有していると指摘している。野田は古い建築を孤独な老人に例え、明治村という養老院に救われたとする。こうした中で、加藤氏は、東京の住宅地に建っていた〈森鴎外・夏目漱石住宅〉を林の中に配置するような谷口による建築の展示計画を、魅力的な演出をすることで新しい価値を付加する心配りという。(加藤悠希「(コラム)明治村/移築保存という問題をめぐって」藤井恵介研究代表『建築の移築に関する研究』(科学研究費補助金研究成果報告書:2002–2004年度)2005年。)
★19:大正14年に、山縣有朋公爵より庭園を譲り受けた藤田組の2代目当主・藤田平太郎男爵が移築した。室町時代後期の建築と考えられていたが、近年は1420年頃の部材が使用されていることが発見された(ホテル椿山荘HP(東京のホテルならホテル椿山荘東京。【公式サイト】 (hotel-chinzanso-tokyo.jp))より)。
★20:加藤耕一『時がつくる建築 : リノベーションの西洋建築史』東京大学出版会、2017年。
★21: 青井哲人「スポリア(SPOLIA)をめぐって」(スポリア(SPOLIA)をめぐって — VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog (hatenadiary.org)
★22:近年の移築を扱った研究に、萩原まどか『石清水八幡宮遷宮考』2017年度東京大学修士論文(後に、萩原まどか「石清水八幡宮の遷宮に関する考察」『日本建築学会大会学術講演梗概集』2018年、643–644頁)。横山舜『近世京都の寺院再興における建築情報の収集と実用』2021年度東京大学大学院修士論文(ここでは御所から下賜された仁和寺金堂や、泉涌寺仏殿の移築について扱っている)。

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中村駿介
建築討論

なかむら・しゅんすけ/1990年長野県生まれ。東北大学卒業、東京大学大学院修了、宮本忠長建築設計事務所勤務を経て、東京大学大学院博士課程。専門は日本建築史(中近世門前町研究)、建築理論、建築設計。