鼎談:「会場を構成する」を考え直す

連載:会場を構成する──経験的思考のプラクティス(その5)

桂川大+山川陸
建築討論
30 min readOct 31, 2022

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これまで具体的な事例分析や訪問滞在の一方で、執筆にあたっては他の会場構成や建築物、また自身が関わった事例なども念頭におきながら議論を進めてきた。今回は、序論と結論をつなぎ、本連載の論点を再考するために収録した、担当編集委員の大村高広氏との鼎談を公開する。

(桂川大+山川陸)

序論をすこし振り返る

桂川大(以降、桂):読者はどんな興味を持ってくれているんでしょうね。僕もそれが不透明なままやってるんだけど、なんかかっこいいデザインをもっと知りたいっていうことであれば海外の会場構成とか取り扱えるけどね。

大村高広(以降、大):読者の反応やアクセス数などをみると、単発で読んでいる人が多そうなんですよね。例えばミロ展の記事は読んでいるけれど、他のは読んでいない、とか。

山川陸(以降、山):ミロ展の分析はおもしろかったって言ってくれた人が多いですね。あれは建築家が書く意味があったなという感じがします。

桂:でもミロ展分析的なものをもう1回やるのは、またバランスが違う感じですね。

大:予期的に書かれたような側面もありますけど、初回のテキストを読み直してみてどうですか。

桂:序論が一番難しいよねって話しながら書いたやつですもんね。

個人的には「会場を構成する」ことがどういうプラクティスのなかで歴史的に育まれてきたのか、をもう少し切り込みたかったですね。近代美術の運動や室内装飾、博覧会のような経験的な空間表現と結びつきながら、カルロ・スカルパやヨーゼフ・ホフマンのような建築家の積極的な関わりについて事例紹介をもう少しできたかなと思います。

山:改めて考えてみると、50年住む家のこと50年分想像することはできないけど、1時間の展覧会についてはむしろ1時間どころではなく検討することになるから、実は一番時間ということも含んで空間のことをきちんと考える設計事例な感じがする。だから、展覧会というか、会場構成を考えるっていうのは、時間の問題を引き受けながら空間を考える例として結構重要ではないか、というのが序論での仮説ですね、多分。序論に書いておきながらきちんとやれてないこととしては、毎回その事例ごとの「会場とは何か・構成とは何か」を定義していくと言っているけど、実際やってみるとその書き方では書けていない……。

大:個人的には、最終回は事例分析ではなく、会場構成論のさしあたりの結論のようなものをキッチリ書いてほしいと思っています。それを踏まえて今回の5回目では、詳細な分析には踏み込まず、ざっくりと色々な意見や事例を出し尽くしておくのがいいんじゃないかと思います。

山:そうですね。

大:会場構成のケースごとに変わってくる建築家の役割や、時間の問題を具体的に扱っていくための方法が見えてくるといいですね。

会場構成の論理

大:たとえば今回の連載で分析をおこなった西澤徹夫さんの仕事は、他の建築家の会場構成と比較してどのような点が違うのでしょうか。

山:西澤さんは、ものを見て回るという経験を丁寧に考えている感じがします。抽象的に言うと、鑑賞における時間の問題を考えているか・いないか、という違いがあるのかな。
表面的な対立構造をつくってみると、多くの建築家はついついおもしろい什器や壁を作っちゃうみたいなところがありますよね。

大:ありますね。

山:作られたものが何かに寄与していればいいと思うんですが……。なぜそういったものが単におもしろいだけになってしまうかというと、キュレーションという全体や、連続した時間の中にある経験を引き受けてない感じがするからなんですよね。
たとえばある展覧会で「第〇章 △△の✕✕時代」みたいな展示室があるとして、その章というまとまりまでしか考えないのではなく、この立体作品を見て、その次この映像を見て、この絵画を見る、という作品単位の並びにあるキュレーターやアーティスト自身が提示しようとした経験がどういったものなのかをまず考えていないような感じがします。
西澤さんはそうした経験をアシストするために空間を作っているわけなんですが、壁がちょっとカーブしている方が作品の並びを見た先にある経験を強化したり、わかりやすくなる、みたいなキュレーション的な意図とも一緒にあるように思います。

展示を観るっていうのは、その館内を歩く時間も存在するし、作家のことを行きの電車で調べながら向かう人がいれば、入場して初めてその作家のことを知るひともいる、そういうことも含めつつ、でも色々な人や状態に対して、作品を介して何をどのように伝えたいのかということがキュレーターやアーティストに考えがある。まずはそれありきだし、かといってそれを直訳すればいいというわけではないのが難しいところですが。

とにもかくにも始まりから終わりに向けてどういった順番で作品がリストとして並んでいるか、というのがキュレーションのまず大元にあると思うんです。西澤さんが会場構成した国立近代美術館での「ヴィデオを待ちながら」は、当時担当だった蔵屋美香さんの中に並び順が厳格にあるのでそれは守ることになる。けれど、それを長方形の展示室の中でどのように折り返して入れ込んでいくかは建築家にかかっている。だから、「ヴィデオ~」は建築家が何をしたのかがすごくわかりやすい例だと思います。やっぱりどこで体の向きが変わるかで、自動的に意識の切り替わりが生まれたりするわけですし。

桂:「ヴィデオ〜」を分析して、蔵屋さん、西澤さんが展示物に込めた鑑賞の意図を読み解くこと、人の経験をアフォードする展示物の基本的性質を観察することで発見はとても多かったです。例えば、西澤さんの図面に対してエイっと壁の開口部の位置や作品配置が移動するんですね。蔵屋さんとの図面での対話が垣間見えて。「あ、ここでこうするんだ」みたいな更新の記録を追うのはとてもおもしろかったです。定着させるものとしてではなく動的なドキュメントとして捉えるともう少し会場を構成する批評性が浮かび上がってきますよね。

山:こういった経験における時間的な側面というのは、一章二章三章…みたいな塊感ではなく、作品が並んでいるという細かさで考え始めるべきだと思うんですよね。ただ、グループ展や企画展におけるひとつひとつの作品の並び順と関係性というのは、建築家が引き受けられる問題ではないとも言えるので、章ごとのように大きく取り扱うしかないというのも分からなくはないです。

大村さんはグループ展の会場構成にも関わられていますが、どのようなことを考えながらやられていますか。

大:さいきん私どもが会場構成した「感性の遊び場」展(ANB Tokyo)では、会場設計における負荷・条件のようなものを、むしろキュレーションが要請する諸々の条件の外部から調達しようとしました。というのも、展示会場は仕上げがまったく異なるビルの3階と4階だったのですが、3Fの黒ペンキが塗られた床のダメージがかなり深刻だったんですね。再塗装している予算も時間もないということで、仮設的な修復行為として、まず傷んでいる部分をパンチカーペットで隠そうということになった。その後、床があまりダメージを受けていない箇所を切り取って、4階に持っていきました。このカーペットの切り取りと移動は9名の作家の展示位置のゾーニングと作品配置を定めるおおまかな構造となり、ふたつのフロアには図と地の照応関係がもたらされる。あとの細かな作品の配置や順番は現場で決めていきましょう……という、ざっくりと説明するとこのような仕事でした。

「感性の遊び場」展(会場設計: GROUP、ANB Tokyo、2022年)©Takahiro Ohmura

グループ展において各作家のゾーニングをどうやって決定するか、ということはなかなか難しい問題なんじゃないかと思っています。作家同士で場所を決めていくと、ギスギスしてしまう瞬間などがどうしても出てきてしまうかもしれないし。どうすれば全員にとって「外部」にある──しかし解決すべき切実な──問題をゾーニングの論理として取り出すことができるのか、ということも、(自身も美術展にとっては外的な存在である)建築家の役割としてはあるのかなと思っていて。

山:確かに、グループ展では納得の論理が違うところからやってこないと、誰も納得できないのかも。3331 Arts Chiyodaで会場構成した野外美術展「のけもの」ではどうでしたか?

大: 「のけもの」展では、会場となった元学校の屋上の真ん中に、ただ大きな水平な面を作るということをしました。このときも考えていたのは、グループ展をやるときに、美術とは異なる論理を持ち込んで何かを決定することが必要なんじゃないか……ということでした。

この展示は、気象条件等の外的なバイアスに抵抗するのではなく、むしろその影響を受けて作品が歪んだり壊れたりすることをテーマに置いた展示でした。そのためすべての作家の展示が「流れる」とか「風が吹いてふくらむ」とか、とにかく動き続けるような性質をもっていた。それに対して、水平な(水を平らにする)ものを真ん中に置こう、ということにしました。何のメッセージ性もないまま、建築的なロジック(一言で表現すれば「既存の立地環境と重力に依存した力学的な整合性」でしょうか?)を頼りに、引張力の相互作用によって宙に浮いたスチールフレームと、停止状態の水が会場の中心にある。美術展においてこういうものが中心にあると、やっぱり違和感があるんですよね。困惑する。それは視覚的にというよりも、存在の仕方、ロジックが美術作品と違うからです。

野外美術展「のけもの」(会場設計: GROUP、3331 Arts Chiyoda、2021年)©Takahiro Ohmura

こういうものがあることで、作品から作品へ移動する際の鑑賞の句読点が作れるかなと思いました。あと、揺れ止めとしてコンクリートブロックで作った重りを置いているんですが、これは各作品へ向けたベンチにもなっています。これは会場構成っぽいですね。重りの引張方向と各作品の位置が対応するようにフレームの構造設計とおおまかな作品位置の決定をし、遠く離れた作品同士にテンションをかけて中心に引っ張るような意識がありました。

山:僕も観に行ったのですが、やはりただのおもしろい什器ではないと思いました。キュレーションの裏読みというかたちではあるけど、キュレーションには乗っているわけですし、だけど作品と同列なわけではない、という位置付けがちょうどいいですね。

おもしろ什器を批判するポイントは、ひとつは作品を観るということに寄与していないということと、もうひとつポイントにあると分かったのは、展覧会の一部であろうとしすぎる態度かもしれない。建物を彫刻のように扱う作家の回顧展で、什器や展示壁がバラックのように作られていたり……。

元木大輔さんの什器は展覧会の中身との距離の取り方がいいですよね。「ドレス・コード?−着る人たちのゲーム」は金属のOAフロアを使って台座を作ったり、「ART PHOTO TOKYO」では金メッキした単管パイプを使っていたり、台座や背景の問題として会場設計を割り切っている感じがします。でもファッションや写真だからできることかもしれませんね。作品とされるものと、その周囲の関係性や前後関係がそんなに議論の対象にならないもの、といいますか。

大:中村竜治さんの会場構成はどう考えますか。

山:中村さんの会場構成を初めて体験したのはオペラシティ・ギャラリーでの「感じる服 考える服:東京ファッションの現在形」ですね。展示室の中をアイレベルの高さで白い梁が飛んでいて、梁をくぐりながら移動していく。梁は一切着地していないので、構造的にもかなりチャレンジングだったと思いますが、いま思い返してみるとどういうことだったんだろうな。

大:中村さんの会場構成は発明的ですよね。かなり独特な身体感覚をもった什器の設計、その配置の仕方、既存の材料の使用方法などが毎回考案されている。どういうことだったんだろうな、というのは、作品を鑑賞するという経験において、そうした建築家によってもたらされる独特の感覚がどれほど寄与しているのか判断が難しいということでしょうか。

山:
発明だとは思うんですけど、見るという行為だけが強くあらわれていて、対象を鑑賞する、考えるということを扱っているわけではないように思えます。作品じたいや鑑賞に向き合いすぎないことを選ばないと建築家が物事に対処できないのは分かるんですけど、でもやっぱりその割り切りで本当にいいんだろうか、と僕は悩んでしまうんですよ。

厳密さのありか

大:会場構成における図面は建築設計において最も心もとない指示書じゃないか、と思ったりします。什器の施工図などはまた別ですが、平面図でいくら作品の位置関係を吟味したところで、現場で作品の位置もキャプションの場所もどんどん変わっていくじゃないですか。

山:たしかに、空間的にも厳密にやりえないというのはありますよね。西澤さんの「ヴィデオ~」の実施図面を見ても、細かく什器や壁の詳細が描かれている一方で、什器じたいの配置については結構ざっくりしていたんです。壁のここから何百ミリということではなく、この什器の角はここの柱の角に揃っている、みたいにポイントとなる何台かの指示しか描かれていなくて。

大:寸法的な厳密さとはまた別の厳密さがあるわけですね。桂川さんが東京都美術館で会場構成を担当した「都市のみる夢」展では、そのあたりはどうでしたか。

桂:「都市のみる夢」は厳密さがとても薄い現場で……何もかも変わり続けてしまうので。展示の要素として複数台のベッドがあるんですけど、現実的にベッドの大きさや距離感について、これ以上近づけると空間が成立しないよ、っていう限界ラインを見極めるのがひとつの仕事でした。図面については現場でひとまず作業する前のたたき台みたいなもので、それが「……ではない」という思考のドライブを意図した更新の繰り返しをしながら結論へにじり寄っていく感じで。

都美セレクション グループ展 2020 「都市の見る夢」(会場構成: STUDIO 大, 東京都美術館, 2020年)©ToLoLo studio

山:なるほど。でも清須市はるひ美術館での「ミスマッチストーリィ 河北秀也のiichiko DESIGN」は、しっかり図面どおりに作らないとダメな会場構成ですよね。

桂:大村さんが言っているのは、施工図面じゃなくて、キュレーターや学芸員と話すための図面ってことですね。「ミスマッチ~」で言えば寸法を採集することから始めています。本展での鑑賞物は地下鉄広告のポスターだったので、日常の交通空間で何気なくみている見慣れた風景をまず観察・記録しました。普段歩きながらみる状況を経験するように、歩行と滞留によって構成される空間が生まれています。移動空間のシンボルとしてブリッジと柱を空間に挿入していますが、このうねうねしたブリッジがこれ以上壁に近づくと人が通れなくなりますよ、みたいなことくらいしかはじめは明記しないです。でも施工図は確かにすごく厳密に、それこそプレカットして現場に入れるから、そのラインは明確に決めていたと思います。

ミスマッチストーリィ 河北秀也のiichiko DESIGN(会場構成: STUDIO 大, 清須市はるひ美術館, 2021年)©Fumio Kohama , Dai Katsuragawa

山:実際、現場で調整とかはなかったんですか?やっぱり角度を2、3度だけ動かしたいです……とか。

桂:それはもうよく起きます。これは言ってもいいのかな(笑)。美術館から頂いた竣工時の展開図がずれることはよくありますし、間違っていたりもしているので、まず自分で実測して描き直しています。現場でもやっぱりずれていて、恐ろしかった。だからもう、どの寸法を厳密にするかのルールを学芸員さんや展示技術者と相談しながら、ブリッジを現場でずらしながら設置していました。

山:何に対して厳密であるべきかが大事なんですよね。寸法的に完全に統制されきった作り方にも価値があるのは分かった上で言いますけど、鑑賞するときにそこが1センチ設計と違っていても別に関係ないよねって言うことはあるわけですから。

大:通り過ぎながら作品を観る、ということに対する厳密さという意味では、配置における細かな寸法の誤差は問題ではなくなると。

山:厳密さでいうと思うところがあって。最近、高橋大輔さんという画家の個展を少し手伝っているんですね。本当にささやかな手伝いなんですけど。去年gallery αMで彼の個展があったとき、キュレーターの長谷川新さんにインストールのうち一日だけ高橋さんの話し相手になってほしいと呼ばれたのがきっかけなんですよ。
高橋さんは抽象絵画のアーティストで、自分が日々生活する中で絵を描くっていうことじたいについてもよく考えている人で。彼は展覧会をするにあたって、展示可能な点数の何倍もの絵をギャラリーにまず持ち込むんです。ある程度の展示プランはあるんだけど、実際持ってきてからどう並べようかってずっと悩む。

僕がするのは、たとえば「ギャラリーに入ると、空間的にはこっちを見るかあっちを見るかの二択があります」「この絵を観たあとにはあの絵に目がいきますね」「この絵とあの壁は関係しているように見えてきました」みたいに、頭でっかちな説明ではあるけど、鑑賞時におきるであろうことを言葉で延々と伝え続けるんです。抽象絵画だからできるやり取りという感じもするんだけど、こういった話を延々と続けながら、空間にあり得る連続性や関係性について話ながら、違う絵を持ってきたり、かけ足してみたり……。そんなことをしていたら今度はANOMALYの個展でも話し相手に呼んでもらったんですね。

約束の凝集 vol. 5 高橋大輔|RELAXIN’(設営協力:山川陸、gallery αM、2021年)筆者撮影

もちろん一日しか行かないから、実際そのとおりに並ぶとも限らないし、絵をかける高さとか絵と絵の間隔とか、作品選びの厳密性も寸法の厳密性も僕にはないわけです。そんななかで自分が何を厳密に考えて伝えているかというと、空間における順序について、です。それは展示室の特性に由来する部分もありますけど、たとえばこの位置にある絵を見ているときあの柱の裏側の絵は見えないですとか、あの作品を見るためにはここにある絵の前を絶対に通ります、といった当たり前だけど絶対に変わらない事実については念押しするように伝えていると思います。

こうしたやり取りをキュレーターがすることもあれば、アーティスト自身が自分でする場合もあるけれど、高橋さんの場合は普段もたくさんの絵に囲まれていて、インストール時も絵をバラまいた中でどうするか考え続けているんですね。だから順序のヒントを与えるのは、僕が手伝えるところなんだと思います。

こう話していると思うのは、厳密さというのは、明るいとものは見えやすい、みたいなものすごく当たり前で原理的なことを丁寧に考えるということなのかなと思いました。

第三回で副田一穂さんに「ミロ展 日本を夢みて」のお話を伺ったときも、絵を並べていくと壁の途中にある非常口で作品の並びが一度切れてしまう、ではどうやってこの断絶をまたいだり関係づけられるか、みたいなことをすごく丁寧に考えていたんですよね。

桂:そうですね。たとえば図録では順番になっているA、B、Cの三点が、展示室ではCが中心にあるべき、みたいな変更をするときにもその理由がとても明確で。何点か作品が並んでいるときにそれらが連作ではないことはどう並べ方だけで示せるのか、とか逆に連作だと伝えるにはどうしたらいいのか、その調整はとても厳密でしたよね。こういうレイアウトの仕方みたいなことは、建築設計における図面の厳密さとはまた違う形で見えてくる厳密さだと思いますね。

山:ものを並べるときにある関係性まで固定しきろうとするコンポジションの厳密さは、現実的なレイアウトの問題よりひとつ後ろにある感じがします。

大:コンポジションを厳格にしていくと、結局は寸法の話になりますからね。

山:コンポジションの厳密さって、究極的には認識する人間には関係のないことだとも思うので、突き詰めていくと違う論理としてあらわれるというのはありえますね。ただ展覧会というのがそもそもしてコンポジションを徹底しきることが難しいのだとすると、建築の設計と同じ厳密さでもって空間の強度を出すことはしっくりこないわけですね。
「感性の遊び場」の汚れているところを隠すパンチカーペットの論理は、コンポジションと同じように異なる論理の出現ではあるけれど、一方で汚れを隠すというすごくベタな認識に関わるから受け入れられるのかもしれない。変な二重性があるという点で建築家しかしない会場構成の提案だなと思いますが、「いや汚れを隠してるんですよね」とちょっと照れ隠しをしてくる感じは、現代の建築家っぽくて好感が持てます。

桂:コンポジションについて考えていたとき、建築の設計が、配置と規模を解くことで作れてしまうのでは、という話をしたじゃないですか。そこには他の諸々の決定も含んでいるじゃないですか、構法や法規、構造……。

大:いろいろな問題が複合的に決まるというシステムですよね、設計は。それで言うと、展覧会の設計で特徴的なのは、たとえば大きい作品が大きい空間を必要とするとは限らない、みたいなことですよね。もしかしたら、ものすごく小さい作品が超巨大な空間を必要とするかもしれない。配置されるものと容れ物のサイズの関係が一義的に決定できず、個別具体的に決めていく必要が出てくる。機能主義は空間の規模と内容物のサイズとのあいだに相似的な比例関係を措定するわけですが、そこに還元できない、という点が会場構成のひとつの面白いところです。

山:その意味では、設計する側にとっても作品が持つ論理は、まったく異なる論理としてこちらにあらわれているわけだ。

大:この作品には4メートルの天井高さが必要なんです、なぜならこの作品がそう要請するから……といったことにちゃんと耳を傾けるべきですよね。

山:キュレーターも一番根底にあるのは作品ファースト、作家ファーストであるわけで、この作品が4メートルの天井高が必要なのにそれを別の小さい部屋にわざわざ押し込めるようなことは当然しないわけじゃないですか。キュレーターが一番耳を傾けている人であるだろうから、まずその人の話をよく聞くというのは当然必要だし、その話ぶりはある並び順を伴っているっていうのが重要です。ある並び順にある作品たちの中には全く異なる物性の条件が混ざっていたりするわけなので。

先立つもの ── 美術館建築

大:そういえばこのあいだ金沢21世紀美術館に行ったんですけど、(鑑賞経験ということで考えると)厳しいなと思うことが多々あったんですね。わかりやすいところで言うと、誰でも入れるオープンな空間が建物の外周部にあるわけですが、そのスペースがおおむねすべて自撮りの映えスポットになっているんです。ただの白い壁に向かって写真撮影の行列ができていて、これは大変なことだぞ、と思いました。それで、展示を観るには箱(展示室)から箱へと移動していくわけですが、箱の隙間ごとにその様子がチラチラと見える。声やパシャという音もけっこう聞こえる。(たいへん申し訳ないですが)私にとってはこのチラ見え・チラ聞こえが非常にノイズで、作品に十分に没入できなかった。これはInstagramというSNSの登場が原因というわけでもなく、金沢21美の「まちにひらく」ための空間構成がもたらしたひとつの帰結なのかな、と思ったんですね。まちに対する開放性は、鑑賞経験のノイズもまた呼び込んでしまうわけです。だからこそ、この問題は深刻です。そんなことを考えていると、現代建築が美術館というプログラムに対して倉庫以上の解答ができているのか分からなくなってきて。

山:建築には敷地や予算といった諸条件が先立つけど、それ自体が会場構成に対しては先立つものになりますよね。その点からも、どう作るのかは重要ですよね。

大:これは同行していた私のパートナーが気づいたことなんですが、金沢21美にはもうひとつ特徴があって、監視が厳しいんですよ。色々な前提条件があると思いますけど、それでもやはり過剰だと思いました。そこは行かないでください、とか、そちらから回ってください、という言葉がしきりに飛び交っているんですね。鑑賞中に不用意に話しかけられてしまうというのは、単なるレギュレーションの問題ではなく、はっきりと言ってしまえば、そうしたレギュレーションを要請してしまう建築の空間構成の問題です。21世紀初頭の現代建築が目指した「自由さ」の背後には、建築が鑑賞動線をサジェスチョンしたり、あるいは鑑賞経験の構造になったりすることへの放棄があり、おそらくその負荷が監視の過剰さにあらわれてしまっている、のではないか。金沢21美は日本の現代建築のひとつの達成ではあるわけですが、「ひらく」ことや「自由である」ことがもっている負の側面が明確に出ているようにも思えたわけです。かといって、昔みたいに完全に閉じた箱として美術館をつくる時代でもないわけですし、難しい。

桂:そうすると、オルタナティブな場所をつくろうとして、倉庫を改修して建てる、といったことになるわけですよね。

大:結局いまだに『原っぱと遊園地』(青木淳著、王国社、2004年)の問題が続いている気がします。

山:今思ったけど、倉庫は展覧会における物故作家っぽさがあるんでしょうね。多少そこにある論理や意志は無視しても大丈夫で、いいように解釈できるもの。単純に、建築家の作った建築は込められたものが強いですよね。

おふたりは青森県立美術館に関してはどう考えていますか。再訪したいなと思いつつ、2010年に行ったきりなので、今の自分が見たらどう思うんだろうというのは気になっています。当時は、建築物じたいがかたちや素材、シークエンスの中にメタメッセージを帯びること、それを読み取れることに面白さを感じたんですよね。

桂:かっこいいと思うんだけど、僕はあのトレンチがかたちとして印象が強かったかな。美術館の域を超えた異空間だから、鑑賞空間としてすごいなと思ってみていました。でも2回目に行ったときは、素材の切り替えや、白い部分がここまで伸びてこう行くんだ、みたいな細かなルールに目が行き過ぎて。そうしたことを考えた美術館は初めてでしたね。

山:ある種の倉庫性みたいなものを目指して、そのために作られていない空間のように作っていることが当時も議論になっていましたね。

大:青森県立美術館も実は最近再訪したんですが、やはり内部空間には感銘を受けました。鑑賞と鑑賞のあいだに挟まれる、ひと知れずぼーっと座っていられるような謎の休憩スペースが好きです。他方で外観のアーチ窓に関してはやっぱり納得がいかなかった。とても生意気なことを言いますが、作品発表時の建築家のテキストが、あの建築の可能性を縛っているような気もしました(青木さんの文章の強度が高すぎる、ということもあるかもしれないですが)。建築家は建築をつくる際の「でっちあげ」に対してしばしばとてもセンシティブで、自分自身がでっちあげた作業仮説に対する説明責任として筋の通る文章を書いたり、意匠的な操作を追加したりする。でも、できあがってしまえば、建築を経験する人間はそんなこと(制作時の仮説や理論の虚構性)は気にならないんですよね。事実としてそこに、質量をもった構造体が存在しているわけですから。だから建築家はもっと素直につくればいいんじゃないか、と今は考えています。

ところで、倉庫でいいじゃん問題は今回の連載でも出していいんじゃないですか。

山:建築家にその問題は結構重くのしかかってますしね。しかもリノベーションのプロジェクト比率の上がっている世代としては、そこに答えが出せないとやっぱ作る元気が湧かないですし。

規模と構成

山:第4回で取り上げたドクメンタ15では全会場に共通した建築家はいなくて、会場ごとに異なるローカルアーキテクトが協力しているんですよね。これは統一した印象を避けたいというキュレーションによるものでもあるんですけど、あれだけ街中に展開していて各建物もぜんぜん違うと、そもそも統一されている必要性もたしかに感じなかったんですよね。

でもあえていうならば、それって場当たり的な判断じゃん、と言ってもみたくなりますけれど。

大:でもまあ、やっぱそうしてまとめきる規模ではないですよね。巨大な公園(たとえばセントラルパーク)のなかにいろんな様式の庭園が詰め込まれていても気にならないみたいに。

山:統一していたら気持ち悪いと思いそうですし。
でもそれで言うと、一展覧会ぐらいのスケール感、何百平米から1000平米ぐらいの規模感だと空間の統一感は欲しくなりますよね。なのに、会場構成では統一性じたいが見え過ぎるとむしろノイズになってしまったり、什器の面白さが目につきすぎてしまうこともあるわけで……。

桂:そうですね。我々が考えるべき対象が「会場」という字義通りのテンポラリーな空間では捉えきれないと考え始めたし、「ドクメンタ15をめぐるラウンドテーブル」(※)でもキュレーター、アーティスト、アーキテクトそれぞれの立場から意見が出ましたよね。連載の英題をvenueではなくassemblyにしたのも会場へのカウンターであると勝手に考えていましたし。なので広がりのある議論が続けられたらと思います。

山:倉庫問題にもつなげると、芸術祭では特に、美術館ではなくそれぞれのその場所でいいじゃん、という論理は強いですよね。

桂:ドクメンタ15も、過去のドクメンタでよく使われていたノイエギャラリーは会場にならず、街中の倉庫や教会がたくさん会場として使われていました。

山:ノイエギャラリーにはドクメンタのアーカイブが第一回のものから結構な分量であるんですけど、美術館としての意味がおそらくドクメンタのアーカイブ館以上でも以下でもなかったということなんだと思います。
というのは、ドクメンタ15では常設展示を持つ美術館や博物館が結構な数会場に使われていたんですね。例えば自然史博物館とかだったら、その自然史っていうことを入り口に、地理や自然への異なる思考で作られた作品があったり、グリム兄弟の博物館では、ものを語るということがドクメンタ全体のキュレーションとしても重要に扱われていて。だから、ドクメンタ15の会場選びは、意味ベースで決まっているとも言えるんじゃないかな。その意味では、倉庫か美術館かというのは実は重要ではないのかもしれない。

大:だからこそ、収蔵作品を保管する場所としての美術館がどうあるべきかを問い直さないと、美術館それじたいのあり方に対して戻っていけないんですよね。だから自分は今、新たな空間言語をもった美術館は、強烈なキュレーションのある美術館からしか出てこないんじゃないかと思っちゃうんです。収蔵作品へのバイアスがあり、バイアスのかかった収蔵物への真剣な解答が建築側からあり、そうしてできあがった空間で、たとえば企画展が開催されて、当初は想定もしていなかったような作家や作品の展示場所として転じる、ようなことがあれば……。

山:今の話を聞いてると、八戸市立美術館は建築設計でこそやれることにトライしたんだなと感じます。館のキュレーションでもあるけれど、ラーニングセンターという考え方を建築が主導する形で推し進めている。

大:そのとおりだと思います。その上で現代特有の問題として指摘できるのは、美術館が各々の固有性を獲得できるきっかけが「地域の固有性」しかないということでしょう。

山:固有性を求めていくと、倉庫には勝てないですしね。

倉庫でいいじゃん問題って、建築家のコラボレーションワークで絶対発生する問題だと思うんです。僕は初めてダンサーと関わった学生のときに、もうこの人一人いればほかに空間になにもいらないじゃん、やることないじゃん、と思ってしまったんですね。そういうことを思っちゃうときが一回はみんなあるわけです。でもやっぱり建築家がなにかをやる意味は絶対にあるわけで、会場構成のなかで起きていることもそう。

展覧会においては、寸法や素材を吟味しながら空間的に作品を配置していくことを通じて建築家が時間の問題を扱わない限り、鑑賞経験のなかにある時間の問題に言及できるプレイヤーがいないということは重要な点だと思います。

だから会場構成を考えるときも、たとえば座って映像を見てる場面だけを考えていると足りなくて、あいだにある移動をよくよく考えないといけない。場面から場面に切り替わるっていう想像では不足してるんですよね。

個人的な関心でもあるけれど、全体を全体のままには捉えられないから、ひとつひとつ観ていかなければ全体像には近づいていけないということが大事だと思いました。

大:「順序がある」ということをちゃんと真に受けるべきだ、というお二人の認識は、現代建築が直面している順序のなさや開かれみたいなものの限界とも繋がっていて、建築的な問題だと思います。

山:最終回はこの広げた風呂敷の上で、仮説的にでもまとめて書きたいですね。

大:当初求められていた、一回3000字という分量で結論を書きましょう。

桂・山:はい。

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※ 現地での経験を会場を構成する視点から読み解く桂川大+山川陸らがキュレーターの飯田志保子さんと服部浩之さんをゲストに迎え、有松を拠点に活動するデザインリサーチャーの浅野翔と参加者のみなさんとともにドクメンタ15の態度から何を学び、愛知で何を実践できるのか、テーブルを囲んで議論した。動画アーカイブは下記より。
https://youtu.be/JlimgLsSSPE

桂川大+山川陸 連載「会場を構成する──経験的思考のプラクティス」
・その1 経験と構成
・その2 分析:「ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ」
・その3 分析:「ミロ展──日本を夢みて」
・その4 滞在記:「ドクメンタ15」

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桂川大+山川陸
建築討論

かつらがわ・だい(左)/STUDIO大主宰。1990年生まれ。2016年 名古屋工業大学大学院博士前期課程修了。2019年- 同大学院博士後期課程在籍。| やまかわ・りく(右)/一級建築士事務所山川陸設計代表。1990年生まれ。2013年 東京藝術大学美術学部建築科卒業。