報道でデータビジュアリゼーションが必要なのか[3]
報道でデータビジュアリゼーションが必要なのか[1]と報道でデータビジュアリゼーションが必要なのか [2]では、データを使った報道に携わるお二人のプレゼンテーションをまとめた。テレビ、オンライン新聞と媒体は違うが、どちらからもデータビジュアリゼーションを用いて、報道に新たな可能性を見出していきたいという熱意が伝わってきた。ここからは、お二人のお話を踏まえた上で、「報道でデータビジュアリゼーションが必要なのか」という問いについて考えてみたい。
「So what? データビジュアリゼーション」から生まれる格差
テレビの気象情報マップ、選挙の投票数やアンケート結果のグラフは、視聴者が情報を目で見てパッ理解するのに欠かせないデータの可視化である。前回の記事で触れた日経のビジュアルデータのような、データビジュアリゼーションを用いて、話題のニュースを違った視点から解説する報道のあり方には、データから生まれるニュースの多様性を見た。
しかし、データビジュアリゼーションが報道の現場で普及するにあたって、留意しておきたいことがある。それは、報道においてデータビジュアリゼーションは、伝えたいニュースをサポートする「ツール」であるということだ。(データ自体がニュースである場合を除く)
情報の送り手は、事実のありのままをニュースとして、その受け手に放り投げるのではなく、できるだけわかりやすく噛み砕いて伝えるべきであって、その噛み砕く過程で使われる道具の一つがデータビジュアリゼーションである。
だが、最近は、メディアがデータビジュアリゼーションをデータジャーナリズム(データジャーナリズムについては、報道でデータビジュアリゼーションが必要なのか[最終回]で詳しく説明する)と勘違いし、「データの可視化=報道」と考える人もいる。データを可視化して、それをただ情報として流すことは、かえって情報の受け手を混乱させてしまったり、情報の理解に格差を生むことにつながる可能性もある。
例として思い当たるビジュアリゼーションは、New York Timesの「Mapping Segrigation (人種分離のマップ)」だ。このマップは、2010年度アメリカ国勢調査のデータをもとにつくられた人種分布の色分けマップで、人種別に色が違うドット(ドット一人=人間一人)により、アメリカ主要都市の人種のコミュニティーを地理的に把握することができる。
このマップ自体は、データビジュアリゼーションの金字塔と呼べる作品であろう。国勢調査のデータを可視化し、スプレッドシート上では複雑で膨大すぎる人種分布のデータをマップにして、色分けをすることで、誰でも人種分布を視覚的に理解できるようにした。
しかし、このNew York Timesのページを見るとわかるのだが、マップが単体であるだけで、それを解説する「コンテクスト」(説明文)がなく、このマップの解釈は、それを見た人に託される。報道においてのビジュアリゼーションとして、わたしがこのマップを見て思うことは、「So what? (だから何?)」である。コンテクストがない「So what? データビジュアリゼーション」の解釈は、わたしたち読者の思考力や想像力に大きく左右される
例にあげた人種分離の地図の場合、アメリカの都市問題に関心がある人なら、このマップから都市の中心地に多い黒人層に着目し、インナーシティー問題(中心市街地で、経済の低迷によりもたらされる高い失業率や犯罪率の問題)を考えるかもしれない。洞察力の鋭い人やこの分野の知識がある人なら、多くの都市に見られる人種分離のパターンを見抜き、そのパターンを出発点として、その都市の税収、教育の質や治安、さらにそれらから見えてくるビジネスのトレンドを考えるかもしれない。良い意味で「So whatデータビジュアリゼーション」は読者に考える余白を与える。
しかしその反面、この余白は情報の理解に「格差」を生む要因でもある。アメリカの都市問題に関心がない人が、このマップからインナーシティー問題に気づくことはない。マップのデザイン性やどこかハイテクな感じに惹かれて、数分マップ上でカーソルを動かして遊んでみたが、結局何の情報も得なかったという経験がある人も多いのではないだろうか。
コンテクストが欠如したデータビジュアリゼーションは、読者に一定の思考力や想像力を要する。言い変えれば、一定の思考力や想像力がない読者は、そのコンテンツの対象者ではないということだ。
「報道でデータビジュアリゼーションが必要なのか」という問に対する答えは「Yes」であるが、その使われ方に慎重になる必要がある。
報道においてのデータビジュアリゼーションは、ニュースをわかりやすく視聴者や読者に伝える「ツール」である。データの可視化自体は報道ではないし、データジャーナリズムとは異なる。
今回のData Visualization Japanのミートアップで、何度か聞かれた「リッチなデータビジュアリゼーション」や「クールなデータビジュアリゼーション」といった表現からわかるように、多くの人がデータビジュアリゼーションのデザイン性やハイテク性に過度に注目する傾向は、データのビジュアリゼーションを広めていく発端であり、ゴールではない。その見た目重視のデータビジュアリゼーションを報道の場で突き詰めることは、「ニュースを伝える」という報道の根底を揺るがす危険性があるということを十分に理解しておきたい。
報道でデータビジュアリゼーションが必要なのか[最終回]では、「データジャーナリズムとは何か」について事例を用いて考える。