「おじいちゃんおばあちゃんと旅行に行って」
昨年、僕が「八年前に行った車山に行きたい‼︎!」と無理を言って、二泊三日、おじいちゃんとおばあちゃんと長野県の車山などに行った。 昔のことをたくさん話しながら山を歩いたことは今も忘れられない。
おじいちゃんもおばあちゃんもおいしそうなものを見つけたらなんでも食べる食べる。
「奪う・与える」
私の祖母“ばばちゃん”が他界したのはもう十年以上も前だ。パーキンソン症候群で寝たきりとなった祖母を埼玉の実家で母を中心に自宅介護をしていて、ちょうど私の規制のタイミングと祖母の最期が重なった。少しずつ衰えていることは目に見えてわかっていたので皆覚悟はしていたが夏の朝早くその時が来た。皆でかわるがわる大きな声で祖母に呼びかける中で大きく最後の一息をして逝ってしまった。その間、まだ幼かった私の子供たちが何もわからずぐるぐるとそのベッドの周りで走ったりおしゃべりをしたりと機嫌よく陽気にしていたので想像していたよりからりとした別れになった。
祖父母、この不思議な存在。誰にでも四人いる、というけれど、自分には実質、祖父母は合わせて三人しかいない。父方の祖父、祖母、母方の祖母だけだ。
母方の祖父は? 実は一切会ったことがない。名前も知らない。今、生きているのか、死んでいるのかすらわからない。他の祖父母三人は全員物故したので、もしこの名も知れぬ母方の祖父が生きていたら、彼が「生存する唯一のソフボ」ってことになる。息してんのか。確認する術すらないけど。
<父方の祖父>享年69歳。酒飲みで仕事は趣味程度、でも仕事していると思われたいのでトラクターに乗るのとかは好き(下手だけど)。
猫が嫌いで、うちで飼ってる猫が視界に入ると水やお湯をぶっかけていた。
医師からどんなに酒を止められても「動かんと呑む」を貫いた。お気に入りはウイスキー角のいいちこ割り。
「おっさん」のこと
「おっさん」とは、私の三番目の祖父。
父方でも母方でもない、祖母のいとこの旦那さん。うちの実家から20mのところに住んでいて、おっさんには子供がいなかったので、私たち三姉妹を本当の孫のように可愛がってくれた。
何故だかうちの家族はみんな「おっさん」と呼ぶ。末っ子の私は特に可愛がられ、生後何ヶ月の写真も、うちの家にいるよりもおっさんの家で撮られた写真のほうが多い。
【ばあちゃんが死んだときに書いた日記】
2006/01/04■ばあちゃん死んだ
ばあちゃんは長男の嫁と昔もめて、それを今でも憎んでいる。それで、ばあちゃんの娘の長女(私の母は三女)は「T子さんは今、ばあちゃんのアパートで料理したり、墓掃除をしているからここ(病院)には来れないの。ばあちゃんも、看病は娘のほうがいいでしょう」といって、ばあちゃんは「そりゃそうだ」と、またT子さんへの恨み辛みをしゃべれる状態じゃないのにぜいぜい言いながら言う。
祖父はシベリアに抑留されていた。
極寒の大地で、薄いスープのみを糧とした。毎日大木を伐採し、運ばされた。トラックのような丸太が突然滑り落ちてきて目の前にいた人間をふっ飛ばし、押しつぶした。
一人また一人力尽きていった。
会うことのなかった晴子さん。子どもの頃にバイバイしたとらさん。
おばあちゃんがいたらなぁってよく思ってた。
でもね。ふたりとも160センチもあったって。
親戚中でいちばん背が高い女の子なのは、きっとふたりの遺伝かな。
僕のおじいちゃんは3歳の時、韓国の済州島からお兄さんとお父さんと3人で小さな漁船に乗って日本に渡ってきたそうです。
好物と信じてスイカを切る祖母と予定調和でかぶりつく盆
公園の鯉が見たいと差し出す手祖父とのお決まりデートコース
道端で背筋を伸ばすハルジオン名前を知った祖母の背中で