【ばあちゃんが死んだときに書いた日記】
2006/01/04■ばあちゃん死んだ
ばあちゃんは長男の嫁と昔もめて、それを今でも憎んでいる。それで、ばあちゃんの娘の長女(私の母は三女)は「T子さんは今、ばあちゃんのアパートで料理したり、墓掃除をしているからここ(病院)には来れないの。ばあちゃんも、看病は娘のほうがいいでしょう」といって、ばあちゃんは「そりゃそうだ」と、またT子さんへの恨み辛みをしゃべれる状態じゃないのにぜいぜい言いながら言う。
小さい頃から、私のおばあちゃんはいつも誰よりも優しく温かく見守ってくれました。誰よりも私の味方で、誰よりも私の事を想ってくれていた気がします。そんなおばあちゃんも、去年米寿を迎えました。気付けば周りには、姪っ子甥っ子が沢山。笑 みんなで米寿をお祝い出来ること、おばあちゃんが健康でいられるのも有難いことです。そんなおばあちゃんとの時間を大切に、これからも過ごしていけたらと思います。
私の祖父母は、父方の祖母を除いてもういない。唯一父方の祖母が生きているが、目を開けているより閉じている時間の方が長い。
80年、90年以上生きてきた彼ら世代のことを知るのは、私の世代が最後になる。
そう気付いた時、彼らのことをもっと知りたい、伝えたい、と強く思った。
好物と信じてスイカを切る祖母と予定調和でかぶりつく盆
公園の鯉が見たいと差し出す手祖父とのお決まりデートコース
道端で背筋を伸ばすハルジオン名前を知った祖母の背中で
おて(私)は婆ちゃんを知らん。
本家の孫、6番目の おてが産まれた時は既に他界しとった。
義父母同居・小姑のおる家に嫁ぐ事を決めた おての結婚式は、何も言わんと泣き通しのお母ちゃんを思たら、さぞかし がいな(気が強い)姑やったに違いない。
「奪う・与える」
私の祖母“ばばちゃん”が他界したのはもう十年以上も前だ。パーキンソン症候群で寝たきりとなった祖母を埼玉の実家で母を中心に自宅介護をしていて、ちょうど私の規制のタイミングと祖母の最期が重なった。少しずつ衰えていることは目に見えてわかっていたので皆覚悟はしていたが夏の朝早くその時が来た。皆でかわるがわる大きな声で祖母に呼びかける中で大きく最後の一息をして逝ってしまった。その間、まだ幼かった私の子供たちが何もわからずぐるぐるとそのベッドの周りで走ったりおしゃべりをしたりと機嫌よく陽気にしていたので想像していたよりからりとした別れになった。
僕のおじいちゃんは3歳の時、韓国の済州島からお兄さんとお父さんと3人で小さな漁船に乗って日本に渡ってきたそうです。
会うことのなかった晴子さん。子どもの頃にバイバイしたとらさん。
おばあちゃんがいたらなぁってよく思ってた。
でもね。ふたりとも160センチもあったって。
親戚中でいちばん背が高い女の子なのは、きっとふたりの遺伝かな。
祖父はシベリアに抑留されていた。
極寒の大地で、薄いスープのみを糧とした。毎日大木を伐採し、運ばされた。トラックのような丸太が突然滑り落ちてきて目の前にいた人間をふっ飛ばし、押しつぶした。
一人また一人力尽きていった。
祖父母、この不思議な存在。誰にでも四人いる、というけれど、自分には実質、祖父母は合わせて三人しかいない。父方の祖父、祖母、母方の祖母だけだ。
母方の祖父は? 実は一切会ったことがない。名前も知らない。今、生きているのか、死んでいるのかすらわからない。他の祖父母三人は全員物故したので、もしこの名も知れぬ母方の祖父が生きていたら、彼が「生存する唯一のソフボ」ってことになる。息してんのか。確認する術すらないけど。