宮本忠長の建築における贈与

連載:建築の贈与論(その6)

中村駿介
建築討論
Nov 25, 2022

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ある一つの景観は、それを見る人の教養と、文化と、職能を通じて、初めて意義をもちうるにすぎない(サン=テグジュぺリ『人間の土地』)

はじめに:宮本忠長について

宮本忠長(以下、尊敬を込めて忠長と呼ぶ)(1927–2016年)は私が最も尊敬する建築家である。地方に拠点を構えながら全国的に建築作品を作った代表的な建築家と言われる。今回は贈与論という視点から忠長の二つの仕事を解釈してみたい。

図1 宮本忠長(出典:『宮本忠長の世界』)(左)
図2 現・野沢温泉村大湯は宮本忠長の父・茂次が設計したものを改築したもの(出典:筆者撮影)(右)

忠長は長野市と小布施町の間の須坂市に生まれた。私の母方の祖母とは近所同士、歳の離れた忠長の妹と私の祖母は友人であったという。建設業の家に生まれた忠長の父・茂次は逓信省で山口文象らと働いた後、父の家業を手伝うために郷土北信濃に戻り、紆余曲折を経て設計事務所を営んだ。忠長は1951年に早稲田大学の建築学科を卒業し、師の佐藤武夫の設計事務所で実務を経験した後に父の設計事務所を引き継いだ。

日本建築学会賞を受賞した代表作の「長野市立博物館」をはじめ、北九州の「松本清張記念館」、津和野の「森鴎外記念館」などを手掛ける。モダニズム建築に屋根をかけることを肯定したところに建築家としての功績があると私は思う。弟で元所長の宮本仁夫氏によれば、忠長の建築の特徴でもある勾配屋根は、積雪による漏水対策としてフラットルーフに勾配屋根をかけたのが始まりだという。その証拠に、忠長が設計した建築の屋根には、屋根葺き材の下に必ずコンクリート層が設けられ、モダニズムの作り方はしっかりと踏襲されている。厳しい雪国の風土に耐える建築の長期的持続を願った結果が、モダニズムの象徴ともいえるフラットルーフに日本的な勾配がついた置屋根工法を受け入れたのだろう。

図3 長野市立博物館(左)(出典:筆者撮影)、図4 森鴎外記念館(中)(出典:筆者撮影)
図5 RC造の屋根納まり(右)(出典:『ワンポイント=建築技術:寒冷地工法』)

私が宮本事務所で働いていた際、忠長が所員に読ませた三冊の本があると先輩方から教わった。一冊は分からずじまいであったものの、二冊は芦原義信の『街並みの美学』と和辻哲郎の『風土』であった★1。この二つのテクストと忠長の仕事を元に、現代建築家による贈与論的建築行為を論じて、連載の最後を締めたいと思う。

図6 飯山市伝統産業会館・飯山市美術館(出典:筆者撮影)(左)
図7 『街並みの美学』、『風土』(右)

芦原義信『街並みの美学』

『街並みの美学』は学生の時に必ず読むような名著であり、その功績は「外部空間」なる言葉を建築家が扱うものとして世に出したことであろう。そこでは和辻哲郎の『風土』にある内と外の概念を引きながら、ヨーロッパのような統一感のとれた美しい街並み(外部空間)をつくる創造的手法を提案する。なかでも「街並みの美学」を成立させるためには、「内部」と「外部」の区間領域について、はっきりとした領域意識をもつことが必要であるという★2。

図8 『街並みの美学』より内部と外部の図(出典:『街並みの美学』)

小布施のまちづくり

芦原の思想は宮本忠長の仕事に大きく影響を与えたと思われる。忠長の代表的な仕事の一つである小布施のまちづくりをする際に、住民に唯一共有されたのが「ソトはミンナのもの、ウチはジブンたちのもの」というテーゼであったからである。

図9 小布施町地図、灰色で網掛けされた部分が当初修景が行われた地区(図14、図16)
(出典:「小布施町並修景計画」(『住宅特集』1987年6月)を元に筆者作成。)

小布施町並修景計画は1976年の「北斎館」の完成が発端であったと言われる。北斎はその晩年に弟子の高井鴻山★3のすむ小布施を四度訪れ、町内には多数の作品が残されていた。「北斎館」はこれらを中心とした葛飾北斎専門の収蔵と研究拠点として開かれ、小布施を北信濃有数の観光地にした。時の町長・市村郁夫氏が旧知の仲である茂次氏の息子・宮本忠長を重用し、忠長は小布施の公共建築を次々と手掛けていった。郁夫氏は社長でもあった小布施堂の建築を伝統的な佇まいに戻して一般に解放しようとしていた。79年に市村郁夫氏が他界したのちは、息子の次夫氏が自邸の土地を「笹のひろば」として一般に開放する形でまちづくりの機運は高まっていく。「北斎館」前の休憩所「宗理庵」や落雁工場「傘風舎」には、住民や来訪者のために公益性をもった空間として緑地帯を開放した。

1982年からは修景を手法とする基本構想を策定し、地権者と協議しながら少しずつ町全体に修景を施していく★4。小布施のまち歩きをする際に人気の「栗の小径」や「幟のひろば」などの区画はこうして整備された。

図10 北斎館(出典:いずれも筆者撮影)
図11 笹のひろばと傘風舎(左)、図12 栗の小径(中2つ)、図13 幟のひろば(右)(出典:いずれも筆者撮影)

忠長は建築の内部プランを検討するように、建築の外部プランを検討した。これにより地権者相互の言い分を伺いながら土地を交換し、誰もが納得するよう住環境の整備を実現した。街道沿いの真田達男氏と市村次夫氏が土地を交換し、市村公平氏と長野信用金庫が土地を交換しあったという★5。こうした土地の交換は金銭の授受を用いずに、誰か一人が得をしないように行われた。さらに市村次夫氏は「栗の小径」となる路地の敷地を提供し、長野信用金庫などの駐車場ともなる「幟のひろば」も幾つかの敷地を借地し作られた。住民による空間や土地の互酬的贈与によって、魅力的な外部空間は形成されたといえる。

図14 小布施修景地区の土地所有の変化
(出典:「小布施町並修景計画」(『住宅特集』1987年6月)、『小布施 まちづくりの奇跡』を元に筆者作成。)

そして、こうした外部空間を成り立たせるために掲げられたのが「ソトはミンナのもの、ウチはジブンたちのもの」というテーゼであった。これは、町並みに関わる外部は周囲の環境と協調し、自分の家の内部は各々の好きに設えるというものである。2005年には一般の住民の庭(もちろん住人が許可した部分にだけ)を開放するオープンガーデン運動などに結びつく。芦原義信の提唱する内と外の空間意識は意識的に用いられたといえよう。

図15 公開された庭(出典:筆者撮影)

和辻哲郎の『風土』

次に、忠長の建築を語る上で欠かせないのは「「風土」に根ざす」という言葉であろう。今でも一般的に使われる「風土」という言葉は、古来から「風土記」という言葉があるものの、忠長の「風土」は和辻哲郎の『風土:人間学的考察』に影響を受けている。『風土』は他の諸民族との文化との比較において、日本文化を位置づけようとする日本文化論である。簡単にいえば気候が気質や性格を決め、その結果が芸術や文化に影響するというものである。和辻はこの風土を自然条件からモンスーン・砂漠・牧場と大きく三つに分類し、それぞれの気質を分析した。たとえば家屋の「様式」は、寒さや地震、湿気などの風土の制約に適合する条件を秩序づけることで家の作り方が固定化されて形成されるという。

「風土」は忠長のなかで再解釈され適用されたと考えられる。というのも、風土とはそれを見る人、感じる人によって、感じ得るものが異なるからである。たとえるなら、日本の観光客は懐かしさを感じても、外国からきた観光客は小布施に懐かしさは感じなく、むしろ新鮮に見えるだろう。小布施における風土とは、忠長と小布施の住民にとっての風土であった。

修景における古建築の贈与

忠長の修景で行なわれた建築行為は大きく分けて3つある。伝統形式による新築、勾配屋根をかけた近代建築による新築、古建築の曳家による移築である。なかでも重要な要素として「曳家」がある。曳家は建物を解体せず、全体をそのまま持ち上げて別の場所へ移動させる移築手法である。小布施の修景での曳家の手法は、主に土蔵に適用された。土蔵は隣町の須坂でも有名であるが、黄土色の土壁による外観は小布施ではよく見られる伝統的な形式である。これが小布施の風土により形成された建築であったと考えられる。

図16 開放された外部空間と新築・移築建築物の関係
(出典:「小布施町並修景計画」(『住宅特集』1987年6月)、『小布施 まちづくりの奇跡』を元に筆者作成。)

今、一般に開放された外部空間と建築行為を図化してみる。必ず古建築と新建築が組み合わされて外部空間に配置されていることが分かる。ここで意識されたのは土蔵であった。とくに顕著であるのが「幟のひろば」で、新しい形式で新築された長野信用金庫と伝統的な形式で新築された小布施堂本店の奥は、曳家された土蔵が取り囲み、「幟のひろば」は古く懐かしい空間を感じることができる。市村次夫邸・市村公平邸の外部空間も同様で、どこに立っても必ず伝統形式の建築が目に入る仕組みになっている。とはいえ、この空間構成だけが修景の神髄ではない。「栗の小径」の終点となる「笹のひろば」は、煉瓦を外装とする「北斎館」と「傘風舎」で囲われるためか他の外部空間とは一味違い、シエナのカンポ広場のようなヨーロッパの広場のごとく散策のクライマックスを感じさせる。

図17 長野信用金庫小布施支店(出典:筆者撮影)

つまり、小布施の都市空間を贈与論を元に考えると、外部空間が贈与物となるだけでなく、外部空間を構成する土蔵の外壁面が贈与物にあたる。こうした土蔵や伝統形式の新築を喜んだのは小布施の住民であった。忠長の目指した「人の生活がある、生き生きととした空間」は住み手への贈与でもあった。そして、住民同士の互酬的贈与による余剰が、結果として観光客をもてなしたのであった。これら古建築を用いた外部空間の活用は、前回提言した「環境保存」と表裏一体のものといえるだろう。

風土に根ざすとは、風土を守るという意識を越えて、風土により作られた建築を外部空間に贈与することなのではないだろうか。さらにいえば、風土は見る人間の素養によって大きく変わるはずで、忠長の「風土論」を発展させるには、建築史学や歴史学・地理学などの郷土ごとの忘れられた魅力を発掘する学問には大きな可能性があると思う。

近代的移築建築としての「緑艸舎」

忠長の現代建築と伝統建築への関心は、忠長と最も身近なところに現われる。宮本事務所の社屋「緑艸舎(りょくそうしゃ)」の評価は今の建築界ではほとんど語られないが、贈与的な関心の元では非常に興味深い建築である。建築道場と呼ばれるこの建築は、1階を鉄筋コンクリートで箱形に打ち、その上に鉄骨の大引・根太を渡してコンクリートスラブを打った箱形の人工地盤の上に、平屋の民家を載せた形式をとる。民家は忠長の早稲田大学時代の同級生である建築家・池原義郎氏のご令室の実家、長野県飯山の元藩医の家・川口家住宅を忠長が譲り受けたものであった。原案は忠長の卒業設計「雪の田園住宅」(1950年)と見られ、RC造の1階の上に木造の2階を立てる構成が見事に体現されている。

当初、一階は建築事務所、二階は畳敷きの広間や図書室に忠長の住居を兼ねた兼用住宅とされた。忠長は建築の私塾を開くために広間を使い、現在は会合などが開かれている。

図18「雪国の田園住宅」(出典:『宮本忠長の世界』)
図19 緑艸舎外観(左)、図20 緑艸舎内部(中・右)(出典:いずれも筆者撮影)

忠長は民家の移築にあたり、⑴空間構成のポイントは守ること、⑵建築の保存は機能性をもって日常のなかに溶け込むこと、⑶特にディテールは完全に復元すること、の3点を大原則とした。

なかでも、⑴空間構成のポイントが重要である。長屋門を入って母屋の主空間が左に見え、母屋の続きに土蔵棟が結ばれる。解体前の図面と比較すると、主屋と長屋門の関係を保持したまま約90度回転させ移築したことが分かる。とくに、古材が腐食して転用できなかった長屋門に関しては、原寸を採って新材で復原している。現在、長屋門は二階建てに、駐車場の位置する部分には新築の事務所が建っている。改築時の検討スケッチによれば、高さを含めた空間構成のポイントを押さえようとしていることが分かる。これらはいずれも鉄筋コンクリートの上に木造建築を立てるという、主屋と同様の手法を用いて、旧川口家時代からの敷地の空間構成は守られている。

異なる場所への移築にも関わらず、りんご畑の景観に佇む民家が馴染んで見えるのは、元の敷地環境まで含めた保存(「環境保存」)が要因といえるだろう。

図21 長屋門の立面(左)(出典:「緑艸舎」『新建築』1984年11月。)、図22 長屋門と主屋で囲われた間(右)(出典:筆者撮影)
図23 緑艸舎配置図(左)、図24 旧川口家住宅配置図(右)(出典:「緑艸舎」『新建築』1984年11月。)
図25 緑艸舎の増改築時における検討スケッチ。既存の緑艸舎と新築される長屋門・設計室棟の空間構成を断面方向から検討する(出典:筆者撮影、宮本忠長設計事務所蔵)

むすびに

贈与論的な解釈の元、建築家・宮本忠長の建築を読んでみた。まちづくり(修景)は⑴空間の贈与と⑵風土の産物として伝統建築(ここでは土蔵)の贈与が行なわれている。また、古建築を活用するにあたり、空間構成を守る移築(「環境保存」)の手法をとっている。これら建築の贈与論的建築手法は、建築家・宮本忠長によって無意識的にせよ近代建築に適用されてきた。

とはいえ、元は江戸時代に栄えた宿場町の一つに過ぎない“おぶせ”を人気の住宅地・観光地にしたのは、小布施の住み手達による弛まぬ贈与であったとも考えられる。栗の小径は雨雪の日には滑り、オープンガーデン運動は不許可の住民の庭に迷い込む観光客もいると聞く、彼等住み手の心づかいが最たる贈り物なのかもしれない。

連載を終えて

最後に、はじめに設定した三つの問い(①贈与し受容する建築の贈与物とは何か、②都市の互酬的働きがあるか、③建築に聖なるモノは宿るか)に応えてみたい。

まず、①建築の贈与物とは、現代都市でみてきたように、鉢植や空地・私道など都市環境において歴史的な変遷を経て育まれたものであった。都市空間と繋がる庭でありファサードも贈与物の一つとなろう。そして、こうした贈与の②互酬的働きによって、下町の街並みをはじめとした統一感のある街並みが形成される。

次に、②互酬的働きは、とくに前近代の都市において等しく表れるものではなかった。前近代の門前町のように、領主寺院から信仰者や従属者に与えられる空間や客の融通といった贈与は身分の上から下へと行われ、桜井英治氏らが指摘するように、有徳銭や浄財の贈与行為としての側面に近い★6。こうした階層差のある贈与は現代都市の“公開空地”制度と近しい性格をもつのかもしれない★7。

また、③建築と聖なるモノの関係は時代と社会ごとの美を意識することで分析が可能となる。社会階層が流動的な近代初頭では、伊勢神宮の社殿形式の模倣や、財界人の私邸への古建築移築など、聖なるもの(貴重品)としての建築が現われる。他方、階層が固定化した一般の社会においては、神社社殿の遷宮にみられるように、建築の形式と材料の保存が建築の聖性をもたらす要因として重要であった。こうした、建築を聖なるものにする社会ごとの美を元に、贈与論的な古建築の活用行為として「環境保存」を提案した。

そして、これら建築の贈与論は、建築家・芦原義信や宮本忠長によって無意識的にせよ都市・建築に適用されてきた。とくに宮本忠長は地方を代表する建築家ではなく、贈与論的手法を重用した建築家として位置づけられる可能性がある。

図26 建築の贈与論のモデル(筆者作成)

最後に贈与の種類いくつかに分類してみた(図26)。同階層の関係下での贈与の他に、階層に上下のある関係での贈与もある。また、同階層の贈与のなかにも、住民の間で完結する贈与と、旅人などの非住民を関係に含んだ贈与がある。いずれの贈与が作る景観も我々を楽しませてくれる。

こうした贈与によりできる空間を都市・建築で意識的に見出だすことが、魅力的な都市空間(外部空間)をさらに楽しむために重要であろう。建築家や事業者といった作り手だけでなく、住民や来訪者といった住み手による建築行為への参画は、魅力的な都市空間を営む上で不可欠なものであろう。

最後に、一年間の連載させて頂きありがとうございました。また、編集オブザーブを引き受け、毎月の連載のアドバイスや編集をはじめ、弱気になる私の背中を押して頂いた小柏典華先生には、なお一層の感謝を申し上げます。

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参考文献

  1. 「週刊長野記事アーカイブ:宮本忠長さん」『週刊長野』2008年10月11日~2009年3月21日掲載(週刊長野記事アーカイブ: 宮本忠長さんアーカイブ (weekly-nagano.main.jp) 最終閲覧2022年11月16日)
  2. 「日本工行経済新聞社インタビュー:宮本忠長日本建築士会連合会会長」2005年10月19日(宮本忠長日本建築士会連合会会長 | 日本工業経済新聞社 (nikoukei.co.jp) 最終閲覧2022年11月16日)
  3. 『白寿をお祝いして』私家本(宮本茂次氏の白寿のお祝いの際の冊子)
  4. 向井覺『建築家 山田守』東海大学出版会、1992年6月。
  5. 川向正人『小布施 まちづくりの奇跡』新潮社、2010年3月。
  6. 「小布施町並修景計画 1987~1992」『新建築』新建築社、1992年11月。
  7. 「緑艸舎」『新建築』新建築社、1984年11月。
  8. 「小布施町並修景計画」『住宅特集』新建築社、1987年6月。
  9. 宮本忠長『住まいの十二か月:建築家の現場から』彰国社、1992年12月。
  10. 宮本忠長『ワンポイント=建築技術:寒冷地工法』井上書院、1980年。
  11. 宮本忠長建築設計事務所『宮本忠長の世界』建築画法社、2017年。
  12. 芦原義信『街並みの美学』岩波書店、2001年(元は1979年2月に岩波書店より刊行され、1990年ライブラリー版、2001年岩波現代文庫版として刊行)。
  13. 和辻哲郎『風土:人間学的考察』岩波書店、1979年(元は1935年に岩波書店より刊行)。

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★1:個人的には、槇文彦 他『みえがくれする都市』(鹿島出版会、1980年)ではないかと推定している。本文を書き終えた後、九鬼周造『「いき」の構造』(岩波書店、1930年)であるという話を伺った。
★2:たとえば芦原は、特定の建築基準法に関わる場合を除いて、民法第234条(外壁を境界線より50センチメートル以上離すことが必要である)を改正して、隣地との境界線ぎりぎりに建物を建て、隣地境界線の両側にあいた50センチを道路側に持っていって、道路沿いに1メートル幅の前庭をつくるなどの提案をする(芦原義信『街並みの美学』)。
★3:高井鴻山(たかいこうざん)(1806–83):幕末・維新期の信濃国の豪農で文人。本姓は市村、鴻山は号。祖父作左衛門は松代・飯山・須坂・上田・高田諸藩や京都九条家の用達を勤めた資産家。天明の飢饉に際して窮民救済のため献金した功績により、幕府から高井姓を与えられ、鴻山はこれを用いた。祖父のすすめで文政三年(1820)京都に出て、儒学・書画を学んだ。天保三年(1832)に江戸に出、陽明学者佐藤一斎の門に入り、また国学・蘭学も学んだ。同七年帰国、凶作に苦しむ窮民に自家の蔵を開放し、救済した。その知識・教養は多方面にわたりみずから書画・詩文を能くしたが、晩年の葛飾北斎を天保十三年から4回にわたり小布施に招き、この地にその作品を残すこととなった(「国史大辞典」を参照)。
★4:「修景という「字句」は、辞典にはありませんが、私は、景観を「修める」という意味で、用語としては、ぴったりと考えます。(中略)単に形態や色彩でのみ張り合ったり、また似せて統一してもよくないのです。要は、高さ、ボリュームなど空間の尺度(スケール)を「向こう三軒両隣」で統一することが修景の大事なポイントです。」(『住まいの十二か月』p184)
修景-「ソトはミンナ(公益)のモノ ウチはジブン達(私利)のモノ という設計理念を基本に 風土と同化・調和・緩やかな対峙を原則として そのうえ 加えて近代の感性に満ちた 芸術の創造であり棲む人々 が心地よい生活を持続できる 環境を作り上げること」(私の設計ノート)『宮本忠長展-五十二年の軌跡-』一般社団法人長野県建築士会発行、2017年に所収。
★5:「互いに土地の売買はしないことを、五者会議で確認しあった。これから行う敷地形状の変更は、あくまでも協力して望ましい生活環境を獲得してゆくためのものだから、まったくの第三者にも売らない。仲介を入れずに当事者同士が直接話しあって土地を交換することにした。金銭の授受をともなわない交換という方法を採用することで、新たな経済的負担を生じさせない。わざわざ評価手数料支払って第三者に地価を決めてもらうこともしなかった。地価の差をいいはじめると、敷地の再編成そのものがストップするかもしれない。面子や小さな損得勘定で計画を頓挫させないために、当事者同士が話しあい納得して土地を交換する方法を選んだのである。」(『小布施 まちづくりの奇跡』p83)
★6:「貧者への施行・喜捨が神仏、とくに仏への贈与と一体のものとして把握されている点である。世界史上には、貧者への施しを神にたいする贈与と等価な行為とみて、モース―ゴドリエの「第四の義務」と結びつけて理解していた社会や文化もあると前に述べたが、中世前期の日本にも同様の信仰が存在したことが伺えよう。」(桜井英治『贈与の歴史学』中央公論新社、2011年、p44。)
★7:建築史研究者の高橋康夫氏は「公開空地」制度に触れ、「巨大化した現代都市のまっただなかに新たな人間的空間が創出されつつある。それは、総合設計制度などにおいて容積率の緩和の代償として提供された空地であり、広く一般に公開される。中世風には「公界の大道」、現代的には「人と都市のインターフェース」ともいうべきこの公開空地は、人と人が、また人と建築がふれあう空間として大きな意味をもっている。庭が空間造形の芸術であるとするならば、今求められていることは、こうした公開空地ひいては都市空間そのものを庭と見立て、都市空間に人間性を回復すべく、庭作りの手法を広汎にもち込むことであろうか。」としている。(高橋康夫「都市空間と庭」『朝日百科 日本の歴史:第5巻』朝日新聞社、1989年4月8日、p5–256。)

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中村駿介
建築討論

なかむら・しゅんすけ/1990年長野県生まれ。東北大学卒業、東京大学大学院修了、宮本忠長建築設計事務所勤務を経て、東京大学大学院博士課程。専門は日本建築史(中近世門前町研究)、建築理論、建築設計。