十和田市商店街の中にある創業70年の老舗洋菓子店 ふくだ菓子舗。 懐かしさを感じさせるあたたかな味わいのケーキは、十和田市民から長く愛されて続けています。…
* この物語はフィクションです。
一、グループワーク
目に見えるものを矩形の紙へ鉛筆できれいに写しとり、水彩絵具で丁寧に色をつける。新緑の校舎、花瓶に生けられた花、お母さんの顔。子供の時から、教わらなくてもこういう写生は、けっこう上手にできたと思う。「夢の街」、「水族館の思い出」、そういう想像の絵もそれなりに描けたけれど、写生が一番好きだった。修行僧のように、そこにある世界に自分だけが向き合って、黙々と筆を動かす、静かな時間が好きだった。絵を描く仕事をするなら、そうやって一生を穏やかに過ごすことができるはずだ。…
四人のおしゃべりは楽しかった。コウタとわたしは好き嫌いがはっきりしていて、好きなものを褒める時も、嫌いなものをこき下ろす時も、競い合うように言葉を尽くした。
レイイチは美術史についても、戦後の美術の動向についても詳しくて、よく教えてくれた。それと、彼は漫画に詳しかった。当時、少年誌はもちろん、少女誌、クリエイティブ系に至るまで、漫画文化は黄金期を迎えていた。「すごい漫画家が出てきたよ」と大友克洋を教えてくれたのは彼だった。
二、カルマ
「あめんぼあかいなあいうえおー!」
四人ほどが列をつくって大きな声で発声練習をしているところにやってきたわたしたちは、ものすごく場違いなところに来てしまったと、とっさに思った。しかしタケシの高校からの先輩がわたしたちを見つけ、「最初は様子見ながら、やってる人たちの真似して声出して!」と促した。わたしたちは仕方なく列に並んだ。
わたしたちは三回生になった。タケシの高校の後輩だった高島田マモルをはじめ、のちに座カルマの屋台骨となっていくメンバーが新入生としてごそっと入団してきた。コウタは、荷が重いからと、タケシに座長をゆずった。
タケシは新入生の特技を見極めて勧誘する技術に長けていた。
「大道具うまそうだからちょっとだけ手伝ってくれへんか?」
それからまもなくのこと、後輩のマモルが「嶋さん、ポケットにトリスの瓶、持ち歩いてます」とわたしに教えてくれた。
「ずっと飲んでます。朝起きたらまず飲まないと手の震えが止まらないらしいです」
最終公演の時以来タケシには一度も会っていない。さすがに心配になって、わたしはコウタとレイイチに相談した。
わたしも「勝手にやっちゃえば」と言った手前、責任を感じて、タケシに同行することにした。ビクビクしながら、わたしたちは府庁に土木課[1]を訪ねた。会議室に通され、怒られるんだろうなと、ビクビクしながら待っていると、女性が茶托に乗ったお茶を二つ、お茶菓子と一緒に持ってきた。高級そうなお茶碗にはちゃんと蓋がついていた。一口啜ると、今まで飲んだことがないくらい高級で美味しいお茶だった。様子がおかしいぞとオドオドしていると、五人ほどのスーツ姿の職員が入って来て、一列に並んだ。
「アートネットワーク’83 — さまざまな相互作用 — 」というタイトルの、記念すべき手作りアートプロジェクトは、1983年八月に開催された。京都市内の数カ所で同時開催の展覧会という形だった。キュレーターがいたわけでもなく、コーディネーターがいたわけでもない。だから次々と噴出する問題に、マネジメント担当のわたしとタカコが必死に対応した。出品作家は大学院の同級生を中心に先輩や後輩に声をかけ、噂を聞いた大先輩達も出品協力してくれることになり、総勢四〇名が出品する大規模な展覧会となった。
いま自分が存在している世界は、どんな場所であるか。森北伸の作品は、自分を取り巻く世界の捉え方のヒントをくれる気がする。
彼は同時にゴジラと同じサイズの、素焼き風のハニワも作っていたのだ。
タケシは大学院の最終審査会を公開のパフォーマンス仕立てにしたいと教授たちを説得した。会場となった芸大ギャラリーには、青海波の屏風四〇枚がセットされ、その真ん中にゴジラとハニワが並んで立っていた。正面に、審査をする教授たちの席が用意され、その周りには、タケシが何か面白いことをするらしいという噂を聞きつけた同級生や後輩たちが集まっていた。むかしの、カルマの公演のような熱気だった。タケシの作品には、《六年間の結婚生活…
These were the top 10 stories published by Towada Art Center; you can also dive into yearly archives: 2017, 2019, 2020, 2021, and 2022.