芳賀沼整さんのこと

2019年12月21日に亡くなった整さんを思い出して。

芳賀沼整さんが去る12月21日に亡くなった。61歳であったと25日の告別式での喪主挨拶で知った。僕にとつては最も尊敬する建築家のひとりだが、年齢や家族など私的なことはよく分からない不思議な人だった。3月1日(昨日)「整さんを偲ぶ会」が開かれる旨の案内をいただいていたが、残念ながら失礼をせざるをえなかった。

2017年6月19日 小高にて。下に見えているのは、はりゅうウッドスタジオのリノベーションにより、家主のSさんが夫婦で住みながら集落の復興拠点とした家。Sさんと芳賀沼さんの関係は、福島アトラスにとっても象徴的なものであったと思う。

僕が芳賀沼さんに初めて会ったのは八戸だった。2012年6月17日に開かれたシンポジウム「日本建築学会東北支部・みちのくの風 2012 青森」にお互い登壇者として同席したのである(大沼正寛さんらの企画)。芳賀沼さんの講演には大変な感銘を受けた。はりゅうウッドスタジオとかいう奇妙な名前の事務所を引っ張る建築家・芳賀沼整(社長は滑田崇志)。この人は木造仮設住宅の社会的・産業的な可能性を誰よりも大きな視野でまったく独自に捉え、1年間で仮設に住む3千もの人々と話をし、必要と判断した構想をすぐさま実行に移し、あまつさえ先を見据えた社会実験にも資金を投じている・・・。尋常ならざる人だと思った。

近現代の災害復興(『建築雑誌』2013年3月号で「近代復興」と呼ぶことにした)、とくにその時空間的なフェーズデザインは阪神淡路・東日本である種の極限に至ると同時に自壊しはじめたと僕は考えているが、その前提条件のいびつさには前々から疑問があり、歴史的に調べたり友人や学生と議論したりして、それなりの持論も持ち合わせていた。しかし目の前に恐ろしく力強い実践者が現れたことに心底驚き、興奮し、そして率直な尊敬の感情が湧き起こる喜びを抑えられなかった。滅多にない経験だった。

2015年1月25日 小高にて。定番のヒートテック+薄手のダウン。風体から僕はいつも熊の神か何かだと思っていた。

その後、編集委員長をつとめていた『建築雑誌』に登場いただくことがあったが、僕個人にとっての再会は2015年1月25日だった。芳賀沼さんの導きで、五十嵐太郎、浅子佳英、中川純といった方々とワンボックスカーで福島の被災地をめぐる1日ツアーであった。このとき初めて原発事故避難後の福島を、ごく一部ではあったが実見し、大熊町の帰還困難区域にも住民の方のご案内で入った。夕方郡山で左記メンバーに浦部智義さんを加えてトークイベントがあった。このときの議論は『建築ジャーナル』2015年4月号に掲載されている(こちらも参照)。

これが僕にとっては福島との最初の遭遇となった。同誌で僕は災害にかかわる建築家の役割をめぐって、手探りながらそれなりの自信をもって発言し、記事を執筆した。芳賀沼整という実在のモデルがいたからだった。上にも書いたが、芳賀沼さんは僕が最も尊敬する建築家のひとりだとつねづね公言している。逆にいえば僕は災害のこと、福島のことについて、ステロタイプや観念論に逃げ込むことは許されない。彼の眼があるからだ。しかし僕のことはどうでもいい。社会全体にとって彼の死は大きな損失だと思う。

2016年夏あるいは初秋だったか、芳賀沼さんから連絡をもらって新宿で会った。用事は何でもたいてい電話という人で、正直それを面倒に思うこともないではなかったが、それはともかく、芳賀沼さんはこのとき僕に大事な仕事の相談に来たのだった。彼はNPO福島住まい・まちづくりネットワーク(代表難波和彦)の理事であり、その実質的な支柱だった。相談というのは、同NPOの事業として福島避難12市町村全域の事故後の推移を可視化する地図集をつくりたい、青井にその監修を頼みたいということであった。彼が構想したNPOの地図作成のプロジェクトがすでに福島県の補助事業に採択されていた。

原発事故災害という「見えない災害」を可視化し、事態をまずは一望できるようにすること、そのために情報の論理的再解釈(再現)の方法であるインフォグラフィクスを使うこと。これらを『01』の基本線とし、編集を川尻大介さん、デザインを中野豪雄さんにお願いして、有志学生数名もチームに入り12月から翌年2月にかけて一気に資料収集・取材と制作を進めた。2017年3月に『福島アトラス01』約5万部ができ、12市町村全戸に配布される(もちろんほとんどが避難先)。繊細な情報を扱うので細心の注意を払ったが、突貫工事であったことは間違いなく、一部に致命的なミスをおかし、のちに芳賀沼さんに伴われて関係の方にお詫びしたこともある。その後、工学院大学の篠沢健太さん、isna designの一瀬健人さん・野口理沙子さんなど仲間が増えた。

ところで福島の被災地については、当時も今も、専門家のサポートは決して多くない。もちろん建物の被災判定など建築専門家が様々な形で尽力したが、岩手や宮城の津波被災地に建築家やプランナーや大学研究室が復興支援のために多数入ったのとは、まるで事情が違った。僕も相談を受けた時点では福島のことは無知に近かった(『建築雑誌』編集長の頃に饗庭伸さんを中心に福島特集を組んだことは大きな学びだったが)。でもそれほど躊躇はなかった。とにかく芳賀沼さんの話す福島の生々しい事実と構図と、そして哲学と倫理に耳を傾け、吸収しながら、自分が見たり聴いたりした経験と撚り合わせ、頭を調律しながら『01』をつくった。その過程で、たぶんかなり早い段階であったと思うが、僕は芳賀沼整の解釈者ないしはゴーストライターになろうと決めた。決して消極的な意味ではない。

福島アトラスはその後、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館「建築の民族誌」(キュレーター:貝島桃代ほか)に出展され、僕はオープニング・カンファランスで報告・議論の機会を得た。10+1 website にも貝島さんとの議論が載っている。グッドデザイン賞ベスト100および特別賞をいただいた。『Speculations』に採録いただき、またドイツの雑誌『Arch+』でも近刊予定の号に記事が載る(ドイツ語)。

福島アトラス ラインナップ:
01:避難社会の俯瞰的可視化
02:避難社会の住まいの可視化
03:避難社会と環境世界 ― 小高
04:避難社会と環境世界 ― 葛尾
05:避難社会と環境世界 ― 飯舘(作成中)
06:中間総括(検討中)

先日、鎌田誠史先生にお招きいただき、武庫川女子大学の生活美学研究所で講演の機会を得た。芳賀沼さんが亡くなってから福島とアトラスのことを外で話す最初の場だったこともあり、力が入った。コメンテーターの佐藤浩司さん(元 国立民族学博物館)が僕の話を真摯に重く受け止めてくださったことを肌で感じた。これは福島アトラスにとって大きな糧になる。2020年は中間総括的な位置付けで節目となる活動を展開することになるだろう。これは芳賀沼さんが亡くなる3週間ほど前に、東京での打ち合わせで我々に語った方針であり、僕もそれに大いに賛成したのだが、結果として私たちにとってはそれが芳賀沼さんの最後の言葉になった。

2017年11月11日 浪江にて。いつも薄着だった。

本当に、本当に残念でならない。僕は知り合って7年、アトラスを通じて濃密にお付き合いさせていただいたのはわずか3年と少しだった。そんな僕があまり感傷的になるのもおかしいのだろうが、もっと芳賀沼さんにしっかり向き合えばよかったと心から悔いている。我々が福島各地を取材で廻っているとふいに現れ、そして彼の倫理観に満ちた、しかしとても整理されているとはいえない文脈不明の行動哲学を話したかと思えばまたいつの間にか消えている。東京から来たとか、これから熊本に行くとか、そういう移動のなかでわずかな時間を捻出して我々に顔を見せ、外してはならないポイントを伝えに来るのだ。

神出鬼没。いつもそういう風だから、といえば言い訳になるが、それが芳賀沼さんとの接し方だった。彼はたぶん文字どおり寝ずに走り続けていた。告別式で各界からたいへんな数の参列者が流れていくその片隅で手を合わせながら、彼がいかに精力的に動き、いかに倫理と熱意に満ちて人に接していたかを思い知らされた。その芳賀沼さんが白血病で病院から出られない日々を何ヶ月も過ごすなど、途方もなく耐え難いことだったろう。

福島の避難社会をじわじわとでも変形させ前進させる力、そして同時に地域の産業的ネットワークを賦活する力、さらには人間の如何ともしがたい心の欠乏に働きかけることのできる力、そういうものを建築は持たなければならないと彼は信じていた。芳賀沼さんはそれを現実のものとするために奔走していた。誰にも曲げられぬ筋みたいなものを、矛盾ばかりの現実の文脈のなかで彼は守ろうとしていた。

福島アトラスの2020は重要な年になる。芳賀沼さんに見せられるものをつくらなければならない。

芳賀沼さん、そちらでもきっと色々な人のところを走り回っているのでしょうね。ほどほどに頑張ってください。■

2017年5月14日 大内宿にて。『福島アトラス01』刊行後の慰労会。この日も蕎麦を食った後、芳賀沼さんはどこかに消えていったような気がする。

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青井 哲人 AOI, Akihito
VESTIGIAL TAILS/TALES: aoi's journal

あおい・あきひと/建築史・建築論。明治大学教授。単著『彰化一九〇六』『植民地神社と帝国日本』。共編著『津波のあいだ、生きられた村』『明治神宮以前・以後』『福島アトラス』『近代日本の空間編成史』『モダニスト再考』『シェアの思想』『SD 2013』『世界住居誌』『アジア都市建築史』ほか