視点:文化人類学への開かれた招待 第2版 —第12章 グローバル化—

Japanese translation of “Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”

Better Late Than Never
102 min readJun 22, 2020

コミュニティーカレッジ人類学協会(SACC)のサイトで公開されている教科書“Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

第12章 グローバル化

ローレン・ミラー・グリフィス、テキサス工科大学
lauren.griffith[at]ttu.edu
https://www.depts.ttu.edu/sasw/People/Griffith.php

ジョナサン・S・マリオン、アーカンソー大学
marion[at]uark.edu
https://fulbright.uark.edu/departments/anthropology/directory/profile.php?uId=marion

学習目標

•グローバル化と、グローバルなフロー(流れ)または交換を特徴付けるために使用される5つの「スケープ(光景)」を定義する。
•グローバル化と新しい「グローカル」な生活様式および消費形態を作り出すこととの関係を説明する。
•シンクレティズムや代替市場への参加など、グローバル化に対応するために人々が代理物を使用する方法のいくつかを記述する。
•グローバル化、ネオリベラリズム、新植民地主義の関係を評価する。
•グローバル化の増大の利点と欠点を評価する。
•人類学に対するグローバル化の影響について議論する。

火曜日のキャンパスで、あなたは食堂に入ります。その日の温かいランチの前菜には、マンゴーサルサソースのかけられたカリブ風のジャークポークにコラードの若葉が添えられています。次の場所では、注文を受けてから調理されるアジア風炒め物を提供しています。サンドイッチのカウンターでは、アメリカの伝統的なツナサラダがピタパンに挟まれて提供されています。さて、これらの料理は真正なものでしょうか?もちろん、それはあなたが真正性をどのように定義するかによります。[1]2015年12月にオーバリンカレッジで、外国の料理を改変して取り入れることは社会的不正の一種であると学生グループが主張した際に、同様の疑問が持ち上がりました。[2]彼らの主張は、カフェテリアによる盗用と民族料理の不十分な出来栄えは、それらのレシピが持ってこられた文化に対して無礼であるというものであり、多くの論争を引き起こしました。多くの人々が、この学生たちの懸念を過剰反応か、あるいは運営側からの応答を獲得しやすいように政治的な意味を持たせた社会正義の言語で行われた、いつもの不満(カフェテリアの食べ物がまずい)を言い換える試みであるとして片付けました。人がこのケースについて何を考えるかに関係なく、そのことは、大学のキャンパスが(さらにはそれらが置かれているより大きな社会が)、時間とともにどのように変化しているかを明らかにしています。オハイオ州にある大学のカフェテリアで寿司やバインミーのサンドイッチなどの料理すら味わうことができるという事実は、グローバル化が激化したことを示唆しています。学生が外国の料理を盗用することの倫理的意味に疑問を投げかけるほど十分に内省的であるという事実は、私たちが真に新しい時代にいることを示唆しています。しかし、実際には、グローバル化とは何でしょうか?

概要と初期のグローバル化

グローバル化は、公の言説で一般的に使用されている言葉ですが、今日の社会ではしばしば大まかに定義されています(「文化」という言葉自体によく似たように)。英語では1940年代に初めて登場した「グローバル化」という用語は現在では一般的であり、商品の流通、迅速かつ猛烈なアイデアの交換、および人々の動きを議論するために使用されています。[3]一般的に使用されているにも関わらず、この用語を使用する多くの人々は、この用語を同じやり方で定義していないことが多いようです。グローバル化を単に経済的な問題として扱う人もいれば、社会的および政治的側面にもっと注目する人もいます。しかしながら、明らかなことは、グローバル化が現代の社会生活のさまざまな多くの側面に影響を与えているということです。このため、実際に、文化への全体論的なアプローチ(人類学的な考え方の歴史の章を参照)をとることに誇りを持っている人類学者にとって、グローバル化は研究の理想的なトピックになっています。私たちの目的のために、私たちは政治科学者マンフレッド・スティーガーのグローバル化の定義を採用します:「遠く離れた場所で発生する出来事によって地元の出来事が形作られるとともに、その逆も同様であるような方法で、遠く離れた場所をつなげる世界的な社会的関係の強化。」[4]

グローバル化がいつ始まったかを正確に判断することは困難です。一部の人々はグローバル化が歴史的な前例のない完全に新しいプロセスであるかのように議論しますが、実際にはその前触れは非常に長い間続いています。この章では、私たちは、現代のグローバル化の際立った特徴は、グローバルな相互作用の範囲ではなく、その速度であると主張します。初期の近代的な技術革新は、グローバル化を促進しました。[5]たとえば、車輪の発明により、動物が引く荷車の輸送を容易にする常設の道路が必要になりました。これらの車輪付きの乗り物は人々の移動性を高め、それが今度は商品とアイデアの両方の共有を促進しました。車輪が発明される前でさえ、書面による通信システムが作られたことにより、遠く離れた場所にいる人々の間でアイデアを共有することができるようになりました。

確かに、大規模な帝国が、人類の歴史を通じてさまざまな時期に存在していました。そこには中国の王朝(たとえば、漢王朝(紀元前206年~紀元220年)は、ローマ帝国がずっと後に達成したのと同じサイズに達しました)、オスマン帝国ローマ帝国が含まれています。ごく最近の世界史において、アフリカ、アジア、南北アメリカへのヨーロッパ植民地の拡大は、グローバル化の別の到達点を示しました。「人類学的な考え方の歴史」の章で議論されるように、植民地主義とは、長期間にわたる外国勢力による領土とその人々の政治的、社会的、経済的、文化的な支配のことを指します。技術的には、植民地主義は他のグループを征服するのに十分なほど強力であれば、どのようなグループによっても実践することができます — そしてこれは確かにオスマン帝国とローマ帝国の拡大にとって正確な用語です — が、しかし、用語としての植民地主義は通常、 1500年代に始まり1900年代まで続いたヨーロッパ諸国の行動に関連付けられています。この期間中、ヨーロッパの植民地勢力は、「所有者が未定」の土地を、その場所に既に住んでいた民族集団、彼らの政治構造、信念体系、または生活様式をほとんど考慮せずに分割しました。1914年までに、ヨーロッパ諸国は世界の85%以上を支配していました。従来型の地図で最も頻繁に見られる世界の像が、その向きにおいて非常にヨーロッパ中心的であり続けているのは偶然ではありません(地図を見てください)。

アメリカ大陸における植民地主義は、大航海時代に新しく「発見された」領土をヨーロッパ人が征服した結果でした。コロンブスはおそらくアメリカ大陸に到達した最初の探検家ではありませんでしたが、彼の「発見」はこの「新しい」領土を植民地化しようとするヨーロッパ人の欲望を強めました。ヨーロッパの指導者たちは、ヨーロッパでの影響力の範囲を拡大し始めてから、さらに遠くの土地へと注意を向けました。彼らが近くの土地の植民地化に成功したことは、「オリエント」で手に入る貿易品に対する需要の高まりと相まって、その地域の外へと探検をする熱意を刺激しました。カトリック教会も、この経済的に動機付けられた派遣を支持しました。なぜならそれは、イングランド、ドイツ、フランスのような場所での彼らの宗教的拠点の弱体化と一致していたからです。

植民地時代の最も破壊的な特徴の1つは、先住民族のアメリカ人および奴隷にされて動産として出荷されたアフリカ人の両方の強制労働でした。1525年から1866年の間に、1250万人の奴隷がアフリカから新世界に送られました。動産として扱われていたために、アメリカ大陸に到着するまで生き残ったアフリカ人はわずか1070万人でした。米国はこれらの奴隷の約45万人を輸入しました。倫理的に取り返しのつかないアメリカ大陸への奴隷の積荷が、ヨーロッパへの、そしてアフリカ西海岸への大量の品物の輸送に対応していたのは、偶然のことではありません。しかしながら、国際的な流れの全体的な範囲に関しては、ヨーロッパの植民地主義は、1990年代以降に発生したグローバル化の範囲と比較すると見劣りがします。

現代のグローバル化は、少なくとも経済学の観点からは、おそらく第二次世界大戦の終結およびブレトンウッズ会議と一致するものとして最も正確に特定されるでしょう。[6]ブレトンウッズ会議でなされた合意により、国際通貨基金(IMF)と、後に世界銀行(WB)となった国際復興開発銀行が創設されました。それはまた、世界貿易機関(WTO)のための基礎を築きました。これらの3つの組織は、一緒になって、グローバル化の加速と開発途上の世界の人々の生活の形成に大きな役割を果たしてきました。特定の国民国家の範囲外に存在し、現在では非政府組織(NGO)として広く言及されている、国際連合のような統治機関、またはIMFや世界銀行のような規制機関というまさにその考え方が、地元の主権を弱体化させることに貢献しています。[7]地方、地域、および国家のアイデンティティーと帰属は、グローバル時代においても顕著さを保持していますが、それらの重要性は、多くの人々が持つ世界市民であるという感覚が増大することに応じて変化しています。

グローバル化の加速

グローバル化の5つの「スケープ」

私たちがすでに定めたように、グローバル化とは、世界中を縦横につなぐ相互接続のペースと範囲の拡大を指します。人類学者のアルジュン・アパデュライは、5つの特定の「スケープ(光景)」またはフロー(流れ)の観点から、これを議論しています:それは、エスノスケープ、テクノスケープ、イデオスケープ、ファイナンススケープ、およびメディアスケープです。国境を越えて流れる人々、物事、アイデアの観点からグローバル化を考えることは、現代の人々が日々の生活の中でしばしば埋め込まれているような社会的な光景の変化を理解するための生産的な枠組みです。人々がどこに移住するのか、彼らの移住の理由、彼らが旅をする速さ、彼らの旅の結果としての生活の変化、そして、彼らの元のコミュニティーがどのように変化するかについての質問は、すべてこの枠組み内で対処することができます。人間主体を伴わずに移動する商品やアイデアについての質問にも、アパデュライによるスケープの概念を使用して回答することができるでしょう。

エスノスケープは、境界を越えた人々のフローを指します。労働移民や難民などの人々(以下のケーススタディを参照)は必要に駆られて、あるいは自分や家族のためにより良い機会を求めて旅をしますが、娯楽のための旅行者もこのスケープの一部です。国際連合の専門部門である世界観光機関は、観光業は最も急速に成長している商業セクターの1つであり、およそ11の仕事のうち1つが何らかの形で観光に関連していると主張しています。[8]観光業は通常、世界の先進地域の人々を開発途上の世界の人々と接触させますが、これは関わる人の全員に機会と課題の両方をもたらします。旅行者が旅行中の「他者」との経験から肯定的な影響を受ける可能性がある一方で、観光産業は相応の批判も受けています。米国のような裕福な国から来る人々は(たとえ彼らが米国の基準では裕福ではないとしても)、カリブ海地域にあるような海外の貧しい国々を旅行しながら贅沢にふけることができます。a)休暇中にサービスを期待している観光客と、b)地元の人々を使用人のように扱っている観光客との間にある線は、細いです。この後者のシナリオは、このような状況で発展する不平等な権力関係を例示しており、そのような権力関係は責任ある社会科学者の主題となります。[9]

テクノスケープは、テクノロジーのフローを指します。AppleのiPhoneは、境界を越えたテクノロジーの動きが、どのようにして商品チェーンに沿うすべての人々の日常生活に根本的な影響を与えるかについてのほんの一例に過ぎません。新しいiPhoneがリリースされるたびに顧客の列がAppleの店舗から溢れ出して街路に伸びていき、販売記録が更新されます。この新製品の需要が、生産の迅速かつ猛烈なペースを促進します。需要に追いつくのに苦労している労働者は、ほとんどのiPhoneユーザーが嫌悪を催すであろう労働条件にさらされており、結果として自殺する人すらいます。技術的な財の生産と輸出に関連する収入は、富の国際的な分布を劇的に変えています。技術革新のペースが増加するにつれて、技術のフローも増加しています。もちろん、これはまったく新しい現象というわけではありません。以前の技術もまた、人間の経験を劇的に、そして取り消すことのできないほどに変化させてきました。たとえば、ヨーロッパ全土(およびそれを超えた場所)での印刷機の大規模な生産と流通は、人々の自分自身に対する考え方を劇的に変えました(地元の共同体のメンバーとしてだけでなく国の共同体のメンバーとして考えるようになりました)。[10]

イデオスケープは、アイデアのフローを指します。これは、個人が自分の意見をFacebookに載せて公に開示するなどの小規模なものであることもありますし、より大きくより体系的なものであることもあります。宣教師は重要な例を提供してくれます。アマゾン地域へのキリスト教宣教師は、彼らの宗教的教義を広めることを彼らの明確な目標にしました。しかしながら、宣教師から人類学者になったダニエル・エヴェレットの経験が示すように、地元の人々は必ずしも持ち込まれてきたアイデアを宣教師が期待する方法で解釈するわけではありません。[11]さらに、すべての人々は、彼らに対して導入された、または押し付けられたイデオロギーを受け入れ、拒否し、または適応させるための主体性を持っているという事実があります(以下のシンクレティズムを参照)。ピラハン族が話す言語の構造は、教義を直接翻訳することを困難にします。[12]

ファイナンススケープは、政治的な国境を越えたお金のフローを指します。アパデュライによって議論される他のフローと同様に、この現象は何世紀にもわたって発生しています。たとえば、スペイン人はボリビアのポトシ鉱山の銀鉱脈を採掘するために先住民の労働者を徴集しました。この地域から抽出された莫大な富は、北ヨーロッパでのスペインの債務の支払いに使用されました。グローバルな送金のペースは加速の一途をたどり、今日のニューヨーク証券取引所、日経指数、およびその他の金融ハブでの取引は、世界中の経済にほぼ即時の影響を及ぼしています。

メディアスケープは、国境を越えたメディアのフローを指します。以前の歴史的な期間では、娯楽や教育のコンテンツがある場所から別の場所に移動するのに数週間から数か月かかることもありました。電信から電話、そして現在のインターネット(および他の無数のデジタル通信技術)に至って、メディアは地理的な境界に関係なくはるかに簡単かつ迅速に共有されています。たとえば、ブラジルのテレノベラ(テレビ小説)はアフリカの長距離バスの旅行における娯楽を提供し、ボリウッドの映画はカナダの映画館で上映され、世界中の人々はどこに住んでいてもワールドカップやオリンピックなどの巨大イベントをいつも視聴しています。

アパデュライによって定義された5つのスケープは、これらの循環のさまざまな形態について考えるための便利な道具を提供してくれますが、この方法でそれらを解きほぐすことは誤解を招くこともあります。究極的には、ほとんどの人類学者が研究する現象には、これらのスケープのうちの複数が含まれるでしょう。たとえば衣服を取りあげてみましょう。学部で人類学を専攻した作家であるケルシー・ティマーマンは、彼の服を作った人々の生活についてもっと知りたいと触発されました。[13]彼は、1日の中で平均的なアメリカ人はホンジュラス、バングラデシュ、カンボジア、中国で作られた服を着ているだろうということを発見しました。Tシャツのように一見シンプルに見えるものにも、実際にはアパデュライの5つのスケープのすべてが含まれています。これらのシャツの製造を担っている多国籍企業自体は資本主義の一部です。この資本主義は、国際的なイデオスケープの一部となっているアイデアです。米国にある会社が労働費用が安い別の国の生産施設と契約することによって、ファイナンススケープが変更されています。これらのTシャツを作成するために必要な機器が購入されて生産施設に配送され、これによってテクノスケープが変わります。エスノスケープは、農村の家から都心に移住し、その過程でしばしば伝統的な居住パターンを混乱させるような個人の影響を受けます。最後に、メディアスケープはこれらのTシャツのマーケティングに関与しています。

選択的な輸入と適応

グローカル化

グローバル化は、確かに現代の社会生活の光景を変えています(上記のアパデュライについての私たちの議論を参照)。しかし、グローバル化のことを人間の主体性なしに出現する状態と考えるのは間違いでしょう。ほとんどの場合、人々はグローバル化を通じて利用可能になった新しい製品やアイデアを採用したいと望むかどうかについて、自分で決定します。人々はまた、製品やアイデアの使用方法を決定する能力も持っています。この使用方法には、当初意図されていたものとは大きく異なるものも含まれます。たとえば、マサイ族の村のリーダーは、タンザニアの政府関係者とのやり取りの際に、脱ぎ捨てられたボーイスカウトの制服を権威の象徴として採用する場合があります。[14]

1980年代後半に初めて出現した「グローカル化」という用語は、グローバルなアイデアをローカルに受け入れられるような形で適応させることを指します。[15]場合によっては、これは多国籍企業による利益創出のための計画として行われる場合があります。たとえば、マクドナルドでは、さまざまな国で非常に異なるメニュー項目を提供しています。ビッグマックはアメリカ人のお気に入りかもしれませんが、あなたは、インドではマカルー・ティッキ(パン粉でコーティングしたポテトとエンドウマメのパティ)を、香港では朝食でチキンスープの中に入った野菜・卵・ミニツイストパスタを、タイではコーンパイパイナップルパイを、あるいは、ニュージーランドではステーキミンチとチーズパイを試すことができます。他の場合では、企業ではなく人々が外来のアイデアを採用し、適応させる革新的な方法を見つけ出します。たとえば、メキシコのオアハカのサポテク族は、グローバルに利用可能な消費財を彼らの長年の文化的伝統に適合させるための方法を見つけました。伝統的に、この共同体のメンバーが死亡した場合、その個人の親戚は、彼または彼女が死後の世界に行くのを容易にしてあげる義務があります。この義務の一部は、故人のために建てられた家の祭壇に弔意を表するために来た弔問客のために、膨大な数のタマルを作ることです。これらのタマルは、家に持ち帰ることが意図されており、かつては伝統的な土器の入れ物に入れられて分けられました。タッパーウェアのような現代の消費財の導入は、この伝統を破壊するのではなく、食べ物を共有するという古い伝統をより容易なものとしました。[16]この場合、サポテク族の文化は外来の商品やアイデアの導入に脅かされていません。なぜなら、この共同体は古いアイデアを新しいものと完全に交換することなく、既存の実践に新しいものを取り入れているからです。このような実践は、グローバル化とは文化的な均質化以外の何物でもないという恐怖が誇張であるという証拠を提供します。しかし、他のコミュニティーは、近代化やグローバル化と文化の喪失とをまさに同一視しているために、これらの製品を拒否しています。たとえば、ノーベル平和賞の受賞者であるリゴベルタ・メンチュウ博士は、彼女が育ったマヤ族の年長者たちが若者に対して、コカコーラを消費することや、伝統的な石臼でなく現代の粉ひき器を使用することさえも、厳しく警告したことを語っています。[17]

ケーススタディ:グローバルとローカルの両方 — 世界中でサルサを踊る

サルサの音楽とダンスの歴史に関するさまざまな文章がありますが、今日存在するようなサルサの情景は上記の5つのグローバル化のフローからは切り離せません。[18]たとえば、年間を通じて世界中で開催されている膨大な数のサルサ「大会」やフェスティバルがあります。これらのイベントには、近隣だけでなく遠方からも人々が、ダンスの学生、社会的な参加者、パフォーマー、インストラクターとして訪れます(エスノスケープ)。これらのイベントをしばしば国際的に行き来することは、近代的な交通手段に依存しています(テクノスケープ)。これらのイベントで教えられ、共有され、伝えられているのは、主としてさまざまなダンスのスタイルとテクニックについてのアイデアです(イデオスケープ)。燃料費/駐車料金/航空運賃などの費用に加えて、登録、ホテルの部屋、レッスン、DJ/バンド、およびその他のサービスはすべて、代金を支払われることによって利用可能となっています(ファイナンススケープ)。最後に、これらのイベントは、オンライン広告(例については図12.1を参照)、ワークショップとパフォーマンスのスケジュール、イベントの登録、そしてなにより注目の講師とパフォーマーのビデオクリップなしでは、今日のようには存在できないでしょう(メディアスケープ)。確かに、ダンサーが異なる場所から来て、共通の話し言葉がなくてもお互いにうまく踊ることができるというまさにその事実が、今日のそのようなダンス形式に関するグローバル化を証明しています。[19]

図12.1:2012年のニュージーランドのサルサ大会の広告。

しかしながら、このダンスジャンルにおける音楽への動きの広く共有されたパターンは、それぞれの地元のバージョンの間に存在する現実の違いを否定しません。民族音楽学者シドニー・ハッチンソンが最近編集した本の題名「サルサの世界:ローカルな文脈の中のグローバルなダンス(Salsa World: A Global Dance in Local Contexts)」に特徴付けられているように、ニューヨーク、ニュージャージー、ロサンゼルス、アメリカの田舎、キューバ、プエルトリコ、コロンビア(カリ)、ドミニカ共和国(サント・ドミンゴ)、フランス 、スペイン(バルセロナ)、日本のサルサシーンに特化した章の中で、ローカルな文脈、実践、意味の間での実際の違いが示されています。[20]家族の集まりでダンスを学ぶことは、スタジオで学ぶこととは異なります。通りのすべての建物で演奏されている音楽に合わせて踊ることを学ぶことは、まったく異なる地元の楽器を使った環境で学ぶこととは異なります。全員が同じ一般的な社会経済的および民族的背景を持っている状況でダンスを学ぶことは、非常に不均一な都市環境の中で学ぶことと比べると、異なります。この比較のセットはかなり長く続けることができるでしょう。ポイントは、グローバルな形態でさえローカルな形をとるということです。[21]

生活様式、好み、および顕示的消費

グローバル化のいくつかの側面は社会レベルで最もうまく研​​究されますが、他の側面は、特定の社会-経済的な階層内で見られる傾向や、さらには個々の意思決定のレベルなどの、より小さな規模で最もよく調べることができます。「生活様式」の概念は、個人がさまざまな社会的アイデンティティーを実行する創造的、再帰的、そして時には皮肉的な方法のことを指します(この本のパフォーマンスの章を参照)。社会学者のデヴィッド・チェイニーは、生活様式のことを「社会的関与の特徴的な様式、またはアイデンティティーの物語であって、関連する行動が手元にある隠喩を埋め込むことができるもの」と記述しています。[22]そのため、それらが自分自身と観客との両方に対して、私たちが何者であるか、私たちは何者になりたいか、私たちは何者として見られたいかを示すという意味において、私たちが生きており描写しているような生活様式は、再帰的なプロジェクトと見ることができます(再帰性についてのより詳しい情報は、フィールドワークの章を参照)。

チェイニーは、人々が利用可能な生活様式の一群に直面したときのみ、彼らは自分自身を差別化する必要性を感じると主張しています。[23]有機的な連帯を介して(機械的ではなく)組織された社会は、さまざまな商品、技能、および任務に基づいています。この枠組みの中で、消費者経済の台頭により、個人はさまざまな商品の購入と顕示的な使用を通じて自分のアイデンティティーを示すことができるようになります。[24]グローバル化により、個人が購入できる商品の種類が増えるとともに、これらの商品に対する人々の認識が高まり、消費の習慣を通じて示すことのできるアイデンティティーの範囲が拡大しました(アイデンティティーの表示の詳細については、ジェンダーとセクシュアリティーの章を参照)。場合によっては、アイデンティティーは個人のプロジェクトであり、顕示的な消費が自己の感覚を示すために使用されます。たとえば、東海岸の学校の保守的な「良い子」の生徒たちから疎外されていると感じる生徒は、髪をドレッドロックにしたり、ボブ・マーリーのTシャツを着たり、ジャンベドラムを練習したりすることにより(これらすべては米国の外のアフリカ人のディアスポラに関連しています)、代替的なアイデンティティーを養うことができます。

批判者は、グローバル化の結果が文化の均質化であると主張しています。似たような路線に沿って、一部の人々は、娯楽市場の急速な拡大により、人々が消費する文化的な製品(本、映画など)の多様性が減少することを懸念しています。小規模な店やレストランの消滅は、確かにグローバルな大企業の台頭の結果ですが、文化の均質化は決して既定の結論ではありません。[25]グローバル化により、世界の隅々にいる個人が、新しいアイデア、商品、信念体系、および自ら所属することを選択するボランティアグループに出会うことができます。時にはこれらは既存の選択肢を犠牲にしますが、人々が選択を行い、彼らに最も共鳴する選択肢または機会を選ぶことができるということを認めるのも重要です。したがって、生活様式の概念は、グローバルな商品、アイデア、および活動を選び取る個々の主体が利用できる意思決定の程度を強調しています。個々の選択が含まれると同時に、行われた決定と選択された集合はランダムからはほど遠いものです。ある生活様式に参加することは、消費についての知識を含意します。商品を区別する方法を知ることは、個人の地位をさらに高める象徴的な資本の一形態です。[26]

個人が実際にどれだけの自由意志、選択の自由、または自律性を持っているかは、この章の範囲をはるかに超えた古くからの質問ですが、多くの場合、個人の消費パターンは、実際にはその人が育った社会階級を反映しています(個人が、自分独自のアイデンティティーに適合するグローバルなフローの要素を選択的に採用していると考えている場合であっても)。言い換えれば、個人の「好み」は、実際には、彼または彼女のハビトゥス(習慣行動)の派生物であり、特定の社会的環境での文化化から生じる具体化された気質です。[27]ハビトゥスは、特定の状況内で安心感をもたらします。たとえば、上流階級の家で育った子供は、食事、服装、および全体的な立ち居振る舞いの規範について馴染みのない奨学金のクラスメートよりも容易にエリート寄宿学校に一体化できます。[28]ハビトゥスは、社会的行動の生成文法であり、好みを生み出し、ひいては生活様式を生み出します。[29]

この章の最初の小話を思い出してください。この名門リベラルアーツカレッジの学生が特定のレシピの倫理的含意を批判する立場にあるという事実は、彼らの人生経験が、食糧の安定性が低いあるいは非常に低い米国の7世帯のうちおよそ1世帯(合計1750万世帯)のものとは大きく異なることを示唆しています。[30]必然的に、人々がグローバルな提供物から消費することを選択するもの、および彼らがその消費の選択の周りで生成する言説は、しばしば彼らの社会的地位を示します。ある商品がひとたびこれらのグローバルなフローの一部になると、理論的には、どこに住んでいるかに関係なく、すべての人々がそれを利用できるようになります。しかしながら、現実の実践では、社会階級間の継続的な差別化を確実にする追加の門番となるような装置があります。価格は、多くの人々がグローバルに取引される商品を楽しむことを妨げます。コカコーラは、米国の平均的な大学生にとっては陳腐なもののように見えるかもしれませんが、世界の他の地域では贅沢品と見なされています。同様に、米国では神戸牛(日本の和牛に由来するもの)のステーキが入手できますが、1食分に数百ドルを費やすことができ、喜んで支払うのはアメリカ人の中でも比較的小さな下位集団です。人類学者ピエール・ブルデューの好みに関する研究が明らかにしたように、異なる商品を識別し、社会的に規定された規範に従ってそれらを利用するために必要な知識を持つことは、社会階級の間の区別のためのもうひとつの印です。[31]

日常生活の中のグローバル化

この学問分野の一部の人は、グローバル化を取り巻く言説の構造を考えると、人類学者は彼らが研究する文化や社会現象について客観的に報告するべきだと主張していますが、グローバル化の「推進派」または「反対派」という固定観念を持たれるのを避けることはますます困難になっています。しかし、実際には、グローバル化にはプラスとマイナスの両方の影響があります。

グローバル化の強化の利点

楽観主義者として、私たちはまずグローバル化の「グラスの中に半分も入っている」の解釈から始めます。政治科学者のマンフレッド・スティーガーは、「グローバル化の人道的な形態」は、富裕層と貧困層の驚異的な不平等の是正や自然保護の促進など、私たちの時代の最も差し迫った問題のいくつかに対処するのに役立つ潜在能力があると主張しています。[32]メディアスケープにより、グローバル・ノースの人々は、世界の他の地域で起こっている社会的不公正にますます気づくようになっています。ケルシー・ティマーマンは、グローバルな衣料産業に関する本の中で、毛皮産業を非難する大衆のデモから、社会的に持続不可能な方法で生産された製品のボイコットに至るまで、米国の活動家が行っている取り組みを強調しています。[33]これらの取り組みの多くは、意図した結果に到達することはありませんが(そして一般に、家族がしばしば彼らの子供たちの労働に依存して生計を立てているグローバル・サウスの労働状況の複雑さを見落としていますが)、それにもかかわらず、そのような例は、ある場所にいる人々が、彼らをつなぐ商品チェーンを通じて他の人々(おそらく会うことはないでしょう)との間に感じるつながりのことを明確に示しています。

グローバル化はまた、以前の時代にはありえなかった連帯運動の台頭を促進しています。最近の例を挙げると、2015年のパリでのテロリスト攻撃から数時間以内に、さまざまな国や生活圏の個人が、フランスの国旗の図像を含むようにFacebookのプロフィール写真を変更しました。この運動は、そのヨーロッパ中心主義のために批判されました。前日のベイルートでの爆破事件の犠牲者が受けた国際的な支援は、フランスの犠牲者よりもはるかに少なかったです。欠点はさておき、それでもその動きは、ソーシャルメディアのような技術革新のおかげで、連帯運動がいかに急速に勢いを増すことができるかを示す証です。

マイクロローンプログラムとクラウドソースの資金調達は、グローバルな時代にさまざまな状況の個人がつながれるようになるさらに多くの方法です。たとえば、Kivaは、インターネットに接続している人なら誰でも、世界の開発途上のさまざまな地域の個人または協同組合に少額(25ドル)の寄付を行えるようにするマイクロファイナンス組織です。個人/グループが資金を求めているプロジェクトはKivaのウェブサイトに記載されており、資金提供者は支援をする1つ​​かそれ以上の特定のプロジェクトを選択します。その後、受取人は利息付きでKivaにローンを返済しなければなりません。

クラウドソースの資金調達も同様の原則に従いますが、資金提供者にお金を返済する必要はありません。小規模な例の1つは、2014年にベリーズのダングリガにある教員主導の応用視覚研究クラスのためにこのような方法で集められた資金が含まれます。追加資金の少額の積み立てを作ることにより、学生のプロジェクト費用の100%を、地元の共同体のパートナー向けの資料作成に充てることができました(これらの費用の一部を学生の昼食やその他の物品に使用した他のグループと比較のこと)。その結果、このチームは共同体に約束したものよりも多くのものを提供することができました。サバルキャッサバ農園(ベリーズの唯一の商業キャッサバ農園)は、新しい道路標識とフルカラーのマーケティング用チラシを求めていました。文化資源センターであり、伝統的なガリフナドラムの製作者であるオースティン・ロドリゲス・ドラム用品店は、教育用ポスターの更新の支援を求めていました(図12.2aおよび12.2bを参照)。両方のグループについて、このチームは、a)すべての研究画像をデジタルフレームで提供する(地元の共同体のパートナーが「手元に」何かを持ち、必要に応じて使用できるように)、b)より高品質の制作資料を使用する、c)それぞれの家族に提供される大判のコーヒーテーブルスタイルの文書の作成と、地元のグリシ・ガリフナ博物館に寄付される複製物の作成を開始する、ことができました。

図12.2a:ボール紙に何層もの透明テープで張られた写真(多くは水で損傷を受けている)からなる、オリジナルの教育用「ポスター」。(Photograph by Jonathan S. Marion. All rights reserved)
図12.2b:ドラム作成プロセスの全体を記録し、水の損傷から守るための艶消し加工を施された、更新された3'×4'のポスター。(Photograph by Jonathan S. Marion. All rights reserved)

輸送技術の進歩も、海外の人道的危機に対する認識の高まり(主として通信技術の進歩によって促進される認識)と相まって、新しいエスノスケープを生み出しています。ピース・コー(平和部隊)のようなプログラムは、西洋人を外国に派遣して人道的取り組みを定期的に支援するという比較的長い歴史を持っています。他のボランティアは危機の際に動員されます。医療専門家は、病気の流行中に、他の人が逃げようとしている地域に飛び込んでいき、彼らのサービスを自発的に提供することがあります。エンジニアは、自然災害の発生後に都市を再建するために、自分の時間をボランティアに捧げることがあります。そして、特殊な技能のセットを持たない一般人でも、災害後の人々を支援することや、さまざまな救援活動で使用される物品の収集および/または寄付によって力を貸すことができます。2010年には、マグニチュード7.0の壊滅的な地震がハイチを襲い、推定300万人が影響を受けました。この危機の広範囲にわたる報道のおかげで、国際的な反応は即時かつ集中的なものであり、20以上の国が復興努力を支援するために資源と人員を提供しました。明らかに、グローバル化によって促進される便益があります。

グローバル化の強化の欠点

前の節では、私たちは、グローバル化の強化が危機の際にどのようにして人々に利益をもたらすことができるかに注目して締めくくりました。しかし、時には、こうした危機はそれ自体がグローバル化によって引き起こされるということを思い出し、繰り返し述べておく必要があります。ヨーロッパの探検家や開拓者によって運ばれた病気に対してほとんど抵抗力を持たなかったアメリカ大陸の先住民部族の大量殺戮は、このことの初期の一例に過ぎません。このような世界のエスノスケープの変化は、地域の健康の変化も伴うことがあります。伝染病の相次ぐ流行がアメリカ大陸の先住民の人々に大混乱をもたらし、一部の部族の死亡率は95%にも達しました。現在の事例に目を向けると、デンマークのコペンハーゲン大学と連携している気候変動、農業および食糧安全保障に関する研究プログラム(CCAFS)は、現在のシリア難民危機の発生における人為的な気候変動の役割に対する注意を呼びかけています(以下のローリー・キングによるケーススタディを参照)。[34]

同様に、グローバル化がどのようにして公衆衛生の観点から災害を引き起こすかについての現代的な例の1つは、2014年に、感染した飛行機の乗客がアフリカから米国にエボラウイルスを持ち込んだことに対する懸念です。2014年3月、ギニアはエボラウイルスの流行を経験しました。そこから、アフリカ西部の多くの国にエボラウイルスが広がりました。米国の医療専門家は、患者の治療を支援するために西アフリカに向かいました。2014年10月、疾病管理予防センター(CDC)は、リベリアから米国に旅行した無症状の男性が、米国に到着してから数日後に体調が悪くなり、最終的にはこの病気にかかったことを確認しました。米国内の医療従事者の数人もウイルスに感染しましたが、治療に成功しました。この流行に対応して、CDCは米国への入国の主要な入口でのスクリーニングの取り組みを強化しました。[35]しかしながら、これらの予防措置は、多くのアメリカ人の恐怖を鎮めることはなく、彼らはエボラの確認された症例がある国との往来の禁止を開始する可能性について熱心に議論しました。

西アフリカへの往来の禁止についての議論は、このグローバル化の時代でさえ多くのアメリカ人が抱いている外国人嫌悪的な態度のことを思い出させました。これには多くの理由があります。人種的偏見は、他の宗教、非規範的なジェンダーアイデンティティー、身体障害者などに対する偏見と同様に、今日の世界では依然として非常に現実的です(人種と民族性の章を参照)。いくつかの点で、これらの恐怖は減少するのではなく、グローバル化によって高められてきました。特に2008年の世界的な景気後退の後、一部の国民国家は自分たちの経済的安全性に恐れを持つようになり、疎外された人々をスケープゴートとして使用することが容易になったことを見出しました。通信技術の進歩により、社会正義に焦点を当てた連帯運動が可能になりましたが(上記のように)、残念ながら同じメディアが他の人たちによって憎悪を引き起こすプラットフォームとして使用されています。ソーシャルメディアを使用すると、以前はただの校庭のいじめっ子だった人が、これまで以上にその愚弄を広めることが可能になります。テロリストは、言葉では言い表せないほどの暴力のビデオをオンラインに投稿し、かつては小規模社会での噂話と疎外化による非公式の制裁を通じて憎悪の態度が抑えられていた個人は、今ではオンラインのチャットルームで同じ考えを持つ偏狭な人たちのコミュニティーを見つけることができます。仮説的な「平均的な」人の重要性を前面に押し出すことにより、ポピュリストの政治は少数派の民族グループや宗教グループに罪をかぶせることに従事しました。これは、2016年6月23日の英国のブレグジット投票と、ドナルド・トランプによる米国大統領の選挙とにおける成功したキャンペーンで最も顕著に表れています。

「英国の(ブリティッシュ)」と「出口(エグジット)」の混成語であるブレグジットは、英国の欧州連合からの離脱投票を指します。(ベルギーのブリュッセルに本部を置く欧州連合は、1993年11月1日にオランダのマーストリヒトで設立された28の国民国家による経済的および政治的連合です。)これと、ドナルド・トランプが米国の第45代大統領に選出されたことは、グローバル化によって生じた不公平の一部に対する反発を表しています。世界規模では、グローバル・ノースはグローバル・サウスから富を引き出し続けています。しかし、もっとわかりやすいのは、「豊かな」国の中でさえも富のギャップが拡大していることです。十分な社会的保護がないために、資本主義(利益が政治的および経済的な意思決定を動機付けるシステム)により、今や世界の最も裕福な8人の男性(ジェンダーに注意)が世界全体の人口の下位50%と同じだけの富を支配するような状況につながりました。言い換えれば、8人の男性は現在37億5000万人が持っているお金を合わせたのと同じだけのお金を持っており、米国よりも大きな富のギャップ(社会で最も多くを持っている人と最も少なく持っている人との間の差)を持っている国は世界のどこにもありません。したがって、グローバル化は一部の人々にとって利点を促進しましたが、ますます多くの人々が取り残されています。社会科学者はしばしば、「リエントレンチメント(再定着)」という用語を使用して、人々が伝統的な価値観と生活様式を再び主張するために行う取り組みのことを記述します。この衝動は理解できるものですが、これらの人々の多くは誰かに罪をかぶせるレトリック(彼らが直面している問題について他のグループに責任があると言うもの)の影響を受けやすいです。これは、グローバル化の両刃の剣です。さらに、場合によっては、IMFや世界銀行などの機関を通じて、周縁国のすでに疎外化されている人々にグローバル化が強制されます。こうした場合、グローバル化は、ネオリベラリズム(民営化と規制されていない市場を強調する多面的な政治的および経済的哲学)の範囲と影響を促進および増幅します(以下を参照)。

グローバル化とネオリベラリズム

ラテンアメリカは、植民地主義からネオリベラリズムへの移行がグローバル化を通じてどのように広まり、またそれによってどのように悪化したかを示す良い例を提供してくれます。20世紀の初めまでに、ラテンアメリカの植民地はスペインとポルトガルから独立していましたが、植民地時代に広まった権力の関係は、生産手段を支配する地元のエリートたちによって大部分が複製されていました。この期間中に、市民は個々にそして集合的に新しい国民的アイデンティティーの確立に努めました。この地域全体の民主主義に対する名目上の約束にもかかわらず、保護者/支持者(パトロン/クライアント)の関係が主要な政治的メカニズムとして機能しました。ラテンアメリカの多くの国では、内部の分裂が深く、ライバル関係にあるエリートたちの支持者(すなわちクライアント)が、彼らの保護者に代わって統治をめぐる暴力的な競争に定期的に引きずり込まれました。1800年代の最後の10年と1900年代の最初の10年で、ラテンアメリカの人々はエリートの支配権と近代化の隠れたコストに疑問を持ち始めました。1896年にブラジルのカヌードスで起こったような農民蜂起は、政治的枠組みの変化の証拠でした。人々はまた、米国の帝国主義的な傾向のことを、彼らが避けたいと望む近代化の負の力と見なしました。これらは一緒になって、ラテンアメリカの人々が彼らの自己意識に共鳴するような国家的アイデンティティーを求める状況へと至りました。

この同じ時期に、この地域の経済構造にわずかではあるものの重要な変化がありました。経済は依然として農業や鉱物などの天然資源の輸出に基づいており、利益はエリートの手に残っていました。しかしながら、新しいものとは都市での製造業の導入とわずかな成長であり、それは新しい雇用機会を生み出しました。経済の多様化により、階級構造はより複雑になり、中流階級が出現しました。残念ながら、この比較的な繁栄と安定の期間はすぐに終わりました。ラテンアメリカにおける豊富な天然資源と、搾取のために「利用可能な」囚われの労働力のおかげで、裕福な地主はヨーロッパの競争相手よりも安い価格で農産物を売り込み、「風変わりな」鉱物を提供することができました。ヨーロッパの農民と比較したラテンアメリカの地主の特権的な地位は、ヨーロッパ内の農民の間に広範な貧困をもたらし、それがヨーロッパを離れる移住とヨーロッパ内での政治的不安定につながりました。地元で生まれたラテンアメリカの農民が田舎から都市に移住するにつれて、そして都市がヨーロッパからの移民で満たされるにつれて、土地を所有するエリートは支配力を、あるいは、少なくとも彼らの土地で働いていて他の仕事の選択肢がなかった農民たちに対してかつて持っていた種類の権力を失い始めました。

都市生活は一定の機会を提供する一方で、新たな課題ももたらしました。たとえば、都市では、人々が自給自足の農業のための土地にアクセスを持っていることはめったにありませんでした。これは彼らを経済の変動に対してはるかに脆弱にし、都市生活の脆弱性は新しい政治哲学の採用を必要としました。都市の貧困と絶望は、多くの人々が社会主義の哲学に魅力を感じる風潮を作り出し、それらは早くも1920年代にはブラジルのようないくつかの場所で始まっていました。当初、都市部の貧困層に社会主義的な考え方を広めた組合指導者とヨーロッパ移民は、国家によって処罰され、しばしば国外追放されました。最終的に、そのような抑圧的な戦術は、ストライキと組合による関連した行動によって引き起こされた膨張していく混乱を抑制するには不十分であることが判明しました。新しい政治的現実に直面して、エリートは都市の大衆の公のレトリックを取り入れました。エリートは、自分たちを都市の労働力の同盟者として位置づける必要性を認識し、労働者に対するより多くの保護を伴うささやかな改革の時期の先駆けとなりました。

中流階級はまた、この期間中に、そして仕事に関連する彼らの運動の延長として、国家によって提供される社会サービスの拡大を求める声も上げました。残念ながら、市民に対するより多くの社会サービスを求める中流階級からの圧力は、非常に多くの外国人の移民と、ナショナリズムの拡大する言説を通じて伝えられた人種的優越性に関する誤った考え方とに起因する外国人嫌悪(外国人に対する恐怖)に成長しました。一部の場所では、エリートは、政治的に有利であると見た場合には、中流階級と連携していました。しかしながら、他の場所では、エリートは支配構造に中流階級を組み入れることに抵抗し、エリートの力は最終的には軍事クーデターを通じて奪われることになりました。中流階級から新しく現れた指導者は輸出経済モデルに依存し続けましたが、彼らは利益の大きな部分を社会プログラムに振り向けました。権力者が輸出モデルに疑問を持ち始めたのは、1930年代の株式市場の暴落とその結果としての世界的な景気後退の後になってようやくでした。

1900年代の初め、ラテンアメリカ諸国は主に自由貿易を支持していました。なぜなら、彼らは自分たちに競争上の優位性があると信じていたからです。彼らは、自分たちの国/地域が製造に最も適しているような製品を生産することにより、世界市場の中で繁栄するだろうと考えていました。しかしながら、世界情勢の変化は、ラテンアメリカ諸国がすぐに優位性を失うことを意味しました。工業化された国々の平均的な家族規模は減少し始め、ラテンアメリカの商品に対する需要が低下しました。似たような気候と地形を持つ他の国が同じ作物を栽培し始めた際には、農産物の世界的な供給過剰が価格を押し下げ、世界市場におけるラテンアメリカの財務的な地位の低下を悪化させました。

この経済不況は、第二次世界大戦後の英国の覇権の喪失によって増幅されました。戦前、イギリスとラテンアメリカは、ラテンアメリカがイギリスに農産物を送り、イギリスがラテンアメリカに工業製品を送るという、安定した交換関係を享受していました。米国が世界的な強国として台頭したため、アメリカ人はラテンアメリカを米国の工業製品の新しい市場として見るようになりました。しかし、イギリスとは対照的に、米国はラテンアメリカの農産物を輸入する必要がありませんでした。なぜなら米国は、独自に十分な量を生産しており、それはさらに高い輸入関税によって保護されていたからです。たとえ消費者がラテンアメリカの商品を買いたいと望んだとしても、その商品は国内産のものよりも高価だったでしょう(実際のコストが低かったとしても)。全体として、ラテンアメリカはイギリスを含むヨーロッパに農産物を販売しましたが、ラテンアメリカの輸出業者はそれまでよりも低い価格を受け入れなければなりませんでした。

ラテンアメリカに対する米国の経済戦略は、英国が行っていたものとは異なっていました。バナナのように、米国内で生産できなかった商品については、米国企業はラテンアメリカに行き、生産手段を直接コントロールできるようにしました。これらの商品はラテンアメリカで栽培および/または生産されましたが、利益は地元企業ではなく外国企業によって取られました。この同じプロセスは、スズや銅などの鉱業分野でも起こりました。米国企業は、可能な限り多くの利益を引き出すために鉱山を購入しました。アメリカの企業はこれらの国々の天然資源を活用できる立場にありました。なぜなら、米国には地元のコミュニティーに不足している金融資本と、これらの産業を維持するために必要な技術的な専門知識があったからです。このパターンは、ラテンアメリカ全体および同様のパターンが発達した他の地域全体の経済成長率を削減しました。

1920年代後半から1950年代にかけて、多くのラテンアメリカ諸国は、文化の運動と経済戦略の両方として、(しばしば力を通じて)ナショナリズムのほうに向かいました。中流階級は、エリートが好んでいた輸出経済を削減することに賛成していましたが、選挙に勝つための政治的影響力を持っていませんでした。実際、彼らの政治目標は、エリートによって定期的に阻止されました。エリートは、特に農村地域において、彼らの利益を押し付けるために彼らの影響力を(すなわち、彼らのクライアントを)使用しました。しかしながら、時が経つにつれて、中流階級の男性がますます多くの軍の将校の地位を占めるようになり、ナショナリズムの指導者を大統領に就任させるために彼らの新たな権限を使用しました。ナショナリストは、農業への過度の依存がラテンアメリカの国際経済における脆弱な地位をもたらしたと主張し、産業の構築を求めました。彼らは、米国とヨーロッパから輸入していた商品の生産を開始したいと望んでいました。彼らの目標:産業的な自給自足。

国家は、人々が地元の商品を買うのを助け、外国の商品を買うのを思いとどまらせることで、この経済再編の手段となりました。これを行うことは、言葉でいうほど簡単ではありませんでした。国家は、生産者が自国で商品を販売するように仕向けるために、輸出市場向けの商品に高い関税を課しました。同時に、国家は地元の製品に置き換えたい輸入品に対して高い関税を課しました。時間とともに(そして苦労とともに)これらの手段は意図した効果をもたらし、地元で生産された商品が地元の消費者にとって比較的手頃な価格になり、したがって魅力的になりました。

すでに述べたように、工場を発展させるには、海外からの資本と技術の専門知識を必要とし、その結果、商品の生産がさらに高価になりました。人々がそのような高価な商品を購入できるように、国家はより多くのお金を印刷し、その結果大きなインフレーションを生み出しました。(一部の場所では、このインフレは最終的に2000%に達することとなりました!)ラテンアメリカおよびグローバル・サウスの他の地域では、慢性的なインフレと高い対外債務の組み合わせが永続的な問題として浮上しました。高いインフレと債務に苛まれている国々は、救済のためにIMFや世界銀行のような国際機関に向かいました。意図は良いものなのかもしれませんが、これらのグローバルな機関からの借入金には常に条件が付いています。たとえば、ある国がIMFまたは世界銀行からの融資を受け入れるときには、彼らは、国営企業の民営化(以下のボリビアの水危機に関するケーススタディを参照)や、医療や教育などの社会サービスの支出の削減など、いくつかの条件に同意しなければなりません。借入国はまた、輸入品の関税や国内生産品に対する補助金の削減または撤廃など、自由貿易を促進することを目的とした多くの政策を採用する必要があります。外国投資を促進するための政策が実施されます。多国籍企業は現在、その多くが収益の点で国家に比肩するほどになっています。実際、2009年の時点で、「世界の最も大きな100の経済圏のうち、44が企業である。」[36]貸し手によって国に強制された政策が、現地の人に好まれる生活様式と選好にとってしばしば破壊的である(完全に壊滅的ではないにしても)、というのは控えめな表現です。IMFと世界銀行の措置は経済成長を刺激することを目的としていますが、しばしばこれらの変化の結果として苦しむのは大衆です。植民地主義は新植民地主義に道を譲りました。それは、かつては軍事的な力が必要であったものを経済的な力が達成するものであり、多国籍企業が貧しい国の搾取の恩恵を受けます。

ケーススタディ:民営化とボリビアの水危機

2000年、コチャバンバ市のボリビア人は、市内の水道サービスを提供する権利を獲得した多国籍企業の搾取的慣行に抗議するために街頭に繰り出しました。[37]反グローバル化の活動家は、ほとんどが貧しいメスティーソと先住民が資本主義の巨人に勝利したことを祝いましたが、現在の現場の状況はもっと複雑です。

水は、この惑星で最も重要な要素の1つです。それでは、ボリビアの水供給に誰がアクセスできるか、そして水の価格がいくらになるかを決定する権利が外国企業に与えられたのはどうしてでしょうか?その答えは、ボリビアのような多くのかつての植民地がグローバルな超大国に対する永続的な従属状態であり続けているという事実を強調するのに役立ちます。ボリビアが植民地であったとき、スペインはボリビアの土地から採取できる銀やその他の貴重な商品に対する権利を主張しましたが、ボリビアが独立した後、国際通貨基金と世界銀行によって義務付けられた構造調整政策によって、外国企業がこの国の自然資源を略奪する道が開かれました。言い換えれば、植民地時代の関係がグローバルなシステムにおいて再現され、そこでは貧困国が債権者を満足させるために資源を売ることを余儀なくされます。「資源の採取は債務関係によって促進される。」[38]

グローバル・サウスの多くの国と同様に、ボリビアは債務が深刻です。政府の腐敗と相まった社会改革プログラムの失敗は、ボリビアの農業に影響を与える深刻な干ばつによって悪化しました。1980年代に債務を返済するために、ボリビアは、この国に対する世界銀行と国際通貨基金の融資への条件によって義務付けられた構造調整に同意しました。これらの融資の義務の1つは、水道システムのような国営企業の民営化でした。このような資源の民営化の支持者は、営利企業に伴う効率性が貴重な天然資源の節約にも役立つだろうと主張しています。水価格の上昇は、顧客が水の貴重さをよりよく把握し、それによって節約を促進するのに役立つとまで示唆する人もいます。もちろん、顧客が節水しすぎると、配水を管理する会社が利益を上げることができず、危険なサイクルが始まります。企業がインフラストラクチャーへの投資の見返りを期待できない場合、彼らは単純にコミュニティーの特定の領域にサービスを拡張することを拒否します。

ボリビアでの水の民営化がコチャバンバのような都市部の人々にとって悲惨なものになったのは、20世紀後半から始まった急速な人口増加のためでした(増加は現在も続いています)。ボリビアの自然環境における水の希少性に加えて人口圧力が重なっているために、飲料水へのアクセスは永続的な懸念事項となっています。都市部への移動は、土地改革、鉱山の民営化とその結果の人員整理、および深刻な干ばつを含む多くの異なる要因によって促進されました。この移住者の流入は、都市インフラストラクチャーに圧力をかけました。さらに悪いことに、気候変動により、利用可能な地表水の量が減少しました。2015年、ボリビアで2番目に大きい湖であるポオポ湖は干上がり、研究者たちはそれが完全に回復することに懐疑的になっています(図12.3を参照)。[39]

図12.3:縮小するポオポ湖で漁船が座礁しています、2006年。

コチャバンバでは、1999年後半に組織化が開始されました。コミュニティーのメンバーは、「水の防衛と生活のための調整者」と呼ばれる組織を形成しました。この組織は、全員が平等な声を持つ直接的な形態の民主主義を用いて運営されていました。これは、何世紀にもわたる社会的階層の中で沈黙させられ、無視されることに慣れていた農民に力を与えました。対照的に、この組織は、民族や階級の線を横断する行動を調整しました。状況が顕在化するにつれ、活動家は都市に出入りする道路を封鎖し、機動隊が首都から呼び寄せられました。人々と軍隊との間の数日間の対立の後、地元の活動家は多国籍企業を追い出し、彼らの水資源を取り戻しました。

しかしながら、地元の人々がコントロールを取り戻したにもかかわらず、再び「彼らの」ものとなった水を効果的に届けるために必要なインフラストラクチャーは依然として欠けていました。これにより、彼らは援助を求めて国際的な資金提供者に目を向けることを余儀なくされました。それらは、彼らが最近闘ったまさにその状況を作り出した相手です。ますます希少になる水の供給へのアクセスは、現在も大きくなっている問題です。たとえば、湖から地表水を取る計画は、農業目的でこれらの水源に依存している農村部の農民との対立を生み出します。残念ながら、このような問題は他の多くの場所(アフリカや中東全体など)でも発生しており、進行中の気候変動の中で発生率と深刻さが増しています。水が人権であるかどうかという問題は、活動家、CEO、その他の人たちによって熱く議論されている問題のままです。(水の民営化を主張するネスレ会長のピーター・ブラベックによって取られている立場の議論を参照してください。それは、2010年に水と下水を人権として認めた国連総会によって取られている立場と明らかに対立するものです。)

グローバル化への対応

文化は動的であり、それらが埋め込まれている社会的環境と物理的環境の両方の変化に対応します。文化は行動のひな形を提供しますが、人々はさまざまな方法で課題や機会に対応する能動的な行為主体でもあり、その方法の中には非常に創造的で斬新なものもあります。そのため、グローバル化のことを、さまざまな地域の人々の生活を決定づける非人格的な力とだけみなすことは不正確です。むしろ、人々は通常は、グローバルな力に対応するためにさまざまな戦略を使用します。これらの戦略の総合的なカタログはこの章の範囲を超えていますが、ここでは私たちは2つの重要な対応の概要を示します。

シンクレティズム

シンクレティズムとは、一見矛盾していると思われるものも含めて、異なるいくつかの信念を新しい調和のとれた全体へと組み合わせることを指します。シンクレティズムはさまざまな理由で発生しますが、多くの場合、それはグローバル化への対応として生じます。この節では、私たちは、シンクレティズムが抑圧下に生きている人々によって使用される代理物の一形態であることを実証する方法として、カンドンブレの例を使用します。

ほとんどの場合、人類学者は宗教の文脈の中でシンクレティズムを議論します。人類学者は、宗教のことを、人間が人間存在の究極の問題に対処するために使用する霊的領域の文化的知識として定義しています(宗教の章を参照)。カンドンブレは、アフリカ系ブラジル人の霊的所有の宗教であり、新規の参入者は人間と超自然の領域の間の導管として機能します。それはまた、混合的(シンクレティック)な宗教の優れた例でもあります。オリシャとして知られているカンドンブレの多くの神々は人格化されています:つまり、彼らはすべて個性を持っており、愛、憎しみ、嫉妬、怒りなどの人間のあらゆる感​​情を体験し、信者に知らていれる個々の歴史を持っています。それぞれのオリシャは特定の色に関連付けられており、この宗教の信者はしばしば、彼らがつながりを感じる特定の神に対応するビーズのネックレスを着用します(図12.4を参照)。キリスト教(一神教の宗教)とは異なり、カンドンブレは善と悪(または天国と地獄)の二重性を強調しません。表面上はこれらの2つの宗教の宗派は非常に異なっているように見えるかもしれませんが、実際の実践では、多くのカンドンブレの支持者は自分のことをキリスト教徒、特にカトリック教徒であるとも特定しています。どうすればこのようなことが可能になるのでしょうか?

図12.4:ブラジルのエンブ・ダス・アルテスでのカンドンブレの信者たち、2012年。

カトリックの聖人は、オリシャとほとんど同じように人格化され、カトリックの宗派の中で独自の役割を果たします。カトリックのこの特徴(他の主要なキリスト教宗派のどれよりも顕著なもの)は、オリシャの崇拝とのほとんど継ぎ目のない重なりを促進しました。たとえば、海を支配し、豊饒さに関連するオリシャであるイエマンジャは、受胎の聖母と混合されています。オグム(その領域は戦争であり、儀式の道具は剣と盾です)は、聖アントニオと混合されています。

明確にしておくと、シンクレティズムはブラジルやアフリカ人のディアスポラに固有のものではありません。それは、あるグループが別のグループ(通常はより強力なグループ)に直面し、影響を受けたときに頻繁に発生します。ラテンアメリカの宗教体系内でシンクレティズムが特に一般的である理由は、1)アフリカ人の奴隷が自身の伝統的な信念に固執する粘り強さのため、2)奴隷がカトリック教義の指導を受けるべきであるというスペイン人とポルトガル人の信念の熱烈さのため、および3)奴隷に対する宗教的指導がよくて場当たり的なものであったという植民地の生活の現実のためです。これにより、アフリカ人の奴隷が伝統的な宗教的実践を目に見えないように隠すことができる完璧な状況が作り出されました。

シンクレティズムは、重なり合う枠組みを仲介する限りにおいて、グローバル化への対応として機能します。もし人々が境界の明確に定義された世界に住んでおり、それらの境界を越えてイデオロギーの交換が行われないならば(そのような世界が存在するとして)、シンクレティズムは不要でしょう。しかし、ほとんどの人にとってそれは生きた現実とはほど遠いものであるため、シンクレティズムはしばしばジェームズ・C・スコットが「弱者の武器」として分類するものとして機能します。それは、疎外された人々が、抑圧者に直接挑戦することなく(それは報復を引き起こす可能性があります)抵抗することのできる方法を指す概念です。[40]例としては、エリートの背後での彼らをからかうこと、わかりにくい破壊行為、妨害行為、エリートを迂回する代替経済への参加などがあります。教室では、教授の後ろで目を回してみせたり、授業中にテキストメッセージを送るときに「うまく出し抜いている」と考えたりすることがあります。カンドンブレの場合も同じです。シンクレティズムは、奴隷と奴隷の子孫(今日でもその伝統を続けている人たち)とが、カトリックの宗派の中で強制された礼拝を遵守しているうわべを作り出す一方で、閉ざされた扉の奥で彼ら自身の信念に敬意を払い続け、そして彼ら自身の民族的アイデンティティーを永続させることを可能にしました。

代替市場への参加

前述のように、IMFや世界銀行などの国際機関によって義務付けられた構造調整により、開発途上国の農民はグローバル市場の気まぐれに対して特に脆弱になりました。この枠組みの中で、社会的な意識を持つ消費者がこれらの政策の影響を受けた小規模農家や職人を支援する方法として、「フェアトレード」が浮上しています。販売業者は、フェアトレードとして認定されるために、「フェアな(公正な)」価格に同意しなければなりません。これは、世界市場の価格がフェアトレードのしきい値を上回った場合には上方修正されます。もし世界市場の価格が下がったとしても、フェアトレード農家はまだまともな生計を立てることができ、賃金労働のために畑を放棄するのではなく、農業を続けることが可能になります。その意図は賞賛に値するものであり、多くの人にとっては疑う余地なく有益ですが、人類学の研究は私たちに対して、すべての状況は複雑であり、「どんな場合にも通用する」完璧な解決策は決して存在しないことを思い出させてくれます。

あなたがフィールドワークの章を読み、このテキスト全体で明示されているのを見てきたのと同じように、人類学者は研究している現象に最も近い人々の生きた経験に焦点を当てています。そこで、フェアトレードの場合には、人類学者は主に農民または職人に焦点を合わせます(ただし、人類学者は、消費者や、フェアトレード商品を輸入したり販売を促進したりする人々を調べることもできます)。農家の視点から見た場合、コーヒーやバナナなどの商品のための適正な賃金を設定し、維持することで、世界市場の価格が下がっても農民が農業を放棄することがなくなります。プラス面として、これは生産者と消費者の両方に少なくともある程度の安定性を確保するのに役立ちます。フェアトレードの重要な特徴の1つは、フェアトレード契約によって生み出される社会的プレミアムです:それは、利益の一定の割合が教育、インフラストラクチャー開発、医療などの有益な共同体プロジェクトに還元されるという約束です。しかし、これを成功させるためには、これらのプレミアムの使用方法を決定するのが、外部の存在(どれだけ良い意図を持っていたとしても)ではなく、地元の共同体でなければなりません。

フェアトレードは非常に訴求力がありますが、誰もがフェアトレードから同じように利益を得ているわけではないことを忘れないでください。フェアトレード協同組合内で指導的地位にある個人は、平均的なメンバーよりも販売業者と強い関係を持つ傾向があり、彼らがフェアトレードのビジネス全体とより積極的な関係を持つことにつながります。[41]同様に、より多くの文化的および社会的資本を有する人々は、フェアトレードの利益により多くアクセスするでしょう。たとえば、ローレンがベリーズで共に働いたカカオ農家は、教育の少ない農家は略奪的な取引業者によって常につけこまれるだろうと指摘しており、それが彼らが自由貿易市場に参入する際にうまく構成された生産者協会の支援を必要とする理由です。また、懸念されるのは、一部の共同体では、フェアトレードが従来の役割と関係性を混乱させるということです。たとえば、グアテマラのマヤの村では、男性の商品(コーヒー)には公正な貿易市場がある一方で、女性の主要な商品(織り物)にはそれがなかったため、伝統的なジェンダーの役割が損なわれ、男性がさらに支配的になりました。[42]

自分の商品のための市場を見つけるという課題に加えて、フェアトレードに参加するための追加の障壁があります。たとえば、以前は、農民は比較的低品質のコーヒーを、社会正義に関心のあるフェアトレード組織に売ることができました。しかしながら、今では、フェアトレードのコーヒーはスペシャルティコーヒーと競争するために並外れた品質でなければなりません。[43]これは本質的に悪いことではありませんが、今日の一流のコーヒー生産者の一部は、かつては低品質の生産者であったことを思い出してください。換言すると、フェアトレードコーヒー農家の第一世代は、フェアトレード企業が彼らの農場、加工機器、教育に投資した(新しい参加者がまねできないようなやり方で)多くの方法の恩恵を受けました。実際、ひとたびこれらの初期の農家が高品質のコーヒー豆を達成できるようになった後は、フェアトレードの販売業者が新しい農場に投資するインセンティブは少なくなりました。今や水準が非常に高く設定されており、新しい農家がフェアトレード市場に参入することははるかに困難になっています。なぜなら、彼らには、フェアトレード企業と長年の関係を持っている農家が持つ設備、経験、知識、ネットワークが不足しているからです。

また、注目に値するのは、グローバルな基準が現地の意思決定の規範と矛盾するような多くの状況です。たとえば、欧州連合のバナナ市場内でフェアトレードとして分類されるためには、バナナは非常に高品質でなければなりません。バナナ農場は、殺虫剤を避けたり、バナナの木と水源との間に緩衝地帯を作ったりするなど、他の多くのガイドラインに準拠しなければなりません。これらすべては理論的には理にかなっているかもしれませんが、実際には、土地が個々の区画に細分されることなく世代から世代へと慣習的に受け渡されるカリブ海地域の一部などで、問題になる場合があります。これらの場合、土地利用についての決定は集合的に行われなければなりません。もし一部の地主がフェアトレードのガイドラインに従って農業を行いたいものの、他の個人がこれらのグローバルに義務付けられた基準を満たすことを拒否した場合、家族全員がフェアトレード市場に参入できなくなります。[44]

人類学にとっての含意

このテキスト全体で議論されているように、文化は動的です。文化に特化した研究分野としての人類学も同様です。人類学の多くの学生(一般の人々は言うまでもなく)は、孤独な民族誌学者が、遠く離れた農村の共同体の豊かな生活にひたるというロマンチックな見方を持っているかもしれませんが、これは今日のほとんどの人類学者にとって現実ではありません。ますます多くの人類学者が応用的な状況の中で仕事をしており(「人類学者のように見る」の章を参照)、より厳密に特定された「学術的な」人類学者の多く(大学で雇われている人たち)でさえ、平均的な人によく知られているような状況の中で仕事を始めています。今では人類学者は、お金、人、およびアイデアのグローバルなフローの重要性を理解しているため、これらの問題が発生するあらゆる場所で(外国とともに自国(それがどこであろうと)でも)研究を行うことの重要性が明らかになっています。

都市人類学

グローバル化は現代社会における強力な流行語になっており、少なくとも小さなやり方でグローバル化の影響を受けたことがない人を見つけるのは困難でしょう。直接的(多国籍企業を介してなど)または間接的(気候変動を介してなど)にかかわらず、グローバル化が世界中の日常生活に広く影響していることで、人類学者が尋ね始めているような多くの疑問が生じています。たとえば、人類学者は、世界のさまざまな地域の人々に対するグローバルな政策の影響を調査する場合があります。国際通貨基金と世界銀行の金融政策により、通常は、富裕国がより豊かになり、貧困国がより貧しくなるのはなぜなのでしょうか?たとえば、ノーマ・イグレシアス・プリエトは、彼女の著書「マキラドーラの美しい花(Beautiful Flowers of the Maquiladora)」(1997)で、ティファナの悪名高い国境地帯の工場で働いているメキシコ人女性の生活を間近で描写しています。[45]これらの工場の労働条件は危険であり、女性は男性の監督者による侵襲的な監視の対象となっていますが、それでもこの本で取り上げられている女性の多くは、仕事によってもたらされるわずかな贅沢に感謝しています。他の人は、家庭を支えたり、自分の生活の中で男性からわずかな経済的自立を得る機会を高く評価しています。グローバル化がそのような個人にとって「良い」か「悪い」かに関して人為的な一律の答えを提供することはできないため、人類学者は、これらのグローバルな力によって最も影響を受ける人々の生きた経験に焦点を合わせます。そのような環境に住むというのはどのようなものなのでしょうか?それは時間の経過とともにどのように変化しましたか?費用と便益は何ですか?

特に人とアイデアの重なり合うフローの中では、移動性、トランスナショナリズム、アイデンティティーに関する質問が人類学の分野にとってますます重要になっています。いくつかの例外が存在しますが(下記のキノアのケーススタディを参照)、一般的な傾向はグローバル化が都市化をもたらすことです。ネオリベラリズムには、国費によるプログラムと仕事の喪失、小規模農場が持続不可能になること、そして都市部で最も一般的に見られる経済的な代替手段の必要性が伴います。長い間、人類学者は都市と都市生活を研究してきましたが、近年では、都市中心部への人口集中は都市/メトロポリスの人類学への重要性を増加させています。[46]実際、都市人類学という用語は、都市での生活の経験、および都市生活と、グローバル化、貧困、ネオリベラリズムの問題を含むより広い社会的、政治的、経済的文脈との関係を記述するために使用されるようになりました。[47]グローバルな文脈での都市への注目の高まりは、トランスナショナリズムの問​​題への認識と注意を高めました:トランスナショナリズムとは、国民国家の地政学的な境界を越える出来事によって人々の生活が生かされ、および/または著しく影響されるかもしれないという理解のことです。[48]

ケーススタディ:キノアのグローバルな需要

ある人々の集団がある社会内でほとんど地位を与えられないとき、彼らの食物もしばしば同様に中傷されます。[49]これは、最近まで、先住民族の農民に関連付けられていたボリビア社会のキノアにも当てはまりました。[50]アメリカとヨーロッパの「第一世界」のパターンを反映して、都市居住者はパスタや小麦ベースの製品などの食品を好みました。これらの製品の顕示的な消費は、彼らの「洗練された」選択と好みを表示する機会を与えました。当然のことながら、ボリビア市場ではキノアに対する地元の需要はほとんどありませんでした。ボリビア政府がネオリベラリズムの政策を採用したことで、小規模農民が利用できる貧弱な財政的保護すらなくなり、キノア生産の魅力をさらに弱めました。それでも十分ではないかのように、1980年代初頭の重大な干ばつは、ボリビアの南部アルティプラーノ地域の多くの小規模農家に災難をもたらしました。これらの重なり合って増幅しあう障害の結果として、多くの人々は、1)ラパスのような都市へ、2)チリなどの近隣諸国へ、さらに3)ヨーロッパへと移住しました。

ボリビアの農民が直面している状況は独特なものではありません。現在、世界の人々の半数以上が都市に住んでいます。これは、第二次世界大戦の終結から始まって、1990年代に広がった広範な都市化の結果です。その結果、多くの農民は彼らの伝統的な生業の様式へのアクセスを失いました。都市への移住は、教育、インフラストラクチャー、賃金労働へのアクセスなどの利点を提供することができますが、それはまたアイデンティティーの喪失をもたらすこともあります。都市に移住する多くの農民は、特にほとんどの状況ではこの新しい環境で成功するために必要な社会的および文化的資本なしで到着するために、標準以下の条件で周縁で生きていくことを余儀なくされます。

先住民族のボリビア人にとって幸いなことに、彼らの政府が採用した構造調整は、有機食品や健康食品に対する外国人の関心の高まりと一致していました。農村部の農民は、自給自足と直近の地元の市場のためだけに食物を生産すると考えられがちですが、これは必ずしもそうではありません。状況によっては、農民は地元の市場を完全に迂回して、自分たちの商品がより多くの文化的資本を持つ場所(したがって経済的価値がある場所)に向けて、それらを輸出することができます(上記の好みについての議論を参照)。1970年代、この地域にトラクターが導入されたことで、農家は以前に好んでいた丘の斜面の段々畑に加えて、低地でもキノアを栽培できるようになりました。1980年代、農民の協同組合グループは、キノアの輸入を希望する購入業者をグローバル・ノースで見つけることができました。これらの協同組合は、生産を拡大するための最良の方法を研究し、プロセスをより効率的にするために機械に投資しました。現在、キノアは非常に価値のある商品であるため、以前にこの地域を放棄した多くの人々がアルティプラーノに戻ってきています。しかし、これは単純な成功物語ではありません。なぜなら、特に、ボリビアの地方の再農業化と、グローバル・ノースに販売することができるために多くの人々の日常の食事から健康な地元の作物が取り除かれたという事実とに関連する深刻な問題があるからです。

都市からアルティプラーノへ戻る逆移住によって提起された別の深刻な問題は、環境の持続可能性に関するものです。平坦な低地では、丘の急斜面よりも大量のキノアを容易に栽培できますが、低地の土壌はその成長にあまり役立ちません。機械の使用は大いに役立ちましたが、それは、キノアと共生関係にあるリャマの使用の減少にもつながりました。今では農家は、自分の動物が提供する肥しを使用するのではなく、化学肥料に投資しなければなりません。世界的なキノアのブームは、アイデンティティーと共同体の意思決定についての質問も提起します。この地域にとどまっていた家族と都市から戻ってきた家族の間で対立が生じています。この地域にとどまった農民であるペドロは、他の人々のことを「彼らは戻ってきたが、見知らぬ人としてだ」と語っています。[51]この2つのグループは、土地を尊重することの意味と、この新しい換金作物からのお金をどのように使用すべきかという点でしばしば衝突しています。

それでは、キノアに対する国際的な需要は、ボリビアの農村部の農民にとって良いことなのでしょうか?ある意味では「はい」ですが、別の意味では「いいえ」です。全体として、答えを確実に知るには時期尚早かもしれません。

図12.5:アリシアとフリオのアヤマラ夫妻がペルー南部のチチカカ湖の上にある彼らの農地で小麦を収穫しています。彼らが育てる他の自給自足の作物には、キノア、大麦、およびジャガイモが含まれますが、グローバルな市場はこのような自給自足の農家に対して、「換金」作物としてより多くのキノアを育て、世界の需要を活用するように圧力をかけてきます。ペルーのフリ、2005年。(Photo by Jerome W. Crowder. All rights reserved)

私たちがどのようにして — そして「どこで」 — 研究を行うのかについての変化

グローバル化は、人類学者が研究するものだけでなく、彼らがそれらのトピックにアプローチする方法も変えています。複数箇所での民族誌学(マルチサイテッドエスノグラフィー)は、グローバルなプロセスとローカルな状況との間のつながりを前面に押し出すことにより、特定のトピックと問題をさまざまな地理的な現場にわたって調査します。[52]ある人の調査の対象が複数の場所に関与および/または影響しており、それらの複数の地理的文脈を考慮することによって最もよく理解することができる場合に、複数箇所での民族誌学を実施することができます。たとえば、サラ・ストラウスは、彼女のヨガの研究「ヨガを位置付ける:文化を超えたバランスをとる行為(Positioning Yoga: Balancing Acts Across Cultures)」(2005)の中で、もし彼女がヨガを学んでいるインド人だけに焦点を合わせたならば、彼女の研究は不完全となるであろうことを発見しました。この国境を越えた現象を理解するために、彼女は、発祥の地までヨガを学びに行ったことのある非インド人のヨガの実践者にも注目することの重要性を認識しました。[53]ニュースメディアの特派員を研究しているスウェーデンの人類学者ウルフ・ハナーツのもののような研究は、人々が移動する際にどのようになるかを強調し、複数箇所であり多局的でもある研究のコミュニティーを作り出します。[54]これらのモデルのさらなる研究が拡大しており、局所を超えるさまざまな現場、つまり地理的に定義できない「場所」を強調しています。そのようなモデルには、活動ベースの人類学(文化の「場所」および/またはコミュニティーの基盤が、活動自体であるもの)[55]、およびデジタル人類学(現場がオンライン上に存在するもの)[56]を求めるものが含まれます。

グローバル化の応用:今日のシリアの状況(ローリー・キングの厚意による)

シリアは今日、終末論的な様相を私たちに提示しています:ホムスなどの主要都市は瓦礫と化し、そこに残っている人は皆、飢えています。2011年以降、25万人以上の民間人が大型爆弾、砲撃、内紛によるテロリストの攻撃、ドローン攻撃、化学兵器の使用、およびロシアの空襲により殺されています。武装と資金の豊富なイスラム主義の民兵がこの国の大規模な区画を支配し、事実上シリアとイラクの国境を消し去り、それによって1916年のサイクス・ピコ協定(オスマン帝国の崩壊後の現代の中東に新しい国民国家を確立したもの)を無効にしました。

いわゆるイスラミック・ステート(IS/ダーイシュ)は、パルミラ(タドモル)​​などの世界遺産を破壊し、非イスラム教徒の町を民族的に浄化し、女性を奴隷にし、斬首、焼殺、集団処刑の恐ろしい画像を世界中のメディアにあふれさせました。豊かな多文化の遺産を伴う見事な建築の美しさで知られる都市アレッポは、IS、シリア政権軍、および多様であるが主にイスラム主義のシリアの反対派の間の戦いの結果、現在では修復不可能なほど損害を受け、ほとんど人が住んでいません。

シリアの地方部での農業は事実上停止しています。2003年以来、シリアの農業は長期の干ばつに苦しんでおり、多くの農村部の家族がダマスカスやアレッポなどの都市部に押し寄せていました。[57]2015年、ノルウェーのスヴァールバル世界種子貯蔵庫(「終末の日に備える種子貯蔵庫」)は、シリアの人口を養う作物にとって必要な種子を入手するために、初めて扉が開けられました。[58]一方、夕方のニュースを見るとわかるように、何百万人もの難民が、主にシリアとトルコの国境を通って国外に流出し続けており、不安定な船でギリシャに危険な旅をし、地獄の風景と化した彼らの国からヨーロッパへと家族を連れ出したいと望んでいます。

5年前、シリアの社会と政治についての学者は、誰もシリアが現在直面しているような悲惨な状況を予測できませんでした。1970年以来のアサド政権によるシリア社会のあらゆる側面に対する強い支配力を考えると、過去5年間の劇的な変化は2011年の初めには考えられませんでした。アパデュライによって列挙されたグローバル化のスケープとフローは、過去40年間にシリアにはほとんど存在しませんでした。1970年に無血クーデターを通じて権力を握ったハーフィズ・アル-アサドの強硬なバアス党政権は、金融と商取引の分野で深く孤立しており、地域的にも国際的にも世界に向けて開かれていませんでした。決して主要な石油大国ではなく、農業のための広大な肥沃な土地にも恵まれていないシリアの経済は、主に産業と商業に集中していました。

1980年代半ばまで、シリアには、産業やサービス業の個人所有を避ける高度に中央集権化された経済がありました。冷戦(シリアがソ連の支持国家であった期間)の終結と、その後の地域の権力動態の劇的な変化(特に1991年のイラク戦争でサダム・フセインの軍がクウェートから敗走し、イラクでバアス党政権の権力が縮小したこと)のため、シリアは、他のアラブ諸国や西側諸国からの譲歩を活用することができる重要な地域の影響力を持つ国家として浮上しました。イラクに対抗する米国主導の連合への参加と引き換えに、米国と国際社会は、シリアが隣国(および以前の統治領)のレバノンに対する直接的および間接的な支配権を行使することに異議を唱えませんでした。レバノンでは、相互に接続された一連の内戦、地域戦争およびグローバルな戦争が15年の間猛威を振るっていました。

シリアの政治的および軍事的支配によって、1992年から2005年の間はレバノンの戦争が事実上凍結されました。レバノンでの言論の自由はシリアの指導の下で大幅に低下しましたが、規制されていない市場経済は戦後の大規模な復興ブームを中心に栄えました。シリアの経済エリート(主として政権の延長線上にいます)は、レバノンの商取引から大きな恩恵を受けた一方で、何千人ものシリア人労働者がレバノンに殺到し、新しい都市中心部の建設作業とインフラ修理を行いました。レバノンからのお金の流入は、シリア政権(そのメンバーは血縁や姻戚によって親族でもありました)と、裕福なビジネスマンの成長する階級(彼らの富は政権のおかげでした)との間の保護者/支持者のつながりを強化し、定着させました。バッサム・ハダッドが指摘しているように、政権と大企業の孤立と腐敗は、私的な領域と公的な領域の間の境界線を曖昧にする一方で、シリア内の階級の分断を鋭くしました。[59]政治改革、経済的透明性、および国際商取引を促進するいかなる試みも、シリアの政治、商業、および軍事/諜報エリートによって疑わしいものと見なされました。

2000年6月、ハーフィズ・アル-アサドが亡くなりました。彼の息子のバッシャールは、長年ロンドンに住んでいた眼科医でしたが、彼の跡を継ぎました。地元および国際的な観察者は、新しい、外国の教育を受けた若い大統領が経済改革と政治的分権の時代を開始するかどうか知りたいと思っていました。バッシャールはシリアをインターネット時代に持ち込むことを切望していたようで、彼の政権の最初の数年は、経済的および政治的改革の必要性についての比較的自由な議論が行われ、多くの政治囚が拷問され殺害された悪名高いメッゼ刑務所の閉鎖は歓迎されました。しかし、権力はバアス党の上層にいる少数の人々の手に残っていました。その一部は、父親のような動じない態度と疑う余地のない権威に欠けるバッシャールが信頼に値するかどうかが分かりませんでした。

シリアには、石油に富んだ湾岸諸国などの近隣諸国が享受するような物質的および金融的資本がありませんでしたが、ポスト冷戦時代においてイスラエルに対抗し、このユダヤ人国家との関係の正常化に抵抗する唯一の最前線のアラブ民族主義国家として象徴的な資本の恩恵を受けました(パレスチナ解放機構とヨルダンですらイスラエルと平和条約を確立するためにエジプトに加わったにもかかわらず)。シリアが自ら行うことを期待して、米国はシリアに内部改革または地域経済統合の厳しい要求をしませんでした。

2005年2月、レバノンでのシリアの支配に対するレバノン人の不満が高まる中で、ラフィーク・アル-ハリーリー首相と彼の同僚十数人が、ベイルートの繁華街を車列で走行中に、大規模な自爆テロによって殺害されました。(今日まで、多くの人がシリアの関与を​​疑っていますが、自動車爆弾の背後に誰がいたのかを決定的に知っている人はいません。)すぐに大規模で、主として平和的なデモがベイルートで巻き起こり、数週間のうちにシリアはレバノンの占領を終了し撤退することを余儀なくされました。

シリアは長年にわたって国境を出入りする人々と富の大きなフローを経験していませんでしたが、21世紀の最初の10年間にメディアとテクノロジーのフローが成長していました。2010–11年のアラブの春の蜂起をきっかけにしたチュニジアとエジプトからのアイデアとイメージのフローは、シリアがグローバル化の動態を初めて持続的に経験する先駆けとなりました。グローバル化は、政治科学者マンフレッド・スティーガーによってこのテキストの中で以下のように記述されています:「遠く離れた場所で発生する出来事によって地元の出来事が形作られるとともに、その逆も同様であるような方法で、遠く離れた場所をつなげる世界的な社会的関係の強化。」[60]

2011年2月、エジプトでの抗議行動が始まった翌日である1月26日の前例のない街頭抗議の後、政権はFacebookとYouTubeの禁止を解除しました。(これ以前、シリア人はプロキシサーバーを介して禁止に違反していました。)まもなく、いくつかのFacebookグループが抗議行動を組織し、「怒りの日」を呼びかけさえして、人々が政権に対して抗議するために街頭に繰り出すよう奨励しました。しかし、これでは何も起こりませんでした。何千もの「いいね」を集めたにもかかわらず、新しいFacebookページの指示に従う人はいなかったようです。[61]

アラブ世界におけるインターネットの影響は、衛星テレビの現象、特にアル-ジャジーラの現象に基づいています。アル-ジャジーラは、アラブ世界における政治的問題および人権の問題についての言説と議論の新たな空間を開き、それによって国有のニュース番組とそれらを支える権力構造の正当性と有効性を弱体化させています。アル-ジャジーラは強力な改革主義精神を植え付けましたが、ブログはアラブの運動の取り組みを推進し強化する上で特に重要でした。

ブログの前には、チャットルーム、メーリングリスト、および電子メール通信がありました。これらはすべて、アラブの一部の国家で公共の言説のためのサイバー世界を強化および拡大しましたが、シリアではそうではありませんでした。エジプトのブロガーの中には、インターネットとソーシャルメディアを「私たちの肺だ。もしそれらが切り離されたら、私たちは窒息するだろう」と言った人もいます。インターネット通信技術(ICT)の結果として、アラブ世界における社会的孤立は、会話と討論のコミュニティーの形成に道を譲り始め、それは最終的には街頭に出て、現実世界で歴史を作るような社会運動に発展しました。マニュエル・カステルの言葉を使用すると、私たちの「ネットワーク化された社会」は、私たちを水平に結び付け、互いのコミュニケーションだけでなく、自己コミュニケーションと自己創造を可能にします。[62]私たちはニュースを消費するだけでなく、今ではニュースを評価し、選り分け、返答します。私たちは見出しを読むだけではなく、私たちのニュース速報に対するネットワーク化された行動と反応が国や大陸に波及して、見出しを作ることができます。

西洋のメディアはエジプトの蜂起にかなりの注意を払いましたが、シリアの蜂起はあまり報道されませんでした。これはおそらく、エジプトが西洋の文化的想像力の一部であるためです。(「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」などのハリウッド映画や、大衆文化におけるピラミッド、ファラオ、王家の谷などの描写はすべて、この証拠です。)シリアは、厳しく管理された権威主義国家であり、何十年もの間、西洋の観光客、学者、映画プロデューサー、あるいはジャーナリストでさえも目的地とはしていませんでした。そのため、街頭での抗議と人々の苦闘は、西洋のメディアの報道ではあまり見られませんでした。すべての主要なアメリカの通信社は、カイロのタハリール広場での蜂起をリアルタイムで報道していましたが、シリアでの抗議と市民社会のアクティビズムのニュースは、常に世界中に届くというわけではありませんでした。

シリア政権は、ソーシャルメディアの禁止を解除することによる、ソーシャルメディアが世論を導くまたは利用する能力を過小評価していたようです。徹夜の集会、抗議、行進が、当初は平和的にシリアの街頭に現れ始め、どんどんと多くの群衆を引き寄せました。公の政治的表現に慣れていなかった政権の反応は、迅速かつ容赦なく残忍なものでした。人々を脅して沈黙させるのではなく、政権は今や武装勢力に立ち向かうこととなりました。わずか1年以内に、ソーシャルメディアの抗​​議行動が路上での抗議行動になり、それが政権側の勢力と反政権側の勢力との間の路上での戦闘となりました。シリアで経験されたようなグローバル化は、ソーシャルメディアの時代に社会的行動を制御および制約しようとする権威主義的な政権の能力の限界を明らかにしました。

シリアは現在、国境を越える人々のフローを経験しています。シリア人は何百万人という単位でトルコ、ヨーロッパ、ヨルダン、レバノン、イラクに逃れており、世界最悪の難民危機を生み出しています。一方、イスラミック・ステート(IS)のメッセージに惹かれて、若い男性と女性が、中東全域およびヨーロッパや北米といった遠く離れた場所からシリア東部とイラク西部のIS支配地域に旅をし、「グローバルなジハード」に参加しています。

ISの高品質かつ惨たらしいビデオ作品が示すように、テクノロジーとメディアの資源、技能、および知識が、シリアの国境を出入りするように流れています。石油の富からの資金のフローは現在ISの手中にあり、食糧資源は可能な場合にはマーシー・コーのような国際的な非政府組織から国内に流れ込んでいます。シリアは、グローバル化の欠点の例であり、1つの国の危機がいかに迅速にグローバルな危機になり得るかを示しています。

結論

「グローバル化」という用語は、単にグローバルな規模で生じる接触、伝達、輸送について話すための言葉のショートカットではありません。この章は、人類の歴史の大部分を通じて、まったく異なる場所の間の接触が存在してきたことを示しました。しかしながら、今日使用され理解されているように、グローバル化とは接触の全範囲をはるかに超えるものです。それは、そのような接触の速度と規模のことを指しています。このように理解すると、グローバル化とは現代的な現象です。それは単にいくつの場所が接続されているかだけでなく、いくつの方法で、どのような頻度で接続されているかについてのものです。

人々はかつて新しい場所に行くには馬や帆船に頼らなければなりませんでしたが、大量輸送(特に空の旅)がそのような移動を多くの人々の日常生活の一部にし、テレビを見たことがなかったような人でも翌週にはジャカルタ、カイロ、あるいはトロントにいるかもしれません。以前は伝書鳩が先を争っていたニュースは、今ではほとんど瞬間的に送信され、かつて物理的な図書館に収められていた情報は、世界中の人々が携帯するスマートフォンでアクセスできるようになりました。グローバル化は、「良いもの」でも「悪いもの」でもなく、今日における紛れもない事実です。ビジネスウーマンが国際的なハブ間を毎週のように移動する場合であっても、男性が人里離れた高原で畑の面倒を見ている場合であっても、どちらの生活も、特定の作物が世界市場でどのように受け取られるかによって等しく影響を受けます。グローバル化は、機会と制約の両方を提供することで、現在の私たち全員が実地で人生をどのように生きるかを決めるような背景(舞台ではないにしても)となっています。

ディスカッションのための質問

1.ケルシー・ティマーマンは、彼の研究で、平均的なアメリカ人が多くの異なる国々で作られた服を着ていることを発見しました。これは、日常の品物がどのようにしてアルジュン・アパデュライの5つのスケープすべてに関係するかを示しています。あなたの日常生活の一部であるような別の製品を選んでください。あなたはそれをいくつのスケープに接続することができますか?
2.グローバル化は新しい形態の消費を可能にしますが、グローバル化が個人の生活様式に与える影響は、社会経済的地位を含む多くの要因に基づいて異なります。開発途上国の人々と比べると、裕福な国の人々はどのような異なるやり方でグローバル化を経験していますか?衣服や食品などの商品の生産者と消費者とでは、グローバル化によってどのように異なる影響を受けますか?
3.ラテンアメリカでは、グローバル化とネオリベラリズムによって、重要な資源に対する地元の人々の管理を減らすような政策(水道の民営化など)が発展しています。どのようなやり方で、グローバル化は開発途上国に利益と問題の両方をもたらす「両刃」の剣となっているでしょうか?
4.グローバル化は、活動自体が研究対象の「場所」である活動ベースの人類学、または現場がオンライン上に存在するデジタル人類学に取り組む可能性を提示します。どのような活動やデジタル環境に対してこのアプローチを使用して研究すると興味深いと思いますか?

用語集

商品チェーン:食品が生産される場所から消費者に販売される店舗に至るまでの一連の段階。

エスノスケープ:境界を越えた人々のフロー。

ファイナンススケープ:政治的な国境を越えたお金のフロー。

グローバル・ノース:世界の裕福な国々を指します。この定義には、「第一世界」または「高度先進国」と呼ばれることもある国が含まれます。

グローバル・サウス:世界で最も貧しい国々を指します。この定義には、「第三世界」または「後発開発途上国」と呼ばれることもある国が含まれます。

グローカル化:グローバルなアイデアをローカルに受け入れられるような形で適応させること。

ハビトゥス:個人的な「好み」と生活様式のための学習基盤であるような気質、態度、または選好。

イデオスケープ:アイデアの世界的なフロー。

メディアスケープ:国境を越えたメディアのフロー。

ネオリベラリズム:民営化と規制されていない市場を強調する自由市場資本主義のイデオロギー。

シンクレティズム:一見矛盾していると思われるものも含めて、異なるいくつかの信念を新しい調和のとれた全体へと組み合わせること。

テクノスケープ:テクノロジーの世界的なフロー。

著者について

ローレン・ミラー・グリフィス博士は、テキサス工科大学の人類学の助教授です。彼女の研究課題は、ブラジル、ベリーズ、米国におけるパフォーマンス、観光、教育の交差点に焦点を当てています。具体的には、彼女はアフリカ系ブラジル人の武術のカポエイラと、ブラジル人以外の実践者がこの武術の故郷であるブラジルへの旅行を利用してどのようにしてこのジャンルの中における彼らの正当性を高めるかに焦点を当てています。グリフィス博士の現在の関心には、ベリーズにおける観光、文化遺産、持続可能性の間のつながりが含まれます。彼女は特に、先住民の共同体が成長する観光産業に参加するかどうかを決定する方法と、これらの決定の長期的な影響に関心を持っています。

ジョナサン・S・マリオン博士は、アーカンソー大学の人類学部の准教授であり、ジェンダー研究運営委員会のメンバーです。また、彼は「ボールルーム:競技ダンスの文化と衣装(Ballroom: Culture and Costume in Competitive Dance)」(2008)、「ビジュアルリサーチ:視覚的に考えることへの簡潔な入門(Visual Research: A Concise Introduction to Thinking Visually)」(2013、ジェローム・クラウダーと共著)、および「社交ダンスと魅力(Ballroom Dance and Glamour)」(2014)の著者です。また彼は、現在、人文人類学協会の会長であり、視覚人類学協会の前会長です。マリオン博士の進行中の研究は、パフォーマンス、具体化、ジェンダー、およびアイデンティティーの相互関係を調査するとともに、視覚研究倫理、理論、および方法論の問題を探求しています。

注記

[1] 以下を参照。Charles Lindholm, Culture and Authenticity (New York: Wiley, 2007).
[2] Robby Soave, “Oberlin College Students: Cafeteria Food is Racist,” The Daily Beast, December 20, 2015 http://www.thedailybeast.com/articles/2015/12/20/oberlin-students-cafeteria-food-is-racist.html
[3] Manfred Steger, Globalization: A Very Short Introduction (Oxford: Oxford University Press, 2013).
[4] Steger, Globalization, 13.
[5] Steger, Globalization.
[6] Ibid.
[7] Ibid.
[8] United Nations World Tourism Organization, “Why Tourism,” http://www2.unwto.org/content/why-tourism
[9] 公平を期すと、責任ある政策立案者や企業、地元の共同体、旅行者自身もこれらの問題に関心を持っているかもしれません。
[10] 以下を参照。Benedict R. Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism (London: Verso, 1983).
[11] Daniel L. Everett, Don’t Sleep, There Are Snakes: Life and Language in the Amazonian Jungle (New York: Vintage Books, 2009).
[12] Daniel L. Everett, “What Does Pirahã Grammar Have to Teach Us About Human Language and the Mind?” Wiley Interdisciplinary Reviews: Cognitive Science 3 no. 6 (2012): 555–63.
[13] Kelsey Timmerman, Where Am I Wearing? (Hoboken, New Jersey: John Wiley & Sons, Inc., 2012).
[14] Robin Schmidt and Morten Vest, Maasai on the Move, Film, directed by Robin Schmidt and Morten Vest (2010, Danish Broadcasting Corporation).
[15] 以下を参照。Chanchal Kumar Sharma, “Emerging Dimensions of Decentralisation Debate in the Age of Globalisation” Indian Journal of Federal Studies 19 no. 1 (2009): 47–65.
[16] Anya Peterson Royce, Becoming an Ancestor: The Isthmus Zapotec Way of Death (Albany: State University of New York Press, 2011).
[17] Rigoberta. I Menchu, Rigoberta Menchu: An Indian Woman in Guatemala, trans. Ann Wright (London: Verso, 1984).
[18] たとえば、以下を参照。Peter Wade, Music, Race and Nation: Musica Tropical in Colombia (Chicago: University of Chicago Press, 2000). または、以下を参照。Lise Waxer, The City of Musical Memory: Salsa, Record Grooves, and Popular Culture in Cali, Columbia (Middletown, CT: Wesleyan University Press, 2002).
[19] サルサや他の身体化された実践において、大会やフェスティバルのような場で訓練を受けるために旅をすることに関しては、以下を参照。Griffith and Marion, Apprenticeship Pilgrimage: Developing Expertise through Travel and Training (Lexington: forthcoming).
[20] Sydney Hutchinson, Salsa World: A Global Dance in Local Contexts (Philadelphia: Temple University Press, 2013).
[21] また、以下を参照。Lise Waxer, Situating Salsa: Global Markets and Local Meanings in Latin Popular Culture (New York: Routledge, 2002).
[22] David Chaney, Lifestyles (London: Routledge, 1996), 92.
[23] Chaney, Lifestyles.
[24] Ibid.
[25] Ibid., 24.
[26] Ibid., 57.
[27] Pierre Bourdieu, Distinction: A Social Critique of the Judgment of Taste, trans. Richard Nice (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1984).
[28] Shamus Rahman Khan, Privilege: The Making of an Adolescent Elite at St. Paul’s School (Princeton, NJ: Princeton University Press, 2012).
[29] Chaney, Lifestyles, 60.
[30] Economic Research Service, United States Department of Agriculture, “Food Security Status of U.S. Households in 2014” http://www.ers.usda.gov/topics/food-nutrition-assistance/food-security-in-the-us/key-statistics-graphics.aspx
[31] Pierre Bourdieu, Distinction.
[32] Manfred Steger, Globalization, xiii.
[33] Kelsey Timmerman, Where Am I Wearing?.
[34] Bruce Campbell and Lisa Goddard, “Climate Change, Food Security and the Refugee Crisis: Connecting the Dots to Avoid Future Tragedy.” https://ccafs.cgiar.org/blog/climate-change-food-security-and-refugee-crisis-connecting-dots-avoid-future-tragedy#.Vt1JXJMrLu4
[35] Centers for Disease Control and Prevention, “2014 Ebola Outbreak in West Africa.” http://www.cdc.gov/vhf/ebola/outbreaks/2014-west-africa/index.html
[36] Steger, Globalization, 54.
[37] このケーススタディは以下の研究に基づいています。Nicole Fabricant and Kathryn Hicks, “Bolivia’s Next Water War: Historicizing the Struggles over Access to Water Resources in the Twenty-First Century” Radical History Review 116 (2013): 130–45.
[38] Ibid., 131.
[39] Thomson Reuters, “Lake Poopo, Bolivia’s 2nd-Largest Lake, Dries Up” December 18, 2015, http://www.cbc.ca/news/technology/lake-poopo-bolivia-dries-up-1.3371359
[40] James C. Scott, Weapons of the Weak: Everyday Forms of Peasant Resistance (New Haven: Yale University Press, 1985).
[41] Sarah Lyon and and Mark Moberg, eds. Fair Trade and Social Justice (New York: New York University Press, 2010).
[42] Sarah Lyon, “A Market of Our Own: Women’s Livelihoods and Fair Trade Markets,” in Fair Trade and Social Justice, ed. Sarah Lyon and Mark Moberg (New York: New York University Press, 2010).
[43] Julia Smith, “Fair Trade and the Specialty Coffee Market: Growing Alliances, Shifting Rivalries,” in Fair Trade and Social Justice.
[44] Mark Moberg, “A New World? Neoliberalism and Fair Trade Farming in the Eastern Caribbean,” in Fair Trade and Social Justice.
[45] Norma Iglesias Prieto, Beautiful Flowers of the Maquiladora: Life Histories of Women Workers in Tijuana, trans. Michael Stone and Gabrielle Winkler (Austin: University of Texas Press, 1985).
[46] 特に、以下を参照。Setha M. Low, “The Anthropology of Cities: Imagining and Theorizing the City” Annual Review of Anthropology 25 (1996):383–409 and Ulf Hannerz, Exploring the City: Inquiries toward an Urban Anthropology (New York: Columbia University Press, 1980).
[47] Oxford Bibliographyの「都市人類学」の項目については、以下を参照。http://www.oxfordbibliographies.com/view/document/obo-9780199766567/obo-9780199766567-0026.xml オンラインでの短い概要については、以下を参照してください。http://www.indiana.edu/~wanthro/URBAN.htm (prepared by Layla Al-Zubaidi).
[48] 以下を参照。Andrew Irving, “Cities: An Anthropological Perspective” Anthropology Matters 6 no. 1 (2004):1–4. http://www.anthropologymatters.com/index.php/anth_matters/article/viewFile/105/207
[49] このケーススタディは以下の研究に基づいています。Tanya M. Kerssen, “Food Sovereignty and the Quinoa Boom: Challenges to Sustainable Re-Peasantisation in the Southern Altiplano of Bolivia” Third World Quarterly 36, no. 3 (2015): 489–507.
[50] 以下を参照。Richard Wilk, “‘Real Belizean Food’: Building Local Identity in the Transnational Caribbean” American Anthropologist 101 no. 2 (1999): 244–55.
[51] Quoted in Tanya M. Kerssen, “Food Sovereignty and the Quinoa Boom.”
[52] George E. Marcus, “Ethnography in/of the World System: The Emergence of Multi-Sited Ethnography.” Annual Review of Anthropology, 24 (1995): 95–117. http://www.dourish.com/classes/readings/Marcus-MultiSitedE-thnography-ARA.pdf より最近の視点については、以下を参照。M.A. Falzon, Multi-Sited Ethnography: Theory, Praxis and Locality in Contemporary Research (Farnham, UK: Ashgate Publishing Limited, 2012).
[53] Sarah Strauss, Positioning Yoga: Balancing Acts across Cultures (Oxford, UK: Berg, 2005).
[54] Ulf Hannerz, “Being there… and there… and there! Reflections on Multi-Site Ethnography” Ethnography 4 no. 2 (2003): 201–216.
[55] Jonathan S. Marion, “Beyond Ballroom: Activity as Performance, Embodiment, and Identity” Human Mosaic 36 no. 2 (2006): 7–16, 2006. また、以下も参照。Jonathan S. Marion, Ballroom: Culture and Costume in Competitive Dance (Oxford, UK: Berg Publishing, 2008) and Jonathan S. Marion, “Circulation as Destination: Considerations from the Translocal Culture of Competitive Ballroom Dance” Journal for the Anthropological Study of Human Movement 17 no. (2012).
[56] 以下を参照。Tom Boellstorff, Coming of Age in Second Life: An Anthropologist Explores the Virtually Human (Princeton University Press, 2009). 理論と方法についての詳細は、以下を参照。Tom Boellstorff, Bonnie Nardi, Celia Pearce, and T. L. Taylor, Ethnography and Virtual Worlds: A Handbook of Method (Princeton University Press, 2012); Heather A. Horst and Daniel Miller, eds. Digital Anthropology (London, UK: Bloomsbury, 2012); and Sarah Pink, Heather Horst, John Postill, Larissa Hjorth, Tania Lewis, and Jo Tacchi, Digital Ethnography: Principles and Practice. (Thousand Oaks, CA: Sage, 2015).
[57] Bassam Haddad, “The Syrian Regime’s Business Backbone,” Middle East Report, 262 no. 42 (2012). http://www.merip.org/mer/mer262/syrian-regimes-business-backbone
[58] Alister Doyle, “Syrian War Spurs First Withdrawal from Doomsday Arctic Seed Vault” Reuters September 21, 2015. http://www.reuters.com/article/us-mideast-crisis-seeds-idUSKCN0RL1KA20150921 報告書は次のように述べています:「ノルウェー農業省の専門家グレタ・イヴェンは、種子は国際乾燥地域農業研究センター(ICARDA)から要求されたと述べました。ICARDAは、この戦争のため2012年にアレッポからベイルートに本部を移転しました。「ICARDAは、保管庫に保管した325個のうち130個近くの箱を望んでいる。」」
[59] Haddad, “The Syrian Regime’s Business Backbone.”
[60] Manfred Steger, Globalization: A Very Short Introduction (Oxford: Oxford University Press, 2013).
[61] Joshka Wessels, “Syria Lifts Ban on Facebook and Youtube, Reflections on the ‘Egypt Effect’ in Syria” Sapiens Productions February 11, 2011, https://sapiensproductions.wordpress.com/2011/02/11/syria-lifts-ban-on-facebook-and-youtube-reflections-on-the-“egypt-effect”-in-syria-by-joshka-wessels/
[62] Manuel Castells, “Communication, Power and Counter-power in the Network Society” International Journal of Communications 1 (2007): 238–266.

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Figure 4: Photograph by André Mellagi https://www.flickr.com/photos/mellagi/
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Figure 6: Photograph courtesy of Lauren Miller Griffith.
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