目の前の踏切で人が電車に轢かれそうになっていたら、わたしもきっと助けるだろう。でもそのとき咄嗟に思うのは、「あの人を助けなきゃ」ではなく、「目の前で人が死ぬのを見たくない」な気がする。それってあんまり褒められるべき動機じゃない。
小学生のころ、国語という授業に意義を見出せなかった。
それ以外の座学は“頭の体操”“考え方の練習“だと思っていたし、単純に知らないことを知ることで自分が前進している感覚があった。でも国語は違う。漢字の学習(新しいことを覚える作業)を別にすれば、国語を学ぶことに「前進」感はない。授業で問われる問題は、日常的に日本語を使っていれば当たり前のことのように思えた。それは「解く」ものなんだろうか? 明確な解答があるのかないのかよくわからないことも、学習の対象として腑に落ちない点だった。
眞子さまが婚約されたそうだ。
しかし、なぜ皇族に「さま」づけしないといけないのかということは子どものころから疑問に思っていて、いまだによくわからないのでここでは「眞子さん」と呼ぶことにする。
というわけで、眞子さんが婚約したそうだ(正確には「婚約が決まった」ということらしいけど)。連日の報道を目にするにつけ、いきなり世間の注目を浴びる立場になってしまった小室さんや、出会いの場はもちろん、“愛を育んだ”デートの場所やその内容まで晒されてしまう二人には、正直気の毒だと思う。どうかそういうものに倦むことなく、きちんと愛を育んでいっ…
「自然は芸術を模倣する」とはよく言ったもので、わたしたちは作られたイメージの中でしか世界を認識できない。
写真を撮るときもまさにそうで、見覚えのある美しさを「絵になる」と思い込んでしまう(「絵になる」のではなく「そういう絵を見たことがある」のだ)。観光スポット、話題のスイーツ、自分的素敵ライフスタイル……そんな「ほかの人も撮りそう」な写真ばかりが今日もカメラロールに増えていく。
8年前か、とある日本画家を取材したときに取材後の雑談の中で、ふと9.11の話題になった。 「あの映像を見て、私は咄嗟に『美しい』と感じてしまった。そんなこと思ってはいけないのに。どうしようもなく心を動かされた。その責任をとらなくてはいけないと思った」
衝撃だった。少なくとも、わたしのまわりで9.11をそんなふうに見ている人はいなかったから。彼はそれ以前から描いていた”堕ちるイカロス”のモチーフをなかば敬遠しつつ(“横に堕ちる”イカロスは、恐ろしいほど9.11の映像に似ていた)、いまも別の素晴らしい作品を発表…
人は起きている間、ずっと考え続けている。もしかしたら寝ている間も、夢という形で考えてるのかもしれない。
そんなことはない、ただぼーっとしているだけの時間だってあるじゃないかと思いたくもなるが、きっとそこでも何かをぼーっと考えている。
普段は意識したりしない、そんな自分勝手な連想ゲームについて考えてみた。今にも途切れそうになりながら不意にアクロバティックな着地を見せたりする、人の思考というのはいったいなんなんだろう。
今日夕飯の支度をしていたら、夕陽の色が薄靄がかった空気に映えてすごく綺麗でした。本当に紫色の空気でした。沈む太陽とは別のほうには月も高くまで昇っていて、昼と夜の境目が一緒くたになって幻想的。窓からは吉祥寺の街とそこに続く中央線が見えて、なんか切ない感じの懐かしい感じがしました。
世界の秘密はいたるところに隠れている。
そう気づいたのは、小学校に上がって間もないころ。学校からの帰り道、青い空と緑そよぐ田んぼをぼーっと見ながら、ひとり歩いていたときのこと。
「1991年7月14日15時18分42秒は、歴史上あとにも先にも“今”だけにしかないんだ」
大発見だった。世界の秘密は、こんなふうに身の回りに潜んでいる。