回答|山口純

山口純
建築討論
Published in
Jul 2, 2020

202007 特集:自炊のように作る、賄いのように作る、 ビルドにコミットする建築家たちへの基礎調査

Q.1|自分で作った作品画像をご紹介ください。

作品という感じではないですが、これは京都市で空き家となっていた長屋を改修して利用者で運営している場所で、「本町エスコーラ」と言います。少し写真写りが悪いですね。私を含めた利用者によって継続的に改修が加えられています。

他に依頼があれば建物の設計施工をしたいのですが、今までのところそれ以外の制作が多いです。洋裁、製靴、木工、鍛冶、皮なめしなどをしています。

これは最近制作したブルーシートの「トンビ」です。

これは「スクラップ装飾社」という廃材でデザインをするチームに参加して制作したインスタレーションです。廃材で家具類を作って配りました。

Q.2|上記の際に描いた図面(画像)をご提供ください。
普段の図面と違うところ、例えば増えた要素、減った要素は何でしょうか?

これは最近スーツを制作したときの図面です。洋服の制作では一般的にはパターンの製図をもとに型紙をつくり、型紙をもとに生地を裁断します。しかしここではYouTubeで見たイタリアのテーラーの真似をして、生地に直接製図しました。制作するたびに失われる図面です。

これは「カサルーデンスのDIYレシピブック」です。カサルーデンスというのは友人らと行なっているDIYの研究と実践のグループです。この冊子は、いろいろな分野でDIYをしている人達からレシピを募集してまとめたもので、私は服の作り方を寄稿しています。

これは「スクラップ装飾社」で試験的に開発した「やわらかい設計図」です。一般的な設計図が制作を一意的に規定する「かたい設計図」なのにたいして、「やわらかい設計図」は即興的な制作のための設計図です。

(参考:山口純 「モノとの対話」としての設計の理論と実践 「物活論的設計論」と「やわらかい設計図」 日本建築学会学術講演梗概集、619–622、2018)

Q.3|作るための道具・設備の画像をご提供ください。 その道具によって生まれる制限や表出するものは?また素材との関係性もあればお答えください

これは皮なめしや動物の解体のほか、いろいろな用途で使えるナイフです。自動車のサスペンションのバネを叩いて作りました。皮なめしは、生の皮のもつ潜在的な性質を引き出すことで、工芸の材料になる皮革に変化させます。人間は布を織る前から皮をなめしていました。モノを作ることの一つのモデルとして理解できないかと思っています。狩猟もしようと思って免許をとったのですが、なかなか実行できていません。普段スーパーで肉を買って食べているときには何も思わないのに、いざ自分で動物を殺すとなると、いろいろ言い訳を考えている自分に気づきます。

Q.4|自分で作る上で、流通、材料、既存建築物、立地、施工者、施主など制作を取り巻く要素との関係性、 あるいはその変容はどのようなものでしょうか?

社会のエコロジー、環境のエコロジー、精神のエコロジーという三つの面から話すことができると思います。(参考:山口純、DIYとギフトエコノミー、建築と社会、2019年6月)

・社会のエコロジー

私が作っているものは、自分のために作るか、友人や知人といった互酬的な関係性のネットワーク、つまりコミュニティの中で作るものが多いです。これまで市場で購入していたものを、コミュニティの中で作るようにする。これを「コミュニティによる輸入置換」と呼べると思います。輸入置換はジェイン・ジェイコブズの概念で、都市が外部から輸入していたものを都市の中で生産するようになることです。それによって都市の産業が多様化し自律的になります。同様にコミュニティが、それまで外部から、特に市場から購入していたものをコミュニティの中で調達できるようになることで、コミュニティがエンパワメントされ自律的になると考えています。

社会的な問題だけではなくエコロジカルな危機という点からも、今日の資本主義社会は持続可能なものではありません。ポスト資本主義の社会と、そこでの建築やものづくりのあり方を構想する必要があります。私としては、市場経済からある程度間接化された領域を再生することが重要であると考えています。

・環境のエコロジー

材料も道具も、新品ではなく中古品、貰い物や廃材を使うことが多いです。規格化された材料と違いバラバラで、生きている感じがします。

モノが生きているとみなす「物活論」的な見方から設計のあり方を考えたいと思っています。物活論的な見方において、モノを作るとは、あらかじめ設計された形をモノに押し当てることではなく、モノとの即興的な対話のなかで形を生み出していくことです。(参考:山口純、物活論的設計論の方向性。Designシンポジウム2016)

設計と施工が分離した産業的な生産のあり方においては、施工者は設計のとおりに施工しなくてはなりません。納期を守らないといけません。不確実性は排除されなくてはなりません。するとモノとはどうしても人間によってコントロールされるべき対象としてみなされます。

DIYによって可能になる(あるいは可能にしやすい)のは、モノがコントロールできないことを受け入れてモノと対話する、非人間中心主義的で物活論的なデザインや制作のあり方です。

・精神のエコロジー

「探究」が、精神にとって大切だと思います。それは、自分はこういうのが良いと思うということを表現し、それにたいする外からのフィードバックを得て、それをきっかけに自分の習慣が更新されるというサイクルです。この変化の中にあるときに、精神は生き生きしているように思います。

資本主義社会においては、デザインも建築も計画的陳腐化の手法として組み込まれています。今はこういう生活は時代遅れで、ああいう生活がオシャレだというのを構想し広告する。資本の拡大に都合の良いように、モノだけでなく、人々の主観性が生産されている。そのなかで、自分の市場価値を高めていかないといけない気分になる。もともと自分はどうしたいのかなんて分からなくなる。

DIYにおいては、市場価値からはなれて自分がこういうのが良いと思うというものを作り、それについてのフィードバックをより直接的に得ることができます。それは、自分の価値観に準じて生きるという意味での自律的なあり方を可能にすると考えています。といっても、自分というものが環境から切り離されて存在するわけではありません。主観性のDIY的生産と呼ぶことができると思うのですが、モノだけでなく主観性の生産を、ローカルな人やモノのコミュニティのレベルで行うということが、DIYの意義かと思います。

Q.5|そこで得たフィードバックやループはどのようなものですか?
これまでの建築や設計を変えるような可能性をお答えください。

・対話を通した探究

本町エスコーラは、古い長屋群改修して利用していて、冬寒くて夏暑いとか問題がたくさんありますが、少しずつDIYで改善しています。食堂や台所などは共有です。価値観や趣味が異なる人たちが場所を共有しているので、誰が掃除するかなどの問題が絶えません。月一でミーティングをしており、利用者などのステークホルダーの話し合いで何とかしています。

建築設計だけでなく、現代の産業的な実践の枠組みは、消費と生産を分離します。生産者あるいは専門家がサービスを提供し、消費者がそれを享受する。この枠組みの問題は、イヴァン・イリイチが何十年も前に指摘した通りだと思います。つまり、それは人々を無力化するのです。それにたいするオルタナティブになるものは、「対話をとおした探究」としての実践だと思います。

「当事者研究」や「オープンダイアローグ」などの精神医療の分野での試みが参考になります。当事者研究では、患者が他の患者や医者と一緒に自分の病気を研究する。オープンダイアローグでは患者が家族やセラピストと一緒に自分の治療の方針について話し合う。これらの実践では医者やセラピストが患者に対して一方的に解決を与えるという従来の枠組みが崩されています。

建築や設計も、建築家などの専門家が利用者にたいして一方的に解決を与えるということではなくて、ステークホルダーとの対話を通した探究としてみなされます。それは、めんどうくさいものになるかもしれません。資本主義社会というのは、めんどうくさいものを、商品やサービスとして外からお金で買ってすませる社会です。逆に、コミュニティの輸入置換と言っているものは、めどくささを取り戻すことなのだと思います。

・支配なき建築

これまでの建築がほとんどいつも社会における搾取や自然にたいする搾取によってなりたってきたことは否定できない事実であるように思えます。現代では、お金を使わずには生活できない社会のなかで、体に悪くて面白くない仕事であっても仕方なく働く労働者がいます。少なくない建物は、そういう労働者がいてはじめて可能になるような作り方で建てられているように思われます。

設計と施工の分離、あるいはより一般的には構想と実行の分離というのは、指示する側とされる側というある種の権力関係を伴っています。DIYは、よりフラットな関係性をもたらしうるものであり、支配がない世界でも可能なモノの作り方を探究するものでもあります。それは施工者が現場の即興で形を生み出すものだと思っています。

・ポリフォニックな美学

建築家のなかには、独裁的に全てをコントロールすることで統合的で美しいものができるのであって、ステークホルダーのバラバラな意見をいちいち聞いていたら美しいものはできないと、内心思っている人が多い気がします。しかし多様なパースペクティブが同時に存在することによる美しさもあるはずです。それはオープンダイアローグが参照するバフチンのいう「ポリフォニー」の美学なのだろうと思っています。参加型デザインなどもそうですが、DIYもまた、美学的な可能性として捉えられます。

(参考:山口純、建築設計のセカンドオーダー・サイバネティクス−コントロールを諦める設計、日本建築学会大会計画系梗概集、2020(掲載予定))

Q6.|自分で作るにあたって不確実性をどのように捉えますか?
例えば問題が発生した際の解決策で特徴的なことは何ですか?

不確実性は時に不快ですが、それがなければ私たちは探究を進めることはできないし、生き生きと生きることもできないと考えています。

産業的な生産のあり方は、相手が人間であれモノであれ、不確実性を排除し予測可能なものにしようとします。コントロールしようとします。「意地悪な問題」を「おとなしい問題」に変えようとします。このコントロールを追求するやり方の逆生産性が、いま明らかになってきているのだと感じています。問題へのアプローチのモデルを「コントロール」から「対話」へと切り替えていくべきだと思っています。対話において人は、相手が人であれモノであれ、自分の予想から逸脱するものであることを受け入れながら、探究を続けます。

産業的な生産においては、その分野の慣習によって「何が問題で何が解決か」が、強く決まっていることが多いのですが、DIYにおいてはこれを、ステークホルダーの対話のなかで問うて決めることができます。産業的な生産においては不良品となるようなものでも本人たちが良いなら良いわけです。

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山口純
建築討論

デザインやモノを作ることの実践と理論的研究をしている。 博士論文「C.S.パースの記号論に基づく探究としての設計プロセスに関する研究」、 共著「お金のために働く必要がなかったら、あなたは何をしますか?」(光文社)。横浜国立大学産学連携研究員。武蔵野美術大学非常勤講師。