討論│使い手の関わりが生み出す可能性

072│2024.01–03│季間テーマ:生きつづける建築への道

山田宮土理
建築討論
Jun 7, 2024

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季間テーマ「生き続ける建築への道 ―使い手の関わりが生み出す愛着と許容―」について、様々な分野の4名の方々にご寄稿いただきました。その後、寄稿者の皆さんにお集まりいただき、それぞれの原稿をクロスレビューしながらテーマについて考える討論会を行いました。

寄稿

1.中村琢巳「 終わりなき民家普請」
2.宮西夏里武「家を繕う人々 -令和元年東日本台風被災地区・長沼に見られる自主修繕の報告- 」
3.岡田美智男「〈弱いロボット〉とコンヴィヴィアリティ」
4.溝尻真也「DIYの現在地 」

討論会

話し手:中村琢巳(東北工業大学)、宮西夏里武(竹中工務店)、
岡田美智男(豊橋技術科学大学)、溝尻真也(目白大学)
聞き手
:本橋仁(金沢21世紀美術館)、山田宮土理(早稲田大学)
2024年2月22日(木)、オンラインにて

山田宮土理(以下、山田): 建築業界では今、様々な問題に直面しています。例えば建設産業が大量に排出している廃棄物問題など環境に与える影響が大きく、持続可能性を創り出すために、どのような材料を選択し、どのように作るのかが今後非常に重要になると思います。それから深刻な人手不足の問題も抱えています。こうした状況のなか、使い手の関わりが多様な側面からこれらの問題に接続し得るキーワードになることを期待し、テーマに挙げました。
記事は様々な分野の4人の方々に執筆いただきました。
中村琢巳さんは建築史をご専門とされ、伝統民家における手入れやメンテナンス、古材転用など、まさに民家の生きつづける姿をご研究されています。宮西夏里武さんは大学院生時代に水害被災地において自主修繕を選択した方々を対象に詳細な調査を行われ、災害復興時の使い手が関わる具体事例を目の当たりにされています。岡田美智男さんはロボットの認知科学がご専門で、手のかかる不完全なロボットである〈弱いロボット〉を開発されています。溝尻真也さんは、メディアの研究がご専門で、最近DIYの社会学的研究に取り組まれています。建築分野に留まらずに分野の異なる皆さんにもお越し頂き、一歩先を行っているモノづくりに学び、一歩前進するために社会学視点からも議論できればと思います。

伝統民家の寛容な空間と重層的な構法

山田:まずは中村さんに伝統民家が“生きつづけてきた”仕組みについてお伺いできますか?

中村琢巳(以下、中村):今回のテーマは使い手側の愛着や許容という視点で許容という言葉が出てきましたが、伝統民家ではむしろ、空間構成として許容性、寛容性、懐の広さがあったことを指摘したいと思います。例えば土間や縁側、小屋裏は様々な使い方ができますよね。縁側はコミュニケーションの場にもなりますし、小屋裏は物置にも、改造して小部屋としてでも使えます。古材を受け止められる空間であったという点でも、寛容性のある建築だと思います。近世以降にこうした寛容性を持つようになります。今の住宅や建築では失われている空間の寛容性です。

多様な使われ方や改造のしやすい伝統的な縁側|写真:中村琢巳

山田 :古材を受け止められる空間というのは、具体的にはどういうところでしょうか?

中村:日常的には、小屋裏、床下の見えないところや、庇などの増改築で古材を使っていました。宮西さんの記事と関係するのですが、災害復興時に資材不足になると丸ごと古材で仮設小屋をつくるような古材建築も登場します。

増改築を受容する民家の小屋組みの空間|写真:中村琢巳

中村:もう一つは、住人が手を入れる部分について構法がはっきりと分かれていた点に伝統民家の特徴があります。例えば、障子や襖の仕上げは住人が関わってどんどん更新されていきます。

溝尻真也(以下、溝尻):障子や襖の張替えは、住人がやることが前提になっているのでしょうか?

中村:職人が張り替えることもあるけれども、住人が張り替えられるような構造になっています。骨組みは職人によってしっかり作られており、仕上げは住人が張り替えられる重層的な基本構造があります。それも1回きりのDIYじゃなくて持続するんですよね。障子の場合は1年ごとに張り替えるので、自分なりの空間のカスタマイズの行為が、延々と持続していました。

下地から仕上げまで重層的な構成の土壁(左)と襖(右)|図:中村琢巳

宮西夏里武(以下、宮西):伝統民家の場合では、職人しかできない仕事と、住人が手を入れていく部分のすみ分けははっきりしていたということでしょうか?

中村:すみ分けはきっちりと構法や部位でできていて、例えば土壁ならば小舞掻きや荒壁塗りまでは素人ができても仕上げは専門の職人がやる、という具合です。

お互いが緩く委ね合うコンヴィヴィアルな関係とブリコラージュ

岡田美智男(以下、岡田):この話をいただいたときに印象的だったのは「生き続ける建築」というタイトルで、建築を生き物として捉えるとはどういうことなんだろうと考えていました。僕らのロボットの世界だと、利便性や経済的合理性を追求していくと、何かをしてくれるシステムと何かをしてもらう人、という二項対立になってしまう実態があります。そうなるとシステムに対する共感性を失って要求水準をどんどん高めてしまう。一方、使う人にとってはやってもらうだけの状況になって、その利便性に隷属してしまう感覚がある。これを建築の話に当てはめたら、消費者として住宅を購入するのは便利なのですが一方では押し付けられている感じもして、そこに隷属してしまうのは寂しいことかなと感じます。私の記事ではイヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティのための道具」の話を出しました。コンヴィヴィアリティというのは、お互いの主体性や創造性を損なうことなく緩く委ね合った関係、自立共生しあう関係のことです。この関係をどのように維持できるか、という事に当てはめると議論が出来そうです。
それから、あれこれ部材をため込んでおき、あり合わせで作る、ブリコラージュの感覚が面白いですよね。経済的合理性で作られたものはクローズドなシステムになってしまって、使う人がそこに参加できる余地があまりないのですが、ブリコラージュはシステムとして外に開いていて、そこにユーザーが参加することができる。あり合わせの中で偶然面白いものができて、そこに愛着が生まれるという構図があるかもしれません。

山田:宮西さんが研究された災害復興時の自主修繕事例はまさにブリコラージュ的なものではないでしょうか?

宮西:そうですね。将来的には土を塗り直すという意識がある上で、暫定的にトタンなどの異なる材料を使った補修をよく見かけました。住民にとっては、みっともないという意識があるようでしたが、私はかっこいいなと思っていました。将来見据えてとりあえず、今できることをやる雰囲気が人間らしさだなと。岡田さんの著作を読みながら思いましたが、なんかかっこ悪いのですが、それが逆に愛着に繋がるといいますか。頑張ってる姿を見て、自分も頑張ろうと思えるみたいな連鎖反応が、災害時には特に活発になると思いました。

暫定的に修繕した被災民家の様子|写真:宮西夏里武

宮西:調査をしたお宅のなかには土壁だったところを小舞下地だけの状態にしている部分がありました。これで完成ですか?と尋ねると、10年くらいのスケールで考えていて、いい土が入手できたりお金が貯まったりしたら土を塗ればいいと考えている、と。今の住宅のように建てて終わりではなく、自分が生きていく人生の時間スケールで考えて住宅を更新していき、余地を残しながら先を見据えて住宅をつくっていました。そしてその行為自体に喜びを抱いていました。被災地というシビアな状況下でも住民が楽しみながら住宅と付き合っていることに可能性を感じました。

本橋仁(以下、本橋):仕事を委託したときには時間のリミットがどうしても生じますが、自分で関わるとリミットを排除できるわけですね。

山田:一方で、小舞下地だけの状態ということは、壁としては不完全な状態ですよね。家主の方はその状態をどのように捉えているのでしょうか?

宮西:その住宅は伝統的な農家住宅で、大きな家の中で使っていない空間もありました。小舞下地だけの状態にしていたのはその余剰空間でしたので、壁として不完全でも差し当たって問題ありませんでした。とりあえず台所や居間などの生活に必要最低限の空間を直して、余剰空間を少しずつ直していくという作り方です。

コンヴィヴィアルな関係をどうデザインするか

山田:岡田さんが〈弱いロボット〉と仰っているように、建築にも完璧でない弱い材料を使うことで、人が手を入れる余地があるし、地球に還って循環できることにも繋がるということがあり、今後の建築には必要な視点のではないかと考えています。
伝統民家の場合、使う材料が基本は自然素材なので、障子も紙だから破れることもあるし、茅葺も20年くらいで劣化してしまう、というように、使える素材の限界があったと思います。素材の弱さゆえに繕うことが前提になっていますよね。

中村:素材の弱さというのを別の言葉でいうなら、自然と人が共同で建築を作るということですよね。そのような感覚を伝統的に日本人は持っていたと思います。全部人間が作っているのではなくて、自然のシステムが作ったものを人間が使っているという意識があって、全部人間が作り込もうとしないところがあったと思います。

岡田:ロボットの世界では、いかに複雑な環境に適応するシステムを作れるかを研究しているのですが、そのときの肝になるのは、「多様な環境に適応したければ、作り込みを最小にして、その多くを環境に委ねる」という考え方をします。チープデザインと呼ばれています。

〈トウフ〉と呼ばれているロボット。「作り込みを最小にして、その多くをまわりの解釈に委ねる」との意味ではチープデザインの一つ |写真:岡田美智男

岡田:例えば言葉も、完全無欠な言葉を相手に投げかけるより、むしろ言葉足らずで相手の解釈をうまく取り入れながら一緒になって意味を作り上げた方が結果として納得感が増すようなことがあると思います。そんなふうに、色々なところに同じような図式がありそうなのです。私の記事のなかで、チキンラーメンのくぼみの話を出しましたが、全て完成されておらず手をかける余地がある部分が存在すること大事なことだと感じます。お互いの主体性や創造性を損なうことなく、緩く委ね合った関係、コンヴィヴィアルな関係をどうデザインしていくかという事かと思います。

本橋:「コンヴィヴィアリティのための道具」を建築と比較しながら考えたときに、そもそも建築は道具として捉えられているか、という論点があると思います。住宅の大量供給の時代からの反省として、例えば大阪ガスの実験集合住宅NEXT21のように、サポートインフィルやスケルトンインフィルという躯体の中で自由に間取りを変えられる試みは、様々なされてきました。でも結局インフィルさせるものも与えられるものになっていて、建築をそもそも道具として捉えられていないのではないかと感じます。DIYで小屋を作るような方々は、道具として捉えられている気もするけれど、多くの人にとっては、道具と捉える状況に行き着けていないのではないかと。

岡田:ロボットも組み立てキットのものもあって、自分で組み立てたものには愛着が湧くなどの効果(IKEA効果)が知られていますが、すべてを用意された組み立てキットとブリコラージュは違うんじゃないかと思います。組み立てキットは誰がやっても同じものができる予定調和的なところがありますが、ブリコラージュはオリジナリティが生まれる可能性がありますよね。建築も組み立てキット的になっちゃうとつまらない気がします。品質の高いものはできるのだろうけど、何となく誰かにしつらえてもらったような感覚が残りますよね。
最近、専門家がやっていた回路設計や機構設計、プログラミングなどがローコードやノーコードと言って、専門的な知識がなくても開発ができるようになっています。レーザーカッターや3Dプリンターと組み合わせて、自分でデザインに参加したオリジナルなものが実現できる時代になりつつあります。クリエイティブ・ロボティクスと呼ばれているものです。

人工木材のMDFを使って組み上げられたロボット〈Toi〉| 写真:ICD-LAB/豊橋技術科学大学

本橋:最近、山本貴光さんにテッド・ネルソンのパソコン黎明期の話を伺う機会がありました。パソコンのシステムが超DIY的に、ただ個人に必要な身体拡張にもなっている世界が、1981年にはすでに『リテラリー・マシン』として発表されています。我々が使っているコンピュータはそのOSに依存してしまうから、できることのリミットを感じます。一方でDIY的につくったシステムは、OSからだから拡張性が自在です。ただ、それが今、AIの力を借りれば、玄人でなくとも、そうしたOSからのアップデートを実現できるのではと思いました。この話は先ほどのクリエイティブ・ロボティクスと近いと思いました。

岡田: 「コンヴィヴィアリティのための道具」は1970年代に提起された考え方なんですが、コンピュータネットワークが流行った時代にもブームになった考え方です。教育系の分野でも共愉的な学びとして、流行の波がありました。今また流行の波があると感じますね。手軽に誰もがAIを使いこなせる時代なので、簡単に面白いロボットが作れる可能性が広がってきたと思います。

担い手は誰?家族のプロジェクトにならない日本

溝尻:海外のDIYに関する先行研究で、ある研究者がDIYをやる動機を大きく2つに分けています。やらなければならなくて仕方なくやるDIY(リラクタントDIY)と、やること自体が楽しくてやるDIY(ウィリングDIY)で、両者はグラデーションのように繋がっています。
私の場合は、趣味としてDIYをやっている人たちを研究対象にしてきたので、ウィリングDIYのほうですが、研究の大事な論点として、つくる主体は誰かという問題があります。日本のDIYは、実は1人でやってる人が圧倒的に多いんですよ。アンケート調査で誰とDIYをするかを聞いたら、6割ぐらいの人が1人でやるという回答でした。配偶者とやると答えた人が3割ぐらい。それが海外だと、自分たちの住まいをより良くするためにやるので、家族のプロジェクトになっている。家族みんなで話し合いながら役割分担して、作ったり補修したりしていくのが基本的なDIYの考え方になっているんです。日本ではDIYをやる人は増えているけれど家族のプロジェクトになっていないんですよ。でもそうすると、住まいへの愛着を深めることに繋がりにくいのではないかと思います。

本橋:家族のプロジェクトとなると、作業人工としてもできることの可能性が広がりますよね。

溝尻:実際にはある種のジェンダーギャップが生じることはあって、男性が力仕事、女性が重い工具を使わなくてもできる仕事を割り振られがち、というのはあります。ただ家族で話し合いや役割分担をすることは、少なくともアメリカ、イギリスの事例を見る限り普通のようです。住まいに対する感覚そのものが違うのかもしれません。でも宮西さんが調べられた災害復興の事例は、家族全体に関わりますよね。

宮西:調査で作業人数も調べましたが、家族の中でやりたい人が一人いて、それに家族が協力せざるを得ないという構図が多いですね。確かに家族のプロジェクトとしてやる人は少なく、家族が手伝ってはいても、家族で話し合って決めていくパターンはあまりみませんでした。

溝尻:やはりそうですか。何で家族のプロジェクトにならないのだろうと、私も考えているんですが、実はよくわかりません。家族をすっ飛ばして地域活動として展開する人もいるのに。

山田:溝尻さんの記事の中で、DIY女子の話もありましたね。女性がDIYをするようになってきていることは、家族のプロジェクトに近づく可能性も感じます。担い手の変化や違いによって対象物や作られるものはどのように変わっていくのでしょうか。

溝尻:元々ハンドメイドや手芸という言い方で、女性は手作りをずっとやってきました。研究者のなかでは、特にインテリアに対しては手芸が大事な役割を果たしていたのではないか、という議論が出てきています。昨今はDIYをやる女性が可視化されてきましたが、手芸の延長線上にある手作りなのでしょう。その背景には、ホームセンターで安く素材や工具が手に入るようになったことや、作ったものをSNSなどで人に見せることのできる環境が整ったことなどがあるんだろうと思います。

山田:DIY女子も1人でやっているのですか?

溝尻:配偶者とやる場合もありますが、1人のほうが圧倒的に多いんです。元々、内装に関しては女性の方が主導権持っている場合が多い気がしていて、そのこととも関連しているかもしれません。

本橋:手芸から続いている手を動かす営みの対象が住まいに変わってきているのか、住まいに関しての作る行為自体がもう一度復権してきているのか、どちらなんでしょうね?

溝尻:両方あると思いますが、女性たちも、昔から木工も含めて手作りはやっていたんですよね。日曜大工が流行していた時代は、男性的な趣味として語られていましたが、2000年代から徐々にDIYという言葉に取って代わられます。おそらくその時に、それまでハンドメイドと言われていたものも含めてDIYと呼ばれるようになって、幅が広がったのだと思います。

リビルディングセンタージャパン DIY基礎クラスにて|写真:溝尻真也

手を動かさなくても、ものの仕組みが分かってコーディネーターになること

山田:伝統民家の場合の担い手はどうでしょうか?

中村:伝統民家の担い手は、地域社会のコミュニティ、職人、家族の3つがありますが、実は家族は、明治時代ぐらいまではあまり手を出さずに指示を出しているんです。例えば大きな民家だと大掃除は家族ではやっておらず、出入りの職人や地域住民がやっている。家族は何をしていたかと言えば、料理などの振る舞いをしています。大きな民家の家族は職人たちを差配したり、帳簿をつけたりと、その役割はコーディネーターです。自分たちで手を動かすDIYと少し違いますよね。家族が手を入れていたのは、床の間に掛け軸を飾る、文人墨客の書画を飾るなどです。

本橋:家族はコーディネーターだとすると、実際に手を動かしていなくても住まいに関わる喜びを感じていたのかどうかが次に気になります。民家は近世から200年、300年も続いているものもあるわけですから、残されてきた理由が知りたいと思いました。すごく改造された民家もありますから、自分で手を動かしていなくても喜びを感じられたのかなとも思いますが。

中村:障子や襖の張替えは家族もやっていたので、表層の部分では参加していましたよね。それから木組みの構造も、実際に手は出していないけれども、昔は工事中の仮囲いはありませんでしたので、大工の作業を見てはいました。作り方がブラックボックスでなくて、少なくとも知識として家族が共有していました。

本橋:ものとして成り立つ仕組みがわかっていたということですね。

中村:建前の後の上棟式でお餅をまいたりするところまで、日本人だったら誰もが参加していて知っていましたよね。

本橋:商品化住宅に手を入れる余地がないのは、メーカーが問われる責任の問題が根本にあるような気がします。近世以前の民家では、大工、左官、建具などの各職人がそれぞれ責任をもっていたのが、現代のように工務店が一括で請け負うと全責任を問われてしまいます。ブラックボックス化して手が入れられなくなる背景がそこにあると思ったのですが、かつてのつくり方はどうだったのでしょうか?

中村:大型の寺社建築は大工棟梁が職人を束ねていて、大工棟梁に発注するかたちなのですが、民家は違っていて、明治時代ぐらいまでは、発注者である当主が大工、左官、畳屋など、それぞれ帳簿を作って差配しています。ですので実は伝統的な民家は、大工に発注して、大工が束ねるのではなく、直営方式で、家主がある種の建築家のように職人を束ねていた。職人を差配する知識が家主にあって直営の家づくりができた、というのが大きな違いだとは思います。

山田:例えばある家族にとっては家を作るってそう何回もない話だと思いますが、それでも職人の差配ができたというのは、どうしてなんでしょうか。

中村:家のメンテナンスのために、色々な出入りの職人が文字通り日常的に出入りしてたことが大きいと思います。それから先ほどの話で町の風景として家づくりがオープン化していたことですね。伝統的な暮らしをしていれば、いろいろな職人の姿は見ていたということかなと思います。

本橋:パソコンや家電製品等でメーカーを通さず自分たちで修理する権利(right to repair)が求められていて、建築でも同じようなことが言われ始めています。直すことに主体的になることというのは、ものの仕組みを自分で知ることですよね。

山田:修理する権利はEUが出した循環型経済行動計画(Circular Economy Action Plan)の中で掲げられた思想ですよね。廃棄物を生まない仕組みとしての位置づけがあります。やはり持続可能性というテーマに繋がるんだろうと思います。

溝尻:昔は大工さんの仕事を見る機会があったというのは、確かに私の子供の頃を思い出すとそうだと思っていました。一方で、今そういうプロセスがブラックボックス化してしまったのならば、色んなメディアがそういうプロセスを可視化していく役割を果たす状況が出てきていると感じます。DIYをやっている方々にお話聞くと、わからないことがあると大体YouTubeを見てるんですよね。どの作業でも動画が上がっている状況がある。それからSNSでも、ものすごい数のインテリアや住まいの工夫のような写真や動画をあげている人が何十万人もいるわけです。自分の住まいをどのようにしていきたいか考えられる入口が多様化してきていますよね。それがこれから先の住まい手の意識にどのように影響していくのかは興味があります。

現実社会で醸成するためには

山田:使い手が手を動かすこと、あるいはコーディネーターとして建築に携わっていくということを、今の現実の中で醸成していくにはどうすればよいでしょうか?

宮西:修士設計で、実際の被災地の住民の方を対象にして、修繕を生かした建築の作り方を提案しました。そのときに使ったやり方が、僕が調査した7世帯の自主修繕の実態を図鑑のようにして施主に提示して、どれなら自分が真似できそうかを分類することを最初のステップにしました。そうすると施主ができる修繕の範囲がわかると同時に、建築家のやりたいことを伝えるコミュニケーションツールにもなり、合意形成をしながらDIYを一緒に考えるやり方になると思いました。住民にとっての修繕のビジョンや手を加えられる余地をくみ取りつつ、建築家がどういうものが設計できるか、受動的に相手に一旦委ねてそこから帰ってきたものからもう1回組み立てるコミュニケーションの仕方があるんじゃないかと思って研究をしていました。

被災地の住民の方を対象として、修繕を生かした建築の作り方を提案した修士設計|宮西夏里武

山田:新しいコミュニケーションの方法として面白いですね。
岡田さんにロボットの場合を紹介頂きましたが、建築は動かないものであるというのが決定的に違います。また、性能や機能に対して不完全でいいと捉えられないこともあり、他のモノづくりより難しい側面を持っていると思います。

岡田:例えば、建築基準法で補償できるような建築が素人でできるのかというのを外から見ると感じます。ただ作る主体が誰かと言ったときに、施主がプロデューサーとなってつくる人を揃える、それは自分の手から離していないわけですよね。それがだんだんすべてお任せになって離れちゃったのかもしれないですね。我々ロボットの世界も同じような感覚があって、プログラミング、機構設計、デザインなど色んな専門があって1人ではできない世界なんですよね。全体統合をしているのはプロデューサー的な立場で束ねる人ですよね。このプロデュースがきちんとできれば専門知識がなくても自分のつくりたいものがつくれますよね。

山田:そうするとやはり施主の直営で職人さんに頼むようなやり方が、一つあるんですかね。

本橋:石山修武さんの開放系技術というか考え方が40年程前に提唱されていて、施主が直営でやるのがコストも下がるし主体的になれるという考えがありますが、なかなか行き届かないのは、余裕がないからなのでしょうかね。単にDIYすればいいというわけではないでしょうし、建築は半公共的な性格もあって、自分が求めなくても法律上求められる性能があるので、難しいところですね。

中村:色んな関わり方のメニューを用意することだと思います。一つ言えるのは、障子や襖の張替えといった身近な最終の仕上げを、建築の中で復権していくのはあると思います。それは住まい手やユーザーが必ず関われるところです。
それから日本の伝統建築は、繕いの美があります。継ぎ手仕口のジョイント部分、つぎはぎのところを、不格好ではなく美しいとみる美意識がありました。器の金継ぎもそのような美意識の一つだと思います。日本人が持っていた繕いの美学の復権というアプローチもあると思いました。

宮西:被災地で面白かったのが、皆さん住宅も大変な中、庭いじりに目覚める方が多かったんです。庭って植栽を植えたり、剪定をしたり、すごく手を出しやすい場所だなと。それをやることで心安らげるなど、行為自体に喜びを抱いてるのが特徴的な風景だなと感じていました。繕いのプロセスそのものに愛着を感じるところが印象的です。
それから、やらざるを得ない修繕とやって楽しい修繕との間が、他者に対して愛着を抱かせたり誰かに語り掛けたりすることに繋がると思っています。単純に自由に内装をDIYしたものを人に見せても、それはその人にとっての良さでしかないけれど、例えば屋根を修繕しなければならなくて、あり合わせの材料が使われていて、でも作っていて自分も楽しいと感じるような作業だったときに、それを見た人が共感して自分もやってみようという連鎖反応が起きるように思います。やらざるを得ないものとやっていて楽しいもののバランスが、愛着や建築を考える上で大事なところだと思っています。

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山田宮土理
建築討論

やまだみどり/早稲田大学理工学術院准教授、博士(工学)。専門は建築構法・材料。1985年神奈川県生まれ、2008年早稲田大学理工学部建築学科卒業。土や左官の建築や土着小屋の調査、自然素材を使った循環型建築に関する研究などに取り組む。受賞にSDレビュー2019入選、2023 SD賞、日本建築仕上学会論文奨励賞など。