ワークライフバランスなんてのがあります。少し次に挙げるものの下の方でも書きましたが。正直ワークとライフを分ける理由がさっぱり分かりません。ライフワーク(あるいはなぜ生まれていたと自分で思っているのか)とでも言えるものをやるためのライフじゃないんですか? そこでは分けようという事自体、ナンセンスにしか思えません。
とは言っても、コンピュータにアップロードするとか、そういう話ではありません。
コンピュータに関連して言えば、人工知能がいずれ到達するであろうSigularityについて考えてみます。そこにはたぶん知性があるとみなされるでしょう。
だとすれば、知性というのは人間の脳という媒体に依存するものではないのでしょう。
ちょっとした遊びです。まぁ、限界というよりも、今までのところでの質的な上限についてです。
長いですけど、前説。
抽象的思考については、何をもってそう呼ぶのかについて議論はあるでしょうが、壁画を描いた時点で一定の抽象的思考の能力を持っていたのでしょう。幾何学模様というような話でなくとも、3次元の物体を2次元に投影し、それを3次元のものと(おそらく)認識していたのでしょうから。例えばそこから文字や数という概念に至るのに時間がかかっていたとしても(文字については実際に時間がかかったと考えられています。言語の発生はいつなのか不…
ショートショートの方に進化の渦の中でから、今のところ最新なのが69年めのものがあります。この中では、高知性人類(いや、人類に限らないけど)と普通の人類を扱っています。こういう分類をすると、選民思想に結びつけるような話があります。
この際、考慮に入れる事は、まず第一に能力は、例えば数直線の正の方向への一方向だけではないということです。喩えて言うなら、原点(x-y座標で0, 0)から360度、あらゆる方向に向いています。あるいは球の0, 0…
以前、書いた気もするけどなんか見当たらないので。ただ、少し違った感じで。
猿の惑星:新世紀(それに限らず)の評判なんかを読むと、現在の世界情勢とかなんたかかんたらと、現実世界に足を付けさせようという評判を目にします。
んー、いや、それって必要な解釈なのかなと思います。
監督や台本の人、あるいは媒体では著者が、現実世界に作品を着地させようとしていたとして、だから何なんでしょうか?
”ANTHROPOMORPHISM: FROM ELIZA TO TERMINATOR 2", Abbe Don (and other panelists), CHI’ 92, pp. 67–70, ACM CHI(かな?), 1992.
先日、「ブルースクリーンに表示されるテキストのオリジナル版はスティーブ・バルマーが書いたものだった」という記事がありました。まぁ、これは誤報とのことですが。
ほんの40年前の本を読んでみてください。必ずとは言いませんが、それなりの割合で、「言い回しが少し古い」と感じる事があるはずです。
あちこちでいわゆる「1世代」を何年に区切るかという話がでることがあります。これは平均寿命という話ではなく、むしろ生まれてから、自分の子供を社会に送り出すまでの期間という考え方の方に沿うものです。あるいは社会を構成する人が入れ替わるのにどれくらいの時間がかかるかという言い方でも良いかもしれません。実際には、もちろん、毎年、あるいは毎月、あるいは毎日、生まれたり入れ替わったりしているわけですが、そういう実際の世代や年数というより概念上の世代です。これは…
「真空の海に帆をあげて(アシモフの科学エッセイ<12>)」, アイザック・アシモフ(山高 昭 訳), 早川書房, 1988.
この中で、「58 焦点を鮮明に」の最後にこういう一節があります。
宇宙の全般について、われわれはどれだけ多くのことを学ぶだろうか―その起源、発展、予想される終末について? われわれが何を発見するかは、予想もつかないのである。
ほんとうを言えば、それこそが胸のおどることなのだ。新しい発見の本質が予測できるものならば、どうして手間をかけて実行するこ…
「生命と非生命のあいだ(アシモフの科学エッセイ<4>)」, アイザック・アシモフ (山高 昭 訳), 早川書房, 1978.
これに、「21 われら”中間型生物”」と「22 誰かそこにいますか?」というエッセイがあります。21の方は、シリーズ(?)1巻目にも同じようなエッセイがあったと思います。22の方にはこういう一節があります。
だが、それらの惑星のうち、どれだけが知性ある生物を宿しているのだろう?